帰国してからの夜はいつでも静かだ。
日本より大分さらりとして乾いた空気は適度に涼しく、過ごしやすい。
開け放った窓からは気持ちの良い風が室内に入ってくる。
「……」
トーマは外に目をやった。
自邸の庭にいくつかある常夜灯が緑の芝生をほの青く照らしている。夜の底の色は日本でも欧州でも変わらない、藍の色だ。
立ち上がって窓に近寄る。
落ち着いた色合いの調度品。立ち上る紅茶の香り。青白く光るノートパソコンのディスプレイ。区切りのよいところまで解析が済んだデータが数学的な美しさを湛えていくつものウィンドウに表示されている。
どこまでも静かで落ち着いた夜。
トーマにとって、夜とはそもそもこういうものだった。
目を凝らすと、藍色の闇の中に白くぼんやりと浮かび上がる一隅がある。じっと目を凝らした。
最近、視力が少し落ちてきているのを自覚している。リリーナからは「お兄様は根を詰めすぎです」と説教をされる程だ。
「私のために、無理をなさらないでくださいな」
妹に本気で心配されるのは兄としていかがなものかとは思うが、一刻も早く研究を完成させたい気持ちの方がより強い。
自分はもう、大分時間を使ってしまっているのだ。リリーナの病気を治すために医師の資格を取得するまでに数年。それから更に数年。
充分悠長に時間を浪費しすぎている。妹の病はいつ急変するか予測もつかない。
それに、一年ほど前からは他にもう一つ急ぎたい理由が増えた。
トーマはぼんやりと窓から外を眺める。
「……咲いてる、な」
ノルシュタイン家の庭には一本の桜の木が植わっている。樹齢は十五年だそうだ。中庭の一番いい場所にそっと佇むようにあるその木は、緯度の低い日本より少しだけ時期を遅くして花開く。オーストリアは暖流の影響で比較的温暖ではあるがそれでも東京や横浜の辺りよりは花は遅い。
この屋敷の窓は全て中庭に向かって大きく開かれる作りになっている。
ノルシュタインの家にいる限り、庭の桜は必ず目に入るようになっているのだ。
桜の木を植えるように指示したのは他の誰でもない、父である当主フランツである。
その意味にトーマが気がついたのは、不覚にも日本から帰国してからだった。
大があまりにもあっさりと人間界からデジタルワールドに行くことを決め、そしてそれを本当に実行に移してしまったその後だ。
実を言うとトーマは大の決心についてはそんなに驚きはしなかった。
大は規格外だ。
人間界のケチな常識に縛り付けるには少々スケールが大きすぎる。
「行くから」と言われたら送りだすより他にない。大の決意はそういう力を伴っている、とトーマは思う。
そう長いこと生きているわけではないが、恐らく今後二度と同じような人間には出会うことが叶わない存在だと思う。
天才だと周囲からもてはやされてきた自分を軽く凌駕する、しかも同じ年齢の人間に会ったのは初めてで、さらにアプローチの仕方がトーマの知るどんなものとも違っていたことがまずかった。
あまりにも新鮮で、あまりにも強烈で、あまりにも眩しい。
ひとたまりもない。
ずっと気をつけて避けて生きてきた罠に落ちた。
恋をした。
トーマは夜風を入れようと窓を全開にする。
まだ冷たいオーストリアの風が室内に入り込んできた。
闇の中の桜はまだ咲き初めで、枝の先のほんのわずかな白が花開いたことを報せている。
オーストリアでこれならばきっと今頃、日本は満開の頃に違いない。
大を見送り、ウィーンに帰るために向かう空港までの道すがら満開の花が咲いていたことを思い出す。
列島を埋め尽くす木の花を見ながら、心の内に「何年かの後には必ず」と決めた。
ちょうど一年前の今日だ。
トーマはじっと闇に目を凝らす。
今は傍らに誰もいない。
ガオモンもいない。
大が、いない。
「考えてみれば、君と過ごしたのは一年もなかったんだな」
つい微笑が漏れる。
トーマが薩摩に呼ばれて日本に赴いた時、桜はちょうど散ってしまったばかりの頃だった。帰国の日、花は満開だった。
不思議なものだ。
桜が咲けば、その花に遠い異国を思わずにはいられない。
帰国して屋敷に帰ってきた時、庭にある一本の桜が花をつけているのを見て瞬時に心が昨日までいた土地に、その土地に繋がる愛しい人に繋がった。
なぜ父が、しかも十五年前に桜をこの庭の一番よい場所に埋めたのか。その気持ちを初めて推察して、あまりにも己の洞察力が鈍いことに愕然とした。
父の切ない心情すら思い至ることができない、自分は子どもだったのだとようやく理解できた。
そうだった。父はよく窓から庭を眺めていた。
その視線の先に桜の木はあったのだ。いつも、どこにいても視界に入るようにそこに植えたのだ。あの父が。
やはり、自分は父とよく似ているのかも知れない、とトーマは思う。
あっという間に愛しい人と一緒に過ごした時間よりも長い時間が経ってしまっている。
そんなところまで似ているではないか。
強い印象のその人はまだ鮮烈にトーマの中に息づいている。
きっとずっと消えることはない。
消すつもりもない。
「もう少し、そこで待っていてくれ。僕はまだこっちでやらなくてはいけないことがあるから」
白い花に向かってそう呟いた。
大はああいう性格だから、時々はちゃんと会って教えてやらなくては忘れてしまうかもしれない。
トーマにとっての大はどんな存在で、大にとってのトーマはどういう人間なのか。
準備は着々と整えつつある。
トーマ・H・ノルシュタインは、伊達に天才と呼ばれているわけではないのだ。
まだ不安定なデジタルゲートの磁場をより安定させること。
大がデジタルワールドを内側から変革して人間界と共存できるように尽力するのならば、自分がやるべきことはテクニカル面での全面サポート以外にない。
だが、そこに自身の全てを捧げる前に、どうしてもやらなくてはならないことがあるのだった。そちらもおろそかにするつもりはない。
でなければ、大のスケールに負けてしまうではないか。
そんなことはトーマのプライドが許しはしないのだ。
あの強烈な個性に並び立って負けないこと。そうでなければ、この手に抱いても不安でたまらなくなる。
大の大きさに負ける。
そのことはトーマ自身がよくわかっていた。
他の人間がどうやって恋愛関係を成立させているのかは知らないが、恐らくはこれが自分と大が恋をする方法なのだ。
「来年の桜はまだ無理だ。その次も。でも、二十歳になる前には必ず」
リリーナが身体の心配をする度に少し後ろめたい気持ちになる。
必死に妹の疾患についての研究と解析を重ねているのは何も妹のためだけではないのだ。
トーマは目論見を持っている。
ノルシュタインの当主の座を妹に譲り、自由な身になった自分は心おきなく人間界とデジタルワールドの共存のために全てを捧げる。
傍らには最強のパートナー。
デジモンと、人間と。
その日を一日でも早く引き寄せるためには、必死にもなるというものだ。
翼を鍛える日々はまだ続く。
樹齢十五年の桜の木が徐々に強くなってきた風に揺れる。咲き初めの花は強い。一見可憐に見えても決して強い風ごときに花を散らしたりはしない。
トーマは夜の中でじっとそれを見ていた。
やがて、窓を閉めるとまた黙々とディスプレイに整然と並んだ数字を格闘を始める。
ゼロとイチの世界に浸っていると、今はこの世とは違う空間にいる人と少し近くなっている気がする。
それでトーマはつい、数年の後にはきちんと本人に自分の口から告げようと思っている言葉を唇にのせた。
一年前の今日も思った。今年もそう思っている。
強く、強く、そう願っている。
「誕生日おめでとう、大」
その言葉をまだ直接大に言ったことは、ない。