●● 【preview】初恋凛々 ●●
夕暮れの教室だ。
茜色と紺色の闇が入り混じった。
誰もいない教室。いや、中には一人。
浜田がいた。
泉はじっと扉の影から浜田を見つめていた。
「泉……」
すぐ傍に当の本人がいるとも知らず、浜田はかすれた声で名前を呟く。
その呼び方を、泉はよく知っている。
いつもベッドで達する瞬間に耳元に吹き込まれる、あれと同じ声音だ。
甘くて、はっきりと欲情の混じった声。
泉が達する時も、浜田が果てる時も、同じ響きで「泉……」と名前を呼ぶ。
それは、ひどく恥かしくてどきどきしてしまうから辞めて欲しいと思っているのだが、一度も浜田にそう告げたことはない。
「泉……」
浜田はそっと口づける。
泉が毎日教科書を広げたり、弁当を食っている机の板面にそっと。
大事な大事なものにそうするように。
それが、浜田自身にとってかけがえのない宝物でもあるかのように。
「……っ!」
唇が机に触れる瞬間、泉の中に震えが走る。
そうして、一番最初の日に言おうとしたこと。言わなくてはいけなかったことが揺さぶられ、思い出されるのだ。
「あ……」
のどの奥から声を絞り出すようにするが、どうしても出てこない。
大事な、大切なことのはずなのに上手く言葉に出せない。
「あ……あ……」
目の前で浜田が大事そうに机を撫でている。
いつの間にか浜田が触れているのは、泉自身の肌になっていた。
浜田の指は固くて太い。
がっちりとボールを挟みこんで、誰より速いボールを投げていた手は、野球を辞めた今でもその名残を十分とどめている。
高い身長。恵まれた素質。後輩たちからは常に絶大な人気を博していた。チームメイトが「浜田のバックならエラーなんかできねえよな」と自然に言っている、そういう投手だった。
後輩たちの憧れの先輩は泉の幼なじみで、その分少しだけ浜田が親しげな口をきくことがあった。多分、浜田はそのことを全く意識していなかったはずだ。
「泉……」
自分の名前を呼ぶ時、浜田はいつも少しからかっているような口調だったと思う。隙あれば、泉で遊ぼうとしていたのだ、あの男は。
一応先輩だから露骨に鬱陶しいという素振りは見せられず、他の先輩連中の目に「失礼なヤツ」と取られない程度の絶妙な加減であしらっているのが日常だった。
「泉……」
こんな甘い声で浜田が自分を呼ぶ日がくるとは思っていなかった。
「泉……」
違う。いつも最中に自分を呼ぶ声はもっと甘い。
「ん……浜田、やめ……」
「泉、いい加減にして起きろよ。一時に正門。着替えっから五十分に起きる。自分たちで決めたんだろ?」
背中に慣れ親しんだ手のひらの感触。そうだ、昨日はグラウンドが球技大会の関係で使用禁止だったから、練習が早めに切り上がった。それでそのまま浜田のところに行ったのだ。
桐青戦のあった日も行ったから、二日連続。
ここのところ公式戦がはじまる最後の追い込みで部屋に行く時間が取れなかったから、キスもなにもが結構ケダモノっぽかった気がする。
勝利はドラッグだ。身体がくたくたなのに、興奮で目が冴えていられなくなる。アドレナリンが大量に分泌されていて、自分の肉が暴走し遥か先に行ってしまう感じだ。
眠い目をこすると、浜田の顔がすぐそばにあった。
「遅刻すっぞ。次の対戦相手観に行くんだろうが」
言われてじっと見つめる。
「……昨夜」
「へ?」
「昨夜、挿入てもいいって言ったのに。なんでそーしなかったんだ?」
「……っ! 寝ぼけんな、ばか泉!」
罵倒より先にゲンコが落ちてきた。ものすごく痛かったおかげで一瞬で眠気が吹っ飛ぶ。
「痛ってーなぁ! 何すんだよ!」
真っ赤な顔をした浜田が、すごい形相でにらんでいる。何をそんなに怒ることがあるのだと、泉はむくれた。