洋上にふたり 〜プールサイド・ラヴァー〜




「泉、ストレッチちゃんとやったかー?んじゃ、行くぞ」
 泉は一応、高校に入ったら野球部に入るつもりでいる。受験でなまりきった身体をさらにこの一ヶ月半の船旅で徹底的に使い物にならなくするわけにはいかない、と、旅が始まって一週間目に気がついた。
 それで、毎日朝起きてから朝食前に軽く船内をランニングして浜田とキャッチボールをする習慣を作った。
 Tシャツにジャージ、それからスニーカーに履き替えるとなんだか背筋がしゃんとするあたり、自分は運動部育ちなのだと泉は思う。
 二人して並んで走りはじめる。
 ペースは結構あげ気味に走っているのに、浜田は苦もなくついてきているのがなんとなく面白くない。
「浜田って、野球やってたのか?」
「……ほんの少しだけ、な」
 応える前のわずかな空隙が、泉の中に重く落ちる。

 なんかあったのか?

 なんて気軽に聞けない雰囲気だ。
「今日は、どうすんだ?」
 朝、ランニングの時に浜田は必ずそう尋ねてくる。朝食前たっぷり一時間のランニング。終わったらストレッチにキャッチボールは当たり前として、これから始まる長い一日をどう使うのか、尋ねてくる。
 港を離れて半月ほどになる。
 なんだかんだ言って、上げ膳据え膳の毎日に泉はすっかり慣れきっていた。
 最初の日、居並ぶクルーの中から浜田を自分の世話係に指名したのは単に年齢が近そうだったからだが、結構自分の目は確かだったんじゃないかと今は思う。
 とにかく面倒見がいい。
 構われすぎて時々いらっとくることもあるのだが、イヤなわけではない。
 あんまりにも毎日べったりと一緒にいすぎて、むしろ視界に浜田がいないと居心地悪くさえ感じてしまう。
 それはそれで、依存し過ぎている証拠のようで泉はぞっとしない。
「昨日は雨でDVD祭だったしな。おとといはビリヤードか。結構上手くなったよな。またやるか?とっておきのワザ教えてやるし」
 走りながら浜田が本日の予定候補をあげていく。多分この船に乗らなかったら、ダーツだのビリヤードだのに触れるのはもっとずっと先になっていただろうと泉は思う。
 ちらりと横を走る、長身を見る。
「どうしたー?この前も言ったけど、三角ベースはさすがに無理だぞ。オレと泉の他に残念ながら野球経験者いねーし。大体、無茶なことさせておやっさんたちの身が取り返しのつかない事態になったら困る」
 おやっさんというのは、どうやらあの『ザ・執事』の人のことのようだ。一日中泉につきっきりの割に、ちゃんと船内の人間たちとのコミュニケーションもとれているらしい。その事実の断片になぜだか、いらつく自分を泉は知っている。
 となると、今日の予定はもう決まったも同然だ。
「そういうのじゃ、なくて……」
 少し、口ごもるのは『これからの予定』が少し言い出しにくいものだからだ。
 泉が言葉の先を見失ったのを見て、浜田がふっと笑った。
 どうしてだか、そういう笑い方をする時、浜田の中の何かが塗り替えられているような気がした。
 スイッチがオフからオンに切り替わったような、そんな感じだ。
 泉はつづきを口にしてくれない浜田を諦めて、ぽつりとささやく。

「……ガーデンプールが、いい」

 日本を船出してから半月あまり。
 泉がサンルームの中のガーデンプールで過ごすのはこれが四度目になる。
 プールで時間を過ごすことを望むインターバルが日に日に短くなってきているのは、泉自身わかっている。
 それでも、一度知ってしまったヒミツの時間の甘さに逆らえない。
 それは、暗黙の合図だった。



 ジュースはフレッシュオレンジ。
 船の厨房でちゃんとオレンジを絞って作ってくれるもので、びっくりするほど美味い。
 プールサイドに置かれたデッキチェアに寝そべっていると、脇におかれたテーブルに浜田が氷を浮かべた背の高いグラスを置いてくれる。
 パラソルの色は白。じりじりとガラス越しに照りつける太陽光をちょうどいい分だけ和らげてくれる。そのフォルムの美しさは、泉でさえも理解できるほどだ。
 泉は水着の上に、大体は肌触りのいいパーカーをはおっている。浜田しかいないプールサイドで、何を恥じらう必要があるかとも思うが、なんとなく気恥ずかしい気持ちはまだ、残っている。
 コトリ、と音がしてテーブルにグラスが置かれると知らず身体に緊張が走る。
 プールサイドには、初日からの泉の意向通り他に誰もいない。よく教育されたクルーたちはかりそめの主人の様子を盗み見るようなはしたない者など皆無だ。
 何より、泉は結構クルーたちに評判がいいようだ。うぬぼれではないだろうと思っているし、浜田も時々会話のはしばしにそれらしきことを織り交ぜている。わずかな間とはいえ愛する主人の意にそまぬことなどここの乗員がするわけもなかった。

 だから、安心してヒミツの時間を持てる。

 浜田が泉の脇にひざまずく。
 泉は水着姿だが、浜田は『ザ・執事』と同じお仕着せを着ている。初日はホテルのベルボーイみたいな服装だったのが泉の専任世話係に指名されて地位でもあがったのだろうか。
 翌日からは、泉のトレーニングにつきあう時など特殊な場合を除いて、黒の燕尾服にベスト、グレーのアスコットタイを身につけている。とはいえ、そんな格式ばった服装の割にあまり堅苦しい感じがしないのは「着慣れているから」ととるべきか「本人の性質がにじみ出ているから」と思うべきか。

(だけど、浜田は結構腹黒いんじゃね?)

 なんとなく泉はそう思う。
「泉……どうする?」
 プールサイドで浜田は必ずそう尋ねる。だから泉は、やっぱり同じことを口にしてしまうのだ。

「この前、グラスを割った……まだ、十分、叱ってもらって……ない」

 耳がずきずきする。
 自分が口にした言葉の意味なら、泉自身が一番よくわかっている。
 言わされていることも知っている。

 でも、欲しい。

 海の上で、知らずにいた欲が身体の内側にあることを知ってしまった。
 もう、知らなかったころには戻れない。知らない振りもできない。
 そうして、泉は浜田に自らすすんでそそのかされる。
 いや、少し違う。
「……どうやって、叱ればいい?」
「……浜田の、好きな……方法がいい……」
 あごに手がかけられる。上向かされ、唇を吸われた。
 舌に舌をからませるとか、互いの唾液を交換しあうとか、口蓋を舐め尽くされるとか、そんなことが気持ちいいだなんて陸にいた時は知らなかった。
 泉は腕を浜田の首にかける。
 より深く口づけあうことを望んで、引き寄せる。
 なかなか唇を解放したがらない泉をなだめるようにして、浜田の手が泉の裸をまさぐる。
 もう、全部触られた。
 泉の身体で浜田が触れていないところはないかもしれない。
 拓かれていく。
「ん……っ」
 そこに、ぬるつくものが垂らされる。それがなんのための準備なのか、泉はもう知っている。
 かろうじて苦笑を作ることができた。
「ちゃっかり用意……してるくせに、どうする?とか訊くかよ?」
「……かといって、用意してなかったら痛い思いすんのは泉だろーが」
「……っ!」
 タメ口はもう当たり前だ。だが、二人の関係は対等ではない。
 浜田はあくまで、泉の専任世話係の立場を崩すつもりはないらしい。
 そこにローションをたっぷりたらし、指をねじりこむようにして挿しこみ慣らしていく行為は、泉が「望んだ」ことだからだと言う。
 腰の下に大判のタオルを押しこみ浮かせた尻は、先ほどまで身につけていた水着を取り払われ隠すものもない。
 浜田の指がゆっくりとそこを広げていく。
「ひ……ん……っ」
 躊躇なく口内に勃ちあがりかけのそれを含まれ、前後から濃密な愛撫が施される。
 漏れる声が気になって、思わず泉は自分の手に噛みつくようにして耐える。
 ふ、と浜田が微笑するのがわかってますます羞恥心が甘い毒のように広がるのを感じた。
 泉が「イヤだ」と言わない限り、その行為は続く。
 わかっているから、間違ってもその言葉を口にしないように必死に耐えている。
「これじゃ全然、叱ったことになってねぇよなあ……」
 浜田が楽しそうに言う。
「まだ、叱ってほしいか?泉?」
「う……って……しか……もっ……」
 わざとその答えを泉に言わせようとする浜田が憎らしい。
「もっと……叱、れ……」
 浜田は、泉の声ににっこり笑う。
 プールサイドの上に真っ白い大判のタオルが敷かれた。ふかふかで触り心地のよいそれを二枚。
 泉は、その上に両手両足をつくように浜田に促された。デッキチェアから降りるだけで、がくがく震える腰が言うことをきいてくれない。
 浜田に半ば抱きかかえられるようにして地に這うと、尻を男に差し出した。
「あ……あ……あぁ……ッ!」
 背後で衣擦れの音がしたと思った次の瞬間、最奥まで一気に突かれる。
「大分、オレの形、覚えてきたみたい……」
 泉に仕えるためのスワローテイルのコートは身につけたままだろう。繋がるために必要な部分だけをくつろげて、浜田は泉の中に分け入る。
 びりびりとしびれるような快楽が脳髄に溢れて零れる。
 ゆるく浅く突かれて首を振る。
「そうじゃ、ねえよ……叱れって……オレは……」
 生理的な涙がまなじりに浮かんでいる。まだこうやって浜田を受け入れることはひどく苦しい。痛みは大分マシになった気がするが、まだやっぱり辛い。
 なのに、麻薬のように欲しくなる。
 太平洋の真ん中で、一体どうしてこんな毒の味を覚えてしまったのか。
「ホントに……かわいいな、泉は」
 苦笑が背中に降る。
 それから、本格的に腰を使われた。
 プールサイドには他に誰もいない。
 さんさんと降り注ぐ太陽の光の下で、泉は甘く啼く。
「ま……だ、だ……まだ……」
 首を振り、与えられる刺激に身を震わせ全身で応えている。
 浜田が泉にそれを言わせているのは確かだ。
 だが、浜田にそう言うように仕向けているのが泉なのもまた間違いのないことだった。
「んッ、んッ、んんッ……」
 荒い息が二人分混じり合う。
 海の上で二人きり、そうして混じり合う。
 それは、オレンジジュースの氷が完全に溶けきりぬるくなるまで続いた。



「オレ、現実生活に戻れんのかな……」
 結局朝食後から太陽が傾きはじめるまでお気に入りのガーデンプールで過ごした泉がぽつりとつぶやく。
 浜田は涼しい顔をして「そりゃ、陸にあがればなんとかなんだろ」と言った。
 あまりにもだるい腰と疲労感に、泉は夕食までの間仮眠をとることにした。
 浜田はその支度の手伝いをしている。
 不思議なことに、浜田が泉のベッドに忍び込むことはない。
 あのガーデンプールでなければ交わることが許されていない、とでもいうかのようにあの場所以外ではキスひとつ仕掛けてはこない。
 泉が「浜田の好きな方法で叱れ」と言わなければ、浜田から手を出してくることは一切ない。
 そのつれなさが、泉の心にひっかかる。
 身体をつないでいるのに、まだ何も浜田のことを知らない。航海が始まってから、結構泉は自分のことを浜田に話していると思う。それ以前に、乗客の素性はクルーたちには伝わっているのはわかっている。
(ヤバいよなぁ……)
 このまま関係を重ねていって、1ヶ月後陸に戻ったら「それじゃあ」と浜田と離れることが、自分にできるのか泉には自信がない。
 ハマっている自覚はあるのだ。
 こんな感じははじめてで、泉は太刀打ちできない。
「好き」とか「嫌い」の以前に、泉は浜田のことを知らなすぎる。逃げるところなどどこにもない海の上で、身体をつなげてそうして囚われた。
 陸にあがって消しとぶ感情なのか、それとも本当に恋愛感情なのかも、こんな特殊な状況ではまともに考えられない。
 ただ、雪崩を打ったように泉の何もかもが浜田に向かって落ちていく。
「ほら、もう寝ろ。夕メシになったら起こしてやっから」
 ベッドの用意を整えた浜田が、ぽんぽん、と枕を叩いて言う。
「一緒に寝るか?」
 ふと気まぐれにそう言えば、簡単に首を横に振られてしまう。
「……ばーか言ってんじゃねっつの」
 さっきはあれほど激しく泉を苛んだというのに、浜田はまるでそんな気はないとかわすのだ。
 大人しくベッドに入りこむと、傍らに控えている浜田を見上げる。泉が寝つくまではずっとそこにいることを知っていた。
「浜田、キスしろ」
 そう言う唇はまだ、プールサイドで散々吸われた名残りでぽってりと腫れている。
「ダメだ」
「命令なのに?」
「泉の命令でも、だ。やっちゃいけないことは細かく決められてんだよ。言っただろ?」
 では、さっきのセックスは何だというのだろうか?
 泉は目の上まで上掛けをあげると、思いついて再び顔を出す。
「じゃあ、ベッドで一晩中オレを叱れ……」
 言うと、浜田の瞳が一瞬怪しく輝く。
 それは、泉の中に期待を生まれさせるのに十分な強さだ。
「それもだめだ。主のベッドにもぐりこむのは絶対ダメだってことになってるからな。第一、のべつまくなし泉を叱り続けてるのもヘンだろ?」
 くすくす笑いながら、それでも耳元に浜田がそっと毒を落とす。
「それが望みならば、明日もまたプールに行こうぜ。叱り方はどんなのがいい?」

 ぶるり、と震える。

 身体が勝手に期待して熟みはじめるのがわかる。
 泉は頷いた。
「明日も、ガーデンプールだ」
 散々突かれた内側がもう欲しがりはじめている。
「浜田の、好きな方法で、叱れ。それから、もっとお前のこと教えろ……好きなやり方で、いい、から……」
 旅はまだあと一か月続く。
 たどり着いた陸で夢から覚めるのか、それとももう覚めない夢の中に頭のてっぺんまで浸かってしまったのか、泉にはわからない。
「叱ってやるよ。泉がそうしてほしいなら、いくらでも……」
 目を閉じると、途端に疲労が瞼に重くのしかかる。
 泉は手を伸ばした。
 気づいた浜田がその手を取る。
 ぎゅっと握りしめた。

 夢から覚めても、浜田を見失ったりしないように。
 泉はまだ、浜田のことを何も知らない。