実を言えば、同じ年齢の人間とはあまり話をしたことがなかった。
おかげで経験値が積み上がらなかった。
苦手だ。
青臭いものの考え方も、まだるっこしくて遠回りな思考のあり方も。
だから、同級生を避けるようにしてさっさと学校生活を終えてしまった。
そうまでしたというのに。
悪いことに、仕事でどうしても同じ年齢の男と関わらなくてはいけなくなってしまった。
そして多分、そいつは特別製らしい。
ずかずかと内側に入り込んでくる。
それを止める手段が今のところ見つからない。
内側から狂わされる感覚に、トーマは最近調子が狂いっぱなしだ。
せっかく早い内に本部に行って夜勤の人間と交代し、人のいない快適な環境下で仕事を進めておこうと思ったのに。
トーマが端末の前に落ち着いたかどうかのタイミングで大が何やらぷりぷり怒りながら本部にやってきた。
「……トーマ、なんで……」
れっきとしたDATSの人間ではあるのだが、年齢的に夜勤が許されていないトーマがこの時間にいるとは思わなかったらしい。
一瞬、大の顔がぱっと紅くなる。
それで、トーマも戸惑ってしまう。
だから、慌てて言わずもがなの返答を探してしまう。
「仕事があったから早めに来ただけだ。ガオモンも一緒だ」
大人しくソファに落ち着いていたガオモンが、ソファの背越しにこちらに顔を向けた。
「……そっか……俺、俺も仕事があって」
しどろもどろに言いかけた大の言葉は彼の手にしたデジヴァイスの中からの声に遮られた。
「嘘つけ、大がトーマみたいにデスクワークなんかできるわけないだろ!」
「うるせえよ、アグモン!」
一瞬にしていつもの自分を取り戻した大は「ガオモン!」と叫んでデジヴァイスを投げた。ガオモンは慌ててアグモンが収まった小さな機械を受け取る。
「わあああ!」
アグモンが悲鳴を上げた。
「ば……!何をするんだ!」
デジヴァイス自体は現場での手荒い使用を想定して作られているもので、落とした位で壊れるような柔なものではない。だが、デジモンは自分のかけがえのないパートナーである。そのデジモンがいるデジヴァイスを非常事態でもないのに投げるだなんてこと、考えられなかった。
「アグモンはデジヴァイスの中に入ることに慣れていないのだろう?そんなことをしたら精神的ダメージを受けるんじゃないのか?」
トーマが指摘すれば、大は少しだけ決まり悪そうな目をして、それからぷい、と顔を背け手近の椅子に座った。
「ガオモンなら落とすようなことはねえだろ?」
「当たり前だ」
ガオモンはふん、と鼻を鳴らした。
「チキショウ!卑怯だぞ!」
アグモンはデジヴァイスの中で憤慨している。
(静かな環境が台無しだ……)
トーマはため息をついた。
「ガオモンが落とすとか落とさないとか。そういうことではないだろう?今のはどう考えても君が悪い」
「……るせえ」
大はトーマの指摘にぴくりと震えると、小さくそう言った。
始末に負えない。
一気にDATS本部は険悪な空気に包まれてしまった。せっかく人のいない時間に仕事を進めてしまおうと思ったのに、迷惑この上ない。
「聞くつもりは毛頭ないが、アグモンと険悪な雰囲気になっているいるのはなぜなのか言いたければ言えばいい」
「別に、険悪になんかなってねえよ」
「ねえよ!」
ケンカをしていてもこういうところは息がぴったりである。トーマはため息をつく。ガオモンは首を傾げていた。
「それならば別に言わなくても構わない」
「アグモンが!」
大がトーマの言葉尻を取り上げるようにして大声をあげる。どうやら「聞いて欲しい」ということのようである。
「アグモンが、俺の卵焼きを盗ったんだよ」
「そんなことでいちゃもんつけるなよ。大のケチ!」
「……呆れたな」
トーマはこめかみを押さえた。
「この件については、アグモンを支持する。大、それはあまりにも情けない」
「違う!それだけじゃねえよ。それは単なるきっかけで。本当の問題はアグモンが、デリカシーのない発言をしやがったことだ!」
「それはこっちの台詞だぜ!」
更に、トーマはため息をつく。
「よもや君の口からデリカシーなんて言葉を聞くとは思わなかったな。今日は記念すべき日だ」
ガオモンはこくこくと同意の首肯をしている。
「トーマ、言っておくがこれは男のコケンに関わる問題なんだぞ?」
「わかったわかった。それは大変なことだったな。もういいか?」
「んだよ……冷てえなあ」
トーマはため息をついた。
どうにもこのチームメイトは不可解だ。こういうのには関わらないに限る。
「くだらない争いに巻き込まれるつもりはないんだ」
「くだらなくねえよ!」
「ねえよ!」
「……」
トーマはさっさとこの同僚コンビを放置することに決めて、溜まる一方のデスクワークに専心しはじめる。ガオモンはそんなマスターの心をちゃんと過たずに読んで今は大人しくお茶をいただいていた。緊急事態に備えてパートナーは常にすぐ近くにいる。それが当たり前のことだ。
トーマはちらりとすぐ脇の椅子にふんぞり返っている大を横目で見た。
向けられた視線に気付いたのか、すぐに目が合う。と、珍しく向こうからぷい、と逸らされた。
「……」
つい、おかしくて吹き出しそうになった。そんな自分に気付いて慌てて顔を引き締める。
正直なところ、大とアグモン、どちらの言い分が正当でどちらが的外れなのかについてはどうでもよい。
仲裁をする気などもちろん、ない。
本人には「呆れた」と言ってみたものの、正直なところ「理解できない」と言う方が遙かに近い。
(大のやることはいつでもそうだな)
ふと、端末の上に滑らせる指を止める。
トーマにしてみれば、同年代の人間が考えることは大抵「理解できない」ことである。
一目見ただけで頭の中に途中式から解までが浮かぶような数学の方程式が解けないのが理解できない。
小論文の意図するテーマがすぐにわからないことが理解できない。
大人の思惑や社会のルールがそこにある理由が納得できないことが理解できない。
トーマにとってはいつだって明瞭な世界が不透明に見える連中が理解できない。理解できない人間を理解するための努力を惜しむ趣味はない。だから、理解できない人間は己の世界から排除する。
ずっと昔からそうだった。
そんなトーマのことを他人はみんな「天才」と呼ぶ。
何かを会得するとき、特に努力をしなくてもあらゆることを水を飲むように吸収することができることが「天才」というのならば、言われる通りきっと自分は「天才」という人種なのだろう。トーマにもそれは理解できた。
だから「天才」と呼ばれてしまうのは仕方がないことなのだろう。
別に構わない。
ただ、それは威力を持った言葉だった。
誰かがトーマを「天才」と呼んだ瞬間、意図的にあるいは無意識に見えない境界線が引かれる。それはあっという間に溝になり、深い深い断絶ができてしまう。そしてそれが埋められることは永遠にない。
それは、日常茶飯事だ。トーマは今や、肌でその瞬間を感じ取れる。
何気ないトーマの発言に、行動に、誰かが与える情報に、人は敏感に反応して空気は化学変化を起こす。
一瞬にしてその場の居住性が変わる。言ってみればわずかな気圧の変化、そのようなものだ。少しばかり鬱陶しいが、堪えられない程でもない。じきに慣れる。それもまたいつものことだ。
それを別段不思議と思ったことはなかった。悲しいとも思わない。当たり前だと思っていた。
トーマのすぐ隣で不機嫌を隠そうともしない大門大に会うまでは。
「あー、もうイライラするぜ!なあトーマ、勝負しようぜ、勝負!身体がなまって仕方ねえや」
何度目か、隣で大がこれみよがしの大声をあげる。トーマは間髪を入れずに応える。
「断る」
「じゃあ、ジムでもいいや。とにかく身体動かしに行こう」
「……断る」
「っだよ!ノリが悪ぃヤツだなあ」
ぶつぶつ文句を言われた。
大の不機嫌な様子などトーマとしては目視確認する気にもならない。
「僕は今、一昨日君がやった無茶の後始末をしているところだ。大がDATSに来てから処理すべき項目件数が一気に一桁増えたから、脆弱だったフローチャートから見直してやり直した。もうすぐ終わる。邪魔をするな」
「……っだよ、それ……」
「僕の代わりにやるというのなら、生データの段階から渡すが?」
「……脅迫すんな」
大の語尾が小さくなっていく。
「トレーニングがしたければ一人で行けばいい。勝負なんて論外だ。子どもじゃあるまいし、誰かと連れだってでなければ行動できないわけでもないだろう?」
「うるせえなあ。一人より誰かと一緒に行った方が面白ぇだろ?そんなこともわかんねえのかよ」
「わからないな」
大は理解不能だ。
多分今まで会った人間の中で一、二を争う。
デジモンに対して平気な顔をして素手でケンカを売るし、常に脊髄でものを考えて行動している。迷いがない、と言えば聞こえはいいが要するに反射だけで行動している。あの素早さはとても判断を脳に委ねるまで待っているとは思えない。
それ故だろうか。
トーマが「天才」と呼ばれていようが、名家の子息だろうがまるで頓着しない。
この男の中ではトーマ・H・ノルシュタインは大門大と同じ地面に立っているし、溝どころか境界線すら存在していないらしい。
とりあえず大といて、あのいらつくような気圧の変化を感じたことは一度もない。
(相変わらず理解不能な男だな)
だが、大が今まで出会った人間と決定的に違うところが、ひとつある。
大は決してトーマとの間に境界線を引こうとはしない。
同じ年齢の人間をトーマが理解できないのはいつものことだが、相手から線引きされないのは初めてのことだった。
大は平気な顔をして、トーマに話しかける。アグモンに話しかけるのと同じ気易さで話しかけてくる。きっと、学校のクラスメイトにも同じ声で話しかけるのだろう。
それはひどく新鮮な体験だった。
そして初めて、知る。
今まで同年代の人間の間で自分が置かれていた状況は「孤立」と呼ばれるものだったということを。
大はすげないトーマの態度にも一向めげることがない。
「じゃあ、トーマがそれ終わるまで待っててやるよ」
「誰もそんなことは頼んでない」
「遠慮するなって!」
これ以上反論してもエネルギーのムダになる気がしてトーマは口をつぐんだ。これで結局はデスクワークをこなしたトーマがガオモンと連れだってトレーニングルームに向かう時に当たり前に大はついてくるのだろう。
いや、大に言わせれば「トーマを待っててやった」のだから、そんな表現は不服に違いない。
トーマは小さく息を吐く。
(やっぱり、大とアグモンのケンカは自分にとってはいい迷惑だ)と結論づけた。
アグモンとの間で断絶しているコミュニケーションの分だけ、大が自分に関わろうとしてくる。まるで、誰かと親しい交わりを持っていなければ窒息してしまうとでもいうかのように、まとわりついてくる。
おかげで、普段は落ち着いている思考が乱れすぎてしまっているではないか。
だからと言って、彼らの仲裁に入るつもりは一向にないトーマである。
「新しいお茶を煎れようと思うのですが、マスターもどうですか?」
ガオモンがすい、とトーマと大の間に割って入った。
「お!悪ぃなガオモン!俺、コーヒー熱め、ミルクと砂糖入りで頼む」
「私はマスターに尋ねているのだ。大にではない」
ガオモンは理想的なパートナーだと、トーマは思う。
マスターの心を理解して、常に細やかな心遣いを見せてくれるし、勇敢で賢い。
トーマはパートナーに「ありがとう。だが、今は結構だ。自分の分だけ煎れてくるといい」と微笑みかけた。
大は不服そうである。
「なんだよ、お前ら!人間もデジモンも性格悪ぃぞ」
「へん!誰が大になんかお茶を煎れるかってゆーんだよ!」
デジヴァイスの中からアグモンが喚いた。
「うるせえぞ、アグモン!」
トーマにしてみれば、自分とガオモンの関係はごくまっとうで当たり前のパートナーシップだ。同僚がパートナーデジモンといさかいを起こすこと自体が理解できない。
(ああ、ここでも理解不能だ)
アグモンは大に対して、忠誠を誓うというよりはより対等な仲間に近い感覚で接している。コンビによってその関係性は様々だとはいえ、ここまで深刻なケンカをすること自体ありえない。
背中で喚いている大の声を聴きながら、つい思考の淵に身を躍らせている。
最近、考えることと言えば大のことばかりだ。
理解不能即排除、といういつもの調子が大に関してはまるで当てはめられないのは、彼が同じチームメイトだからだろうか。
(そうに決まっている)
そうしてまた、ちらりと横にいる大の顔を盗み見している。
一から十まで自分とは違うパーツだけで構成されているような男だ。
お互いの人生がクロスするようなことは、本来ならありえなかった存在だ。なのに、ひょんなことから深く関わらざるをえなくなってしまった。
だから気になっているのだ。
「……何見てんだよ」
ふいに、目があってしまった。
例えすぐに逸らしても、トーマが大を見ていた事実は変えられない。
何かいいわけを考えようととっさに思ったが、うまく口が回らない。
「別に……」
まただ。
また、調子を狂わされた。
「少し、休憩しようと思う。大、外に行くのにつきあってくれないか?」
大は、トーマの申し出に一瞬面食らったように言葉をつまらせる。だが、すぐににっこり満面の笑みを見せた。
そのことにほっとする自分を、トーマは胸の片隅で意識する。
本当に、自分はおかしい。
「いいぜ!行こう!」
大としてみれば、アグモンと一緒の空間にいるのが気詰まりだったのだろう。トーマの申し出は渡りに船といったところに違いない。気まずいならば一人でどこかに行けばいいのに、そうしないのは大本人も何か心苦しいところがあるからなのだろうか。
「マスター、私も……」
「いや、ガオモン。アグモンを一人にするのもなんだからここで待っていてくれ」
「……イエス、マスター」
少しだけ不服の心を滲ませてガオモンが引き下がる。
大は上機嫌でトーマの肩を叩いた。
「そうそう!デジモンはデジモン同士、人間は人間同士、積もる話もあるってことだ」
「別に君と積もる話はないが」
言いながら二匹のデジモンをおいて、本部の外に出た。
DATSの建物を出た目の前には、緑地帯がある。
ささやかな植え込みの緑と、ベンチ、そして小さな四阿。その程度の設備だが、水辺を臨むスペースはDATSの人間たちの多くがお気に入りに数えていた。何気なく配置されているように見えて、ベンチや四阿はそれぞれ植え込みや灌木の影に隠れ、舗道からは様子を伺うことができない。訪れた者がパーソナルスペースを確保できるところが、その人気を決定づけていることは言うまでもない。
示し合わせたわけでもないのに、なんとなく二人して連れだって四阿の方に歩いていく。
今日はあいにくの曇り空だが、それでも風は優しく頬を撫でていく。
トーマの半歩横に大が並んで歩いていた。
それでトーマはなんとなく、大きく空気を吸い込んでみる。肺いっぱいに満ちた清浄な酸素がとても心地よい。
「やっぱ外の方が気持ちいいな」
突然、横を歩く大がそう言うので、驚いて横顔を見つめた。
「なんだ?」
「いや、ちょっと驚いただけだ」
「ふうん」
「何に?」とは尋ねてこない。大は頭の後ろで手を組んでトーマと並んで歩く。
また風が二人の間を吹き抜けていった。
大とは歩幅も、歩く速度も違うのに、最終的にはほとんど真横を歩いている。
ほどなくして四阿にたどり着く。コンクリート造りの素通しの建物は屋根の下にテーブルとそれを囲むベンチが各辺四つ作りつけられている。
二人してテーブルを囲んだ斜向かいに座って黙り込んだ。
経験則的に言うならば、大といることに慣れる程の時間は経っていない。同じ年齢の人間と二人でいることにまだ慣れてはいない。
(でも、大分違和感がなくなった)
そう、トーマは思う。
だが、違和感はないものの、今日は少し勝手の違う気まずさがある。
この似て非なる感覚は気鬱をあっという間に呼びこむと決まっていた。
トーマは早くも二人して外に出て来たことを後悔し始めている。
腰を落ち着けたからには何か話をした方がいいのだろうし、そのきっかけは恐らく外に誘ったトーマが作ってしかるべきなのだろうとも思う。
だが。
何を話せばいいかわからない。
本人は認めないだろうが、アグモンとケンカをしているせいで、多少いつもと勝手の違う大に何を話せばいいのかトーマは迷っている。
そのことにひどい戸惑いを感じている。一緒の空間にいることは奇跡のように馴染んでいるのに、そこから先が上手くできない。
大といると端からペースが狂っていくのがよくわかる。
大はといえば、あちらもまたらしくもなく黙りこんでいる。四阿のテーブルに置いた手をせわしなく何度も組み替え、唇を噛み締めていた。
ふいに、大が口を開いた。
「……トーマは、さ、ガオモンと険悪になったことねえのか?」
目を逸らしたままおずおずとものを尋ねるのは、現状がよいものではないと思っているからなのだろう。
「考えたこともないな」
トーマは探していた話の糸口を大に与えられて、少し余裕を取り戻す。
「僕とガオモンは完璧なパートナーシップで結ばれている。むしろ、大とアグモンがどうしてああも仲たがいできるのか不思議な位だ」
大はようやく顔をこちらに向けた。
「マジかよ」
「ああ。きっとガオモンも同じことを言うだろう」
大の頬が染まる。
「なんか……ずりぃ」
言われてつい、苦笑してしまった。そうくるとは思わなかった。大の発想は常にトーマの斜め上を行く。
「ずるいとはなんだ?別にずるくはないだろう?パートナーとの関係は様々だ。大達ほどではなくてもパートナーとケンカするやつもいないわけじゃない」
「そうじゃねえよ」
ふわりと破顔する。
「なんかトーマにそんなこと言われると落ち込むだけだ」大は苦笑してテーブルに突っ伏した。盛大に溜息をつくと目だけ上げてトーマを見つめる。
それだけのことで、心臓が跳ね上がるのを意識する。
「……」
ひどく困っている。というより、狼狽えている。
だから、大は侮れない。
大はトーマの中で軽いパニックが起きているのを知らない様子で、こちらを見上げる瞳に苦笑を宿す。
それから、小さくため息をついて言った。
「俺が悪いと思ってるんだろう?」
トーマは一瞬言葉につまる。
が、なんとか復調に成功した。
「別にどうとも思っていない。そう言って欲しいならそうするが?」
大は瞬時に赤くなってまた顔を背ける。
「そんなことねえよ。悪いのはアグモンだ」
トーマは苦笑を隠せない。
なんとなくくすぐったい感じが、心地よい。
大は大門家の家長的存在だと理解している。失踪した父の代わりになろうと思い、そうであることを意識し自覚している。
かと思うと一方ではケンカっ早い子どもの顔もまだちゃんとその身の内に持っている。
トーマに言わせればアンバランスで理解不能な存在だ。
だが、大が誰にも頼らず自分の足でしっかりと立つことを知っているという点については疑っていないし、信頼さえ抱いている。
その大が。
微笑が自然に浮かんだ。
「まさか大に甘えられるとは思わなかった」
トーマの声に大がたちどころに反応する。
「てめぇ!誰が甘えてるって?」
立ち上がってトーマの襟元を掴んだ。
トーマはさせるがままにして大を見つめて笑う。
「違ったのか?誰かにお前が悪いと決めてもらうのは楽だろう?どうやらいつになく弱っているらしいから楽になりたいなら手伝おう。そんな風にらしくない大を見ているとこちらまで調子が狂う」
再び大の頬が染まった。
「意地悪ぃぞ、トーマ」
襟元を掴む力がだらりと抜ける。
いつもの大ならここから本格的に食ってかかってくるところなのに。
よほど、パートナーとの仲違いが堪えているということらしい。
なんだか、胸の奥がもやもやとした。
トーマはため息をつく。
「おかしいのは事実だろう?文句を言われる筋合いはない」
くしゃりとへこむようにして大が息をつく。
「ダセぇよなあ」
「同感だ」
まだ大の指は襟元にからみついたままでいる。その頼りない力を意識する。
「トーマだってガオモンとケンカしたらこういうダセぇ気分になるんだぞ?」
「僕はガオモンとケンカなどしないからその心配はないな。だが……」
言いかけて口をつぐむ。
視線は大と合わせたままだ。
言葉はまだ出てこない。喉の奥で凍りついている。
思いの他、顔の距離が近いことに今更気付く。
気付いた途端、何か気の利いた声をかけるより他にしたいことができてしまった。
大の指は相変わらず襟元にかけられている。
顔を、近づけた。
唇が。
唇に。
「……」
「……」
二人して目を開けたままだったのはどういうわけだろうか。
離れて、トーマは硬直している大の顔をまじまじと見つめる。
それから、もう一度顔を近づけてみた。
唇に唇で触れるだけの行為は、だけなのにひどく特別な行為だ。
少なくとも二人で交わしているこれは、特別な意味を含んだキスだ。
だが、それが特別だとわかっていても、特別の中身がどんな配合でできているのか、実のところトーマにも説明はできない。
大にはできるのだろうか。
二度目のキスも、やっぱり二人して目を開けていた。
「……っ!」
離れる時、大の乾いた唇の表面をわずかに舌先で舐めれば、それがスイッチだったのだろうか。大が大きく身体を奮わせた。
「……」
「……」
それでまた二人して見つめ合ってしまう。
「……」
「……」
三度目のキスは、今度は二人して目を閉じた。
「……そろそろ戻るか。ガオモンが心配しているかもしれない」
青いふかふかな毛並みのパートナーは、きっと少し悲しげな怨みがましい目をしてトーマを迎えるに違いない。
「……ああ。そうだな」
大はほんの少しだけ、キスをしたばかりの唇を押さえると顔をあげた。
トーマはそれを見て、息を少しだけ吐く。
大が先に立って歩き出そうとする。トーマを一歩追い抜いて背中で言った。
「やっぱり、甘えたかもしれない。少しだけだけどな」
「アグモンに謝るのか?」
トーマは先を越された一歩を取り戻す。
「いいや!やっぱりあれはアグモンが悪いんだから俺が謝る必要はない!」
「そうして後悔するのは大の勝手だな。干渉する気はない」
大は隣に立って歩きながらそのトーマの発言にぶちぶちと文句を垂れる。
「やっぱりトーマは意地悪だと思うぞ」
大は「うんうん」と頷いた。
「だけど、少し浮上した。少しだけな」
本部に戻ると既に何人かのメンバーが出てきていて、アグモンが引きこもっているデジヴァイスを中心にやいのやいのと騒いでいる。
「大!」
騒ぎの張本人の片割れの出現に、室内は俄然盛り上がった。
隣で大がぴくりとご機嫌メーターの値を下がるのがわかる。
今のできっとさっきのキスひとつ分。
トーマは何もコメントせずに端末の前に座り、作業の続きを黙々と再開する。
「大!ちょっと!こうなったわけを話しなさいよ!」
淑乃の声に背後でまたキスひとつ分のアドバンテージが減る。
「うるせえなあ!ほっといてくれよ!」
大は言いながら当たり前にトーマに一番近い席に腰を落ち着ける。
ふと、トーマは手を止める。それからほんの近くにある存在感を確認して再び指を走らせはじめた。
全く、大門大は厄介で不可解で面倒な人間だと思う。
側にいれば調子は狂うし冷静な自分がすぐにどこかいなくなる。
それでも、じわりと染みるように皮膚から内側に忍び込む存在の甘い感触は悪くない。
同じことを時々あからさまにこちらを気にして視線を投げてくる大も感じているに違いない
それは恐らく不可解の壁を容易に突き崩してしまう最後のキスの効能に違いなかった。
キスがしたい。
ふいにトーマはそう思う。
次に交わすキスの効能がどんなものか、早く知りたい。
効能につける名前があるならそれは一体どんなだろう。
メンバーに詰め寄られますます不機嫌で意固地になっていく大をいさめるつもりは毛頭ない。
なんとなく、まだアグモンに返したくないとそんなことを思うトーマにはもしかしたら大より強いキスの効用が働いているのかもしれなかった。