まだDATSに顔を出すようになってからそう日にちは経っていないのだが、この頃では学校に行くよりずっとあっちに行く方が楽しい。
大はなだめすかしてなんとかデジヴァイスの中にアグモンを落ち着かせると、重い足取りで毎日のお務めに向かう。
制服のタイはゆるく結ぶ。臙脂のブレザーに袖を通し通学鞄を提げただけで異様に気が重くなる。因縁をふっかけてくる相手とケンカするよりももっと深い充実感を得られる術を知ってしまった。だから、毎日ケンカをしに行く場所だった学校は、もう大の目にはひどく色褪せて映ってしまう。
「兄貴ぃ、俺ずっとこの中にいるのやだよ。狭いんだぜ?兄貴もいっぺん入ってみればわかるよ」
デジヴァイスの中から不満たらたらで文句を言ってくるパートナーに「こら、あんまりそこから話しかけてくんな」とたしなめながら(アグモンの気持ちなら痛い程わかるぜ)と思っている。
学校という名前のあの閉鎖空間に自ら足を運んでいるのかと思うと憂鬱のあまりため息が出てくる始末だ。
駅前まで歩いてくると、ふと目の端に引っかかるものがあった。
「……トーマ?」
いつもは屋敷が差し向ける大きなベンツに乗って移動している。それが今日は一人きりの様子で、近くには屋敷の人間が車で控えている様子はない。
「あいつ……何やってんだ?DATSにも行かずに」
トーマ・H・ノルシュタインは、義務教育どころか大学教育課程までとっとと終えて医学博士の称号まで持っているスーパー14歳である。おまけにやんごとなき血を引いているのだそうで、その父親は手広く商売を行い貴族らしからぬ辣腕でもって名だたる富豪としてその名を馳せているらしい。さらにそのボクシングの腕前は大も認めるところである。文武両道を地で行く同級生は金色の髪にアイスブルーの瞳、単にお勉強ができる優等生というだけではなくひどくキレる頭脳を持っている。
完璧でソツがない。
腹が立つがそこは認めざるをえない。
つまり、トーマは大が生まれて初めて会うタイプの人間だった。
要するに気にくわない。
絶対に相性が悪い、と思っていた。
今は過去形だ。
「兄貴?どうしたんだ?」
トーマは四車線向こう側から大が見ているのには全く気付かずに駅前にある花屋の店先で店員と何か言葉を交わしている。駅から続く一本道がちょうど大通りにぶつかるT字路の角の店は、この駅では唯一の、また近隣では最大のフラワーショップである。母が時々の記念日にいつもここで花を求めてくることを大は知っていた。
濃い緑色のエプロンをつけた女性店員が、真っ白なユリやバラを見せてはトーマに微笑みかける。トーマもまた柔らかな笑みを投げながらそれに応えているではないか。
「あいつ……」
なんだかわからないが、胸の奥がちりちりと焦げる感じがして大は思わず制服の胸を鷲掴みにする。
(誰かに、あげるのか?)
あげるとしたら誰に?
男に花をやるなんてあまり考えられないから、やっぱり相手は女性に違いない。
(……なんだよ、かっこつけやがって)
大の年齢で女性に照れもせず花束をあげるような気の利いた人間はそうはいない。月々の定められた小遣いで買うには花はあまりにも高価なアイテムだった。
「兄貴ぃ……」
応えない大に不安そうなアグモンの声がする。
トーマとショップ店員は笑いながら店内に入っていった。どうやら、何を買うか決めたらしい。
大は思わず走り出すと、目の前にあった歩道橋を二段抜かしで駆け上がり花屋と道を挟んだところにあるコンビニに駆け込む。雑誌コーナーに立つと週刊漫画で顔を隠しながらそっと隣の花屋の様子を伺った。
ほどなくして、白いユリとバラをメインにした大きな花束を抱えてトーマが出てくる。
金髪碧眼の少年が白い花束を抱えている姿は、外国人居住者の多いこの街でもひどく目立つ。道行く人がトーマを振り返って見ているのを大は視界に入れていた。
なんだか妙に胸が騒ぐ。
トーマは今日はDATSの制服は着ていない。私服だ。
チノパンにあっさりとしたコットンシャツ。手には花束だけを持ってそのまま駅へ向かう。
(あいつ、DATSに行かないつもりなのか?)
じりじりと焦れていく。
どうやら本当に車で来ているわけではなさそうだった。
大は、そのままそっと人混みに紛れてトーマの後を追う。それは自分でも説明のできない衝動だった。
トーマは駅で切符を購入するとそのままホームに向かう。大は慌てて自動改札を抜けた。パスケースの中のカードにどれくらいの金額がチャージされているか若干不安だが、見失ってしまっては元も子もない。
相変わらず尾行されているなどとは夢にも思っていないらしいトーマはやってきた下りの電車に乗った。大は用心深く離れたところから電車に乗り込むと、車内をゆっくりとトーマの乗る車両付近まで移動する。
上りの電車はぎゅうぎゅう詰めだが、下りはがらがらである。おかげで白い花束と金色の頭を目印にすぐ隣の車両まで簡単にたどり着けた。ふと気になって辺りを見回すと同じ車両の大人達がじろじろとこちらを見ているのに気がついた。大は学校の制服のままだから、人の少ない車内でも目立つことこの上ない。
ようやく視界に出口付近で立っているトーマを捉えた位置で座席に腰を下ろすと、隣に座っていたおばあさんが恐い顔で声をかけてきた。
「あなた、学生でしょ?学校はどうしたの?」
「え……」
ぎくりとして見回せば、車内の人間がみんな冷たい視線を大に送ってきている。
「あ……えっと……俺の母さんの妹の親戚の友達の兄さんが、夕べ食べた卵焼きにあたって入院したって報せを受けて今、向かってるところで……」
しどろもどろの大の答に、詰問してきたおばあさんは「まあ」と口に手をやった。
「そうだったの。ごめんなさいね。お兄さん、症状が軽いといいわね」
と、途中の説明を全部すっとばして同情してくれた。車内の目もぐっと柔らかくなる。
「あ、どうも……」
大としては適当な嘘にそんな反応をされると心苦しくてならない。
「兄貴ぃ、嘘はいけねえぜ、嘘は」
アグモンが呆れた声で話しかけてくるが「黙れ、アグモン」と、デジヴァイスを軽くぶって黙らせた。
アグモンとて、様子はわからないながらもどうやら何時間もデジヴァイスの中で我慢しなくてはいけない『学校』とは違うところに大が向かおうとしていることを悟って、少し機嫌がよくなっているようである。
大は、そっと隣の車両にいるトーマの様子を盗み見る。連結部分の硝子越しのトーマは、手にした花を優しい眼差しで見つめている。
(なんだよ……)
あまりにもその視線が柔らかいので、大は少し狼狽した。
いくら鈍い大にだってわかる。トーマの優しい眼差しは花に向けられているのではなく、その花を贈られる相手に対するものだ。
渡した瞬間の相手の笑顔と喜びに満ちた顔を思って、トーマはこの上もなく優しい瞳をしているのだ。
(……)
気付いた途端に少しみじめな気持ちになってしまった。
きゅっと唇を噛みしめて俯く。なぜだか突然胸の中が正体不明の感情で一杯になって溢れそうになった。
拳を強く握りしめる。
と、その手に見知らぬ人の手がのせられた。
「……?」
ぎょっとして顔をあげると、先ほど注意をしてきたおばあさんが情のこもった目つきで大を見ている。
「大丈夫よ。お兄さん、きっと助かるわ。そんなに悲しい顔をしていてはだめ。気をしっかり持つのよ」
「……はぁ」
案外この辺に人情は生き残っているらしい。
だが、大にしてみれば見知らぬ人にまで「悲しい顔をしている」と思われたということが、ひどく衝撃的だった。
(なんでだ?)
全く自覚していなかっただけにひどい痛手だ。
(なんで俺、今、悲しい顔してたんだ?)
ここでそんなことを言われるようなきっかけはなかったはずだ。
(ちょっと待て、俺。俺はトーマが花買ってるのを見たから、暇だったし後をつけてきた。それだけだ)
なぜかひどく核心に迫る部分を突かれた気がしたが、詮索すると取り返しのつかないことになりそうだと大は思った。
(なんか、やべえ……わかんねえけど、やべえ……)
顔に全身の血液が集まり沸騰しているようだった。
(やべえ……)
軽いパニック状態である。
(なんで、俺、パニくってんだ?)
そこが一番わからない。
鈍行電車は短い距離を走っては駅に停車を繰り返す。大はそのタイミングでパニックに陥ったり、はっとしてトーマの様子を伺ったりと忙しい。
乗車してからかれこれ30分ほど経った頃、トーマが電車を降りた。
「……っ!」
慌てて大も外に出る。案外乗降客は少なくて、外に出た途端ほんの3メートル先に立つトーマに気付いて慌ててホームの柱の影に隠れた。通り過ぎる客が怪訝な表情をして制服姿の大を見ていく。
「見るんじゃねえよ」
大としては、ここでトーマに見つかってしまってはいいわけの「い」の字すら思い浮かばない。ここで永久に石像にでもなるしかないのだ。
なのに、この駅ときたらしょぼいことこの上ない。ホームにある柱は大の身体を半分も隠してはくれない。かといって下手に動いて注目されてしまうのは得策ではないと、大はその場で石と化した。
「……」
幸い、トーマが下りた目の前に案内板があり、更に幸運なことにこの駅唯一の出口は大の潜む柱のあるのとは反対側にあった。トーマは出口の位置を確認すると大の方には見向きもせずに歩き出す。いつ振り返られるかと気が気ではない大は、トーマが改札の方に抜けていくまでその場で固まっているより他はなかった。
「よし、行くぞっ」
どうしてここまでしてトーマの後をつけなくてはいけないのか大にも自分がよくわからない。だが、身体が勝手に動くのだから仕方ないではないか。
カードを自動改札にかざして通ろうとするが、どうやらチャージ金額が足りなかったようでブロックされてしまう。
「……っくしょ」
慌てて精算機に向かって何はともあれ財布にあったなけなしの札を突っ込むと、再び堅牢な門に挑戦した。
「……あ」
どうも時間を取りすぎたらしい。改札を出て辺りを見回してもトーマの姿はなかった。
「……俺、何やってんだ?」
思わずその場にしゃがみ込む。
トーマの姿を見失ったのは、ここまで来てかなりのダメージだった。
小さな駅だ。何があるとも思えない。駅前はロータリーになっており、バス停がひとつと、タクシー乗り場。中心には鮮やかなピンク色の花がいっぱいに植えられた花壇に背の高い時計。足元には警察署からの交通安全スローガンが大きく書かれた看板がこちらを向いて据えられており、若干景観を損ねていた。
「……どこだ、ここ?」
振り返って駅名表示を見れば、地元から結構下った街だとわかる。この先にある山に遠足で行った時に通過したことはあっても降りるのは初めてだ。
しばらく落ち込むと、大は埃をはらって立ち上がる。
「ま、見失ったもんは仕方ねえな……どこかでマンガでも立ち読みしてから帰るか」
ほんの少し安心している自分もいた。あのまま、トーマの後をつけていたらよくわからない焦燥感はどこまで募っていったのか、考えると恐ろしい気がするのだ。
ましてや、あの大きな白い花束をトーマが誰かに渡すところなど見たら……
(なんだよ、それ……買ったからにはあげるだろ、誰かに)
そういう風に心の表面で思っているのに、奥底がざわめいている。大は首を横に何度も振って歩き出す。ロータリーの奥は商店街が続いていた。その辺りに見当をつけてコンビニか本屋を見つければいいと思っていたのだ。
だが。
「……っ●△□※っ!」
頭の後ろで手を組んでぶらぶらと歩いていた大の横目に、見失ったはずのトーマの姿が飛び込んできた。
慌てて、脇の路地に身を伏せる。
トーマは商店街の中にあったケーキ屋に入っていた。同じく手土産にするためのケーキをちょうど包んでもらっているところだ。
(な、なんなんだ、あいつ……すげぇ用意周到じゃないか)
どきどきしている。ちょっと通り越して心臓が痛い状態だ。
困ったことに、やはりトーマの目が柔らかい。これから会う予定のその人がどれほど大事な人なのかが伺い知れるような優しい瞳だった。
大はそっと胸を押さえる。
ひどく痛い、と思っていた。
そのまま後を追わない、という選択肢もあるのだと何度も自分で自分に言い聞かせる。だが、身体は内なる自分の声に耳を貸そうとは思っていないらしい。つかず、離れず。大分尾行のスキルが上がった気がする。
ケーキ屋から出てきたトーマは、全く無警戒で歩き出す。
相変わらず自分をつけている人間がいるとは思っていない様子で花束とケーキの箱を提げて歩いていく。
程なくして小高い丘が見えてくる。丘の斜面に点在しているものを見て、大は何となくトーマの目的地に思い至った。
「ガオモン、リアライズ」
トーマは無人の墓地の中程で足を止めると、そう言った。
現れたガオモンは何もかもわかっているという顔で頷く。
「ガオモン、悪いがケーキと花束。持っていてくれないか?僕は桶と柄杓を借りてくる。ついでにお湯ももらってくるよ。それから紙皿に紙コップ、ティーバッグも管理事務所の売店にあったはずだけど、今もそうかな?」
「イエス、マスター」
使命感に燃えるガオモンは確かに請け合った。
大は、少し離れたところでその様子を見ている。
「兄貴ぃ、人は他にいないんだろ?俺、もうデジヴァイスの中やだよ」
「こら、アグモン」
言い終える前に大のパートナーは勝手に外に出ている。この辺りが主従関係を結んでいるようなトーマ達とは違うところだ。
「わかったから静かにしてろよ」
「わかってるよ、兄貴」
請け合ってくれるものの、ことこういうことに関してはあまり信頼できるパートナーとはいえないのが不安なところである。
「兄貴、ここはなんだ?石と汚い木の板がいっぱいだけど」
「……ここはな、アグモン。墓地って言うんだ」
大は小さな声で言う。
「なんだ、それ?」
「人間はデジモン達とは違って死ぬんだよ、アグモン。そうしたら死体が残る。日本ではそれを焼いて灰と骨にして、小さな壺に入れてそれぞれの家の墓……その一個一個の石だけどな……に葬るんだよ。そうして時々、家族とか親しい人間が訪れて死んだ人を懐かしむんだ。ここは、そのためにある」
「兄貴もか?」
大はアグモンの方に振り返る。
「兄貴もいつか、死ぬのか?」
大きなエメラルドの瞳がじっと大を見つめている。大は微笑した。
「ああ、俺もいつかは、な」
途端にアグモンの顔が情けないほど不安げなものに変わる。
「だけど、それはずっと先の話だ。俺はまだ若いんだよ、アグモン。大概の人間は年を取ってから死ぬようにできてるんだ」
そう言ってアグモンの頭を撫でてやった。途端にパートナーの顔が晴れやかなものに変わる。
「そっか!そうだよな兄貴。ここの中はデジヴァイスの中よりずっと狭そうでなんかイヤだ。俺、そう思う」
デジモンには死の概念がない、とトーマに教えてもらったばかりだ。生殖活動で種を増やしていくわけでもなく、基本的にはデータの集合体なのだと言う。生態系そのものが大の世界のそれとは異なるのだ。だから、死とは何かだなんて哲学的な話をしてもアグモンにはわからない。
ただ、なんとなくここが忌みごとの場所であることを察しているのだと大は思った。
「……よし、帰るぞ、アグモン」
「兄貴?まだトーマが戻ってきてないぞ?」
「いいんだよ。こういう時は黙って立ち去るのが男ってもんだ」
トーマは今はもうこの世にはない誰か親しい人と語らうために、ガオモンを伴ってやってきたのだ。それを覗き見ることなどできない。
大は心の底から己を恥じる。
(だけど、一体誰なんだろう……)
そっと、ガオモンに気付かれないようにアグモンを促してその場を離れる。幾度かガオモンの方を振り返り、立ち並ぶ墓石の間を縫うようにして歩きながら心当たりを探ってみる。
(そういや、トーマの母さん亡くなってるって言ってたよな)
花束とケーキを携えてやってくる相手に思い至ると、ますます自分が情けなく思える大である。
「……大?アグモンも。一体どうしたんだ?こんなところで」
猪突猛進すぎると、いつもDATSの連中には渋い顔をされている。だが、たまに後方ばかりに気を取られているとこうだ。
「……その、トーマ。これは……あれだ……」
霊園の外に抜ける道の途中で、トーマにばったり出くわしてしまった。
片手には水の入った手桶と柄杓、もう片方の手には霊園の事務所から借りてきたのだろうかポットと線香やら紙皿、紙コップまで入っているらしいコンビニ袋を提げているトーマは不思議そうに首を傾げている。
(そう言えば、管理事務所の中コンビニみたいなコーナーあったなあ)などと、どうでもいいことを大は思い出す
「よおトーマ!」
罪悪感の「ざ」の字すら感じていないアグモンは元気よく手を上げる。
「あの、それがその……」
大はいたたまれず、顔を手で覆った。穴があったら張り切ってダイブしたい気持ちでいっぱいだ。
「……何だかよくわからないがよかったら一緒に来てほしい。実は、ちょっとケーキを買いすぎてしまってどうしようかと思っていたんだ」
トーマは何も訊かずに笑ってそう言った。それでますますいたたまれなくなる大である。
「いや、俺は……」
「ケーキ!ケーキか!行く!」
兄貴の心、子分知らず。
アグモンがこれまた憎たらしくなるほど元気に手を挙げてしまい、話は大抜きで決まってしまった。
処刑場に連行される囚人のような気持ちで、大はトーマとアグモンの後をのろのろとついていく。
「……大?アグモンも。どうしてここに?」
ガオモンの不思議そうな声も表情も予想通りで、大は上手い言い訳を思いつけない。
「ケーキ!ケーキ!トーマこれか?」
今にも飛びかかりそうなアグモンをガオモンが必死に止める。
「待て、アグモン。これはマスターの母君のためのものだ」
「……?そうなのか?トーマの母さんはどこにいるんだ?」
あっけらかんとアグモンが尋ねれば、トーマは微笑した。そうして墓石を指し示す。
「ここに。アグモン、僕の母さんはここにいる」
アグモンは「ああ!」と頷いた。
「そっか、トーマの母さんは死んでるんだな」
「アグモン!」
大は慌ててアグモンを羽交い締めにすると「お前、ちょっと黙ってろよ」と拳でぐりぐりと頭を押さえつけた。
不平不満を言うパートナーを渾身の力で押さえ込んで顔をあげた大は「はははは……」と苦笑いでトーマを見た。
「……その、すまない。トーマ」
もう、本当にどこかに行ってしまいたい気持ちだ。
ところが、気を悪くしていると思っていたトーマはおかしそうに笑っている。
「マスター……」
ガオモンは渋い顔だがトーマは至って朗らかだ。
「いいんだ、大。デジモンには死がないんだから、人間界に来てそれほど経っていないアグモンがわからなくても仕方ないじゃないか。それに……」
トーマはそっと視線を墓石に向ける。
「それに、母さんが亡くなってからもうずいぶん経つんだ。そんなに気を使う必要はないよ」
「トーマ……」
胸の奥の方が痛い。痛くてたまらない。
デジモンたちは人間二人の間に漂う空気をなんとなく理解したようである。大の仕打ちに不平不満をたれていたアグモンも「トーマ、ごめんな」としおらしく謝る。
トーマは笑うと、手桶とポットを地面に下ろす。
墓石は綺麗に磨かれていた。トーマは石の表面をじっと見つめると、柄杓ですくった水を墓石にかける。洗われて黒々とした石は陽光を浴びて輝くばかりだ。
「ガオモン、花束と線香を」
「イエス、マスター」
手渡された花束を墓石の前に置き、線香の束にポケットから出したライターで火を点ける。ふわりと独特の香りが周囲に漂う。
「ああ、忘れるところだった。ケーキも頼む……アグモン、もう少し待っていて欲しい。順番だ」
「わかったよ、トーマ」
どうやら墓石から腕が伸びてぺろりとケーキを食べることはない、と察したらしいアグモンが大人しく同意する。
トーマはケーキの大きな箱を開け「今年はこんなのだ」と笑いながら中に入っている色とりどりのケーキを墓石の前で披露した。それから、花束の隣に箱ごと置く。
合掌し、目を閉じる。
ガオモンがそっとそれに倣った。
大は。大はただそんなトーマの横顔を見ている。と、長めの黙祷から戻ったトーマがぱちりと目を開けるとにっこり笑った。
その鮮やかさに目を奪われる。
「母さん、今年はガオモン以外の人も連れてきたよ」
突然トーマに言われて、大は慌てて居住まいを正した。
「あ、大門大……です。こっちは、アグモン」
「痛いよ、兄貴ぃ」
アグモンの首に腕を回して墓石の前に引き寄せる。アグモンが文句を言うが、大は訊いている余裕がない。
「あの……トーマには、トーマに、は……」
正直なところこんな風に改まって話をしようとしたことが、ただの一度もない。圧倒的な経験値の低さが大には恨めしかった。しかも、相手はフォローひとつしてくれない墓石だ。
(テンパりすぎだろ、俺)
顔がかーっと紅く熱くなっていく。しどろもどろで及び腰。全く自分らしくない。
(トーマに関わるといつもこんなじゃねえかよ、俺)
そんなことを思ったら、口から勝手に言葉が漏れていた。
「こいつ、いい奴です……」
「大……」
トーマが驚いた顔をしてこちらを見ている。
「すかしてるし、いっつも俺は頭いーですって顔してるし、だから時々すげームカつくけど、俺はこんな奴に会ったの初めてだし、たまにめちゃめちゃ頭いい作戦とか考えるし、言ってることは筋が通ってるから……」
大は大きく息を飲み込む。
「こいつ、すげーいい奴です!」
「……」「……」
一瞬その場がしんと静まり返る。
「……マスターは、いつもクレバーな作戦を考えているじゃないか。たまにではない」
ガオモンがぽつりと漏らした。途端、トーマが吹き出す。
「な、なんだよトーマ。何がおかしいんだよ」「マスター……」
大とガオモンが同時に違う意味合いのこもった視線をトーマに投げかける。
トーマはそれでくすくす笑いが止まらなくなってしまったようである。
「いや、すまない。今日はありがとう。母さんもこんな賑やかな墓参は初めてだったと思う」
目尻の涙を拭きながらトーマは言った。
「さあ、アグモン。母さんにはもう充分振る舞ったから、ケーキを食べようか。さっき管理事務所でお湯をもらってきたんだ。ガオモン、お茶を煎れてくれないか?」
ショートケーキを小さなプラスチックのフォークでつつきながら、大はトーマの母が眠る墓を見つめる。いちごは最後に食べる主義だ。
完全に失敗した。
大は逆上した挙げ句に口走った数々の言葉を心から後悔していた。
アグモンはガオモンと戯れながらトーマが「買いすぎた」ケーキを嬉しそうに平らげていく。トーマ本人は、紙コップにティーバッグのお茶を飲みながら、レアチーズケーキをつついている最中だ。
「今日はありがとう、大」
「なんだよ、嫌味か?それ……」
妙なことを山ほど言ったことに対して後悔に押しつぶされている最中だというのに、容赦ない。
「お前、武士の情けってやつをだな……」
「違う違う。本当に僕は感謝しているんだ。母さんが亡くなってからすぐにノルシュタインの家に引き取られて、それから何度かここには来ているけれどもガオモン以外の誰かを連れてきたのは、実は初めてだ」
にっこり笑う。大はやっぱりその笑顔の鮮やかさに見とれた。
「さすがに何年経っても一緒に墓参りに来るのがガオモンだけっていうのは、母さんもいい加減心配していたと思うから。今年は一気に倍になった」
そう言って、イエローラベルの紅茶を口にした。
「トーマ……」
「母さんのお墓……いつ来ても綺麗なんだ」
小さくトーマが呟く。悔しそうに唇を噛みしめた。
「僕以外訪れる者がいないだろうと思っているのに、いつもちゃんと綺麗にされている。僕はやることがない……あの人は、母さんが生きている時は何もしなかったくせに」
暗い翳りのある横顔は、何か巨大な敵を思い浮かべているかのように険しい。
「……トーマ」
トーマは視線を墓石に投げた。途端に、表情からケンが取れる。
亡くなった母親がトーマにとってどれほど大切な存在なのか、大はそれだけで知ることができた。
「母さんが死んだのは本当に僕がまだ小さな時だったから、実を言うと写真がなければ上手く顔も思い出せない。ここに来るときは花とケーキを持ってくることにしているんだが……なんとなくそれが好きだったっていう記憶があるだけで、実は母さんがどんな色のどんな花が好きで、ケーキは何が好きだったのか覚えていないんだ」
優しい瞳をしている、と大は思った。今はもう亡い母の面影を、とても優しい瞳でトーマは見つめていた。
「だから、毎回花もケーキも選ぶのに一苦労だ。おかげでいつも買いすぎる」
ショートケーキ、チーズケーキ、モンブラン、チョコレートケーキにアップルパイ。確かに大きなケーキの箱にはいろんな種類のケーキが入っていた。何が好きなのかわからないから、思いつく限り用意したのだろう。
大は思わず紙皿にのったショートケーキを見つめる。
トーマは笑った。
「ああ、だけど花は!花はなんとなく白いのが好きだったって気がするんだ……いや、これも僕の勝手な思いこみかも知れないけれども……」
「白だよ」
大はそう言った。
「え?」
トーマは怪訝な表情をして聞き返す。大は真っ直ぐトーマを見つめた。
「お前の母さんの好きな花の色は、絶対、白だ。間違いない」
「……そうか」
「ああ」
「そうだな」
「当たり前だろ?」
トーマは大の言葉に頷いた。
「なあ?今日ってもしかして、お前の母さんの命日、なのか?」
トーマが日本に来てから少し経っている。今日を選んだ理由がそれならば納得がいく。
ところが、トーマは「いや。母さんが亡くなったのは夏だ。夏祭りの日。それはさすがに忘れることができない」と笑った。
「あれ?じゃあ、なんで今日墓参りに来たんだ?」
大が首を傾げると、トーマは照れたように笑った。
「母さんは、僕の誕生日祝いをするのが毎年一番の楽しみだってそう言っていたんだ。いつもご馳走を作ってお祝いしてくれた。これも、なんだか忘れられない思い出だ」
大はまじまじと隣にいるトーマを見つめる。
「お前、母さんの前だとすげー素直だな」
言われてトーマは顔を赤らめた。
「大だって、小百合さんの前で嘘つけないだろ?」
「ああ……言われてみればそうだ」
大は苦笑した。そして、重大な事実に気付く。
「ってことは、あれか?もしかして、トーマ。今日誕生日なのか?」
言われてトーマは更に頬を染める。
「ああ……そうだ」
天気は快晴でいい風も吹いてきている。大は、ようやくトーマからイニシアチブをとれた気がして少しだけ気分がいい。
大はトーマに笑いかけてやる。
「仕方ねえなあ……特別だぞ、ほら」
そう言って大はショートケーキの上のいちごをトーマのレアチーズケーキの載った紙皿の上に置いてやった。
トーマは目をぱちくりさせて大を見る。
「誕生日プレゼントだよ。貴重品なんだからありがたく食え」
てっきりトーマの口からは文句ばかりが出るかと思っていたが。
「ありが……とう……」
トーマは真っ赤な顔をしてそう大に言う。そんな顔をされては大にだって感染するというものだ。
「ば、ば、ばか野郎。これ買ったのそもそもトーマじゃないかよ。大体、そういう反応は反則だろ、てめぇ」
「いや、その……なんだ。ちょっと驚いただけだ。すまない」
「謝んな、このトンマ!」
「母さんの前でトンマって言うな!」
いつも通りの言い争いが始まれば、ほっとしている自分がいる。大はなんだか嬉しくてトーマと公論を続けている。
「兄貴?」「マスター?」
二人のパートナー達は、突然わあわあ言い始めた大とトーマを不思議そうに見つめた。
そうして。
「兄貴ぃ、こういう場所でケンカはよくないんじゃないの?」
実に大人に、かつ良識を持って、アグモンはため息混じりに人間達をいさめたのだった。