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● ちょっとだけ過敏  ●




 泉が朝から口をもごもごさせていることに一番最初に気付いたのは、当然のことながら田島である。
「朝からなーにやってんの?」
 フルチャージ状態の田島であれば、どんな難攻不落の犯人であっても自白に追い込むやる気と攻め気が漲っているのだが今日はなんでも一限と二限の間に食べる弁当の配分を間違えたとかで、若干覇気がない。泉の机に顎を乗せて、眠そうな声で尋ねてくる。今の田島ならば、赤ん坊でさえも簡単にヤレる。
「頼むからオレの机の上に涎垂らすなよ?」
「努力はする」
「絶対ぇ、だめだからな!」
「聞こえねぇ……」
 20分の中休み、田島は「残りの弁当を食ったら昼に食べる分がなくなる」という重大な事実を前に、ここで腹を満足させるのを我慢することにしたらしい。そうなれば朝5時から起きて動き回っていた身体に与えるものは睡眠しかないというわけだ。
「お前ぇの机はあっちにあんだろ」
「寝るのにはここがベスポジなの!」
 どんな理由だ。
「オレの机と田島の机は同じだ、同じ。メーカーもサイズも素材も何もかも一緒だっつーの」
 これで一旦バッターボックスに立てば誰より頼もしい四番バッターなのだから、人間外見と普段の様子ではなかなか真実の姿を測れないものだ、と泉はしみじみと思う。
「でも、三橋もこの机がいいらしいぜ?」
 四番バッターの指摘に首を90度巡らせてみればもう一人、泉の「人を外見と普段の様子で判断してはいけない」という人生訓を植え付けてくれたツートップの片割れがこちらはベスポジを確保して既に遠い世界に旅立っている。
 泉は顔をしかめた。
 授業が終わる度に野球部の誰かの机の周囲に三人して集まってしまうのは、もはや習慣となり果てている。
 泉の机は教室の中央から少し後ろ。田島と三橋はまとめて廊下から二列目の前方で、ちょうど前後の位置だからと二人の机をくっつけてたむろすることも多い。田島にしてみると、教室中央の後ろから二番目にある泉の机は「寝る」という目的にしぼるとベスポジ、ということらしい。
「三橋ぃ……お前ぇの机は向こうだ」
「む……大丈夫、だ、よ……」
「大丈夫のその意味がわかんねぇ」
 意識がある状態ならば、西浦のエースはびくりと電流が走ったように飛び上がりおどおどと跳び退くのだが、今は夢の中だ。
「おーい!そんな本格的に寝てもあと十分で授業始まるんだぞ?三橋?」
「まだ、投げられる……よ」
「だめだ、こりゃ」
 泉は天井を仰ぐ。
(でもあれか。前までは田島が無理矢理引っ張ってこなかったら教室の隅で地蔵みたいにじーっとしてたんだし。進歩したよなあ……)
 まだ饒舌には程遠いが、ちゃんと会話に参加するようになった。その進歩を思うと泉はぐっとくる。
(前は弁当も中身見えないように蓋で隠しながら食ってたもんなあ……)
「仕方ねぇなあ……」

 高校で入部した野球部は、なんだか面白いところだった。
 それは他の連中も同じ意見らしい。
 そして多分、面白い感じの核にいるのは泉の机につっぷして寝こけている二人に違いなかった。少なくとも、中学の野球部には田島のようなバッターも、三橋のようなピッチャーもいなかった。
 よくわからないが、とにかく泉は今野球が面白くてたまらない。
 朝四時半集合の練習も、夜九時までやる午後練も、練習試合も何もかも、面白くて面白くてたまらない。
(それにさあ、オレ、最近バッティング調子よくね?)
 130キロに設定されているバッティングマシーンの繰り出す白球を、ここのところ当たり前にいいところに飛ばせるようになった。特に、桐青の高瀬を意識して設定してあるスライダーの当たりがすごくいい。
(オレ、今、伸び盛り……かも……?)
 日々、自分の野球技術が磨かれて向上していっている気がする。そのことに、身震いする程わくわくしている。練習試合が待ち遠しくてたまらない。気持ちだけならば明日桐青との試合があったっていいような気がしている位だ。

 この感じは初めてだった。

 それはいい。
 それはいいのだ。だが。
 それにしても。

「んー。気になる……」
 泉はやっぱり口の中をもごもごとさせて、顔をしかめた。
 寝ようにも、自分の机は他の二人に占拠されてしまっている。もうすぐ本鈴が鳴るまではこのままでいるより仕方がない。
 泉は無意識に教室の中に目を走らせる。
(なーにやってんの?あいつ。もう授業始まっぞ)
 最近になってようやく見慣れた感のある同じ教室にいるはずの同級生の姿がさっきから見あたらない。
(日直?日直だっけ?)
 黒板を見れば、下手くそな字で「浜田」と書かれている。
(やっぱ日直じゃん)
 ということは恐らく今は数学準備室に行っているのだ。そう納得したら少し落ち着いた。
(って、なにオレ、落ち着いてんの?)
 どうもここのところよくない兆候が現れているような気がしてならない。泉は不機嫌の度合いを少し深めた。
 がらり、と教室前方の引き戸が開かれる。
 教室に散らばっていた連中が慌てて自席に戻ろうとし、すぐにそれが先生ではなくて日直の浜田だということに気付いて動きを止めた。
 浜田は、戸口のところで手にしたプリントの束をひらひらさせると、にっと笑った。
「山セン休みだってさ。三限自習ーっ!今からプリント配っから時間終わりに提出な」
 一瞬教室が沸きかけたのを浜田が「しーっ!うるさくすっと先生来ちまうだろうが」とたしなめる。
 泉は相変わらず口をもごもごさせながらその様子を見ていた。
 最前列の机に枚数を数えてプリントを配る浜田と、一瞬ばちりと目があう。
「……」「……」
 目があったからと言って、特別ときめくわけがない。
 普通だ。
(ったりめーだ)
 多少どきりとするにはするが、それは例えば不意打ちで三橋と目があった時にだって感じることだし田島にだってどきりとはする。
 他人の視線を直接瞳で感じると、無意識にプレッシャーをもらってしまうからかもしれない。
「……」
 泉はなんとなく面白くなくて、また口元をむにむにと動かす。
「なんだ、野球部二人沈没かよ。てか、熟睡かよ。オレが先生だったらどーするつもりだったんだ?」
 面倒見のいい男は、野球部の分のプリント三枚と自分の一枚をぴらぴらさせながら泉の側にやってきた。隣の席の椅子を勝手に引っぱり出して三橋の対面に座ってしまう。
 これで机の四辺全てが埋まったわけだ。
 泉はちらりと当たり前に側に座った浜田を見る。
 また無意識に口元をむにむにやっていたらしい。
 浜田が「ん?」と微妙な顔をした。
「どうしたんだ?口もごもごさせて」
「あー?ちょっとな……っ!」
 しゃべったタイミングで顔を歪ませる。
 浜田は泉の様子に、眉をハの字に曲げた。
「なに?虫歯でも気になんのか?夏大始まる前に歯医者行っといた方がいいぞ。奥歯食いしばれなくなる」
「じゃねーよ。大したことないの。口の中になんかできてるだけだから」
 浜田はきょとんとした顔をすると「ああ」と合点した。
「口内炎ね。あー、あれ気になんだよなあ。わかるわかる」
 泉は不機嫌を深く濃くした。
 なんとなく、浜田に「わかるわかる」と言われたことが気に入らない。おまけに、こうなると次に浜田が何を言うかわかるから、よけいムカついてしまう。
「お前栄養片寄ってんじゃねー?お菓子ばっかり食べてたらダメだぞ」
 子どもを諭すように頭を撫でられては黙っていられるわけがない。
「うーるせーなぁ。ちゃんと食ってるよ。肉も野菜も牛乳も!」
「えええ?そうかあ??」
 調子にのると浜田はどこまでも泉に絡んでくる。この辺りはきっと中学時代に先輩後輩だった頃の名残があるせいだ、と泉は信じて疑っていない。
(その認識、木っ端微塵にしてやる)
 浜田には生涯言うつもりはないが、1年生のクラス分けの掲示板で9組の名簿の中に見つけた『浜田良郎』の四文字に泉がどれだけ首を傾げたことか。更には実際に入学式が始まるぎりぎりの時間に浜田本人が教室に現れた時の驚愕がどれほど大変なものだったか。
 多分、自分の人生で、これから先あんなに首を傾げることもなければ驚愕することもない。もちろん、これまでの半生の中でもなかった。

 どっちも浜田に持って行かれた。

 泉にとっては、屈辱だ。
 思い出す度に腹の中がぐるぐるとねじれ、頭の中でいろんなことが回り始める。
 ついつい宿敵を睨むような目つきになってしまうのは仕方あるまい。
 すると、浜田は途端に困ったような顔をする。
「ああもう、睨むな」
 浜田はコンマ五秒で降参した。それでちょっとは機嫌が戻る。中学時代、浜田は泉の上級生だったのだからこれくらいの力バランスにしておくのがちょうどいいということにしている。浜田がどう思っているのかは知らないが、泉はそれでいい。
 勝利に笑ってみせようとして、舌の先にぽつりとできた口内炎が口腔に触れてしまう。
「……うー」
 なんとも言えない嫌な痛みだ。それでまた気になって口の中をもごもごと動かして痛みの元になっているできものを探ろうとしてしまう。
「あーお前、いじんなよ。いじると治り遅くなるぜ?ビタミンBとってなるべく触らない。歯磨きもブラシをできる限り柔らかいのに変えとけよ」
「うー」
 面倒見がいいのは別に先輩後輩の仲を引きずっているわけではなくて、浜田の性分だ。そんなことはわかっているが、それも泉には少しばかり気に入らないところなのだ。
 浜田はため息をついて、手遊びに完全に熟睡している田島の頬をつん、とつついた。田島は眠りながらも的確に悪戯してきた浜田の手をぴしゃりと払いのける。
「でっ!なんだ?こいつ寝てんじゃねえの?」
「ウチの四番にはまだ野性が残ってんだよ」
「あー、なるほど」
 妙に納得したように、浜田が頷いた。眠っている三橋を指して「こっちは?」と尋ねてくる。泉は少し考えて「気持ち宇宙人入ってる」と応えてみせた。
「でもいい奴だよ」
 最後に付け加えた一言に浜田が「ああ。そうだな」と、にっこり嬉しそうに笑った。
 泉はなんだかわからないけれども、複雑な気分になってしまう。
 浜田が泉の知らない小さい頃の三橋を知っていて、三橋も泉が出会う前の浜田をよく知っていた、という事実が遠因なのだとしたら、それは困った問題だ。
(んな、わけがねぇ)
 とりあえず、否定している。認めたら絶対にヤバいと本能が叫ぶので、全力で否定している。
 浜田は田島と三橋に交互に視線をやると「まあ、こっちが野生児でこっちが宇宙人なら、理性ある地球人であるお前としては注意すべきことはあれだ」とふいにまじめな顔を見せた。
「口内炎の一個や二個くらいじゃ何がどう変わるってわけじゃねえけどな。試合当日どーでもいいことで足を引っ張られたりするのはばかばかしいだろ?早く治しなさい」
 その言い方に、またちょっとだけムッとした。
「言っておくけどな。これは不可抗力だぞ」
「口内炎できるのがか?」
「そうだ。昨日練習から腹を空かせて帰ってきたオレにどんなものが用意されてたと思う?」
「知らん」
 浜田はぽかんとした顔で首を横に振った。
「テーブルの上に、千円札が三枚とピザ屋のパンフレットだぜ?親父が出張中だからっておふくろ、夜出かけやがった」
 夕べの仕打ちを思い出して、泉は拳を握りしめる。浜田は気乗りがしない様子で「はいはい、それで?」と生返事だ。
「これがどういうことだかわかるか?まず、オレにこの後絶対ぇ外出すんなよって言ってんだ」
「ああ、出前だけで腹が膨れなかったらちょろちょろ外に出てなんか食いモン買ってくるだろうけど、そんだけあったらまあ、大丈夫だわな。でもお前元気だねー。あの野球部の練習の後に夜遊びしようなんて考えんだ」
「練習で疲れて帰ってきてんのに、誰が外出すっか。さっさと風呂入ってメシ食って寝るに決まってんだろ?」
 浜田は首を横に傾けた。
「じゃあ、問題ないだろ?資金潤沢でいいことじゃないか」
「強制されてるみたいなのがムカつかね?」
「……はあ」
 浜田はシャープペンシルをかちかちと何度も押している。どうも話を真面目に聞く気はもうあまりないらしい。
 だが、泉は今朝からのいらいらの原因について語る先をようやく見つけたのだ、放す気はない。
「しかも、食った残りの釣り銭は返せってことだぜ?せこくね?」
「なんで?」
「ピザ屋、きた時に必ず明細くれるじゃん。おふくろは抜け目ねえから翌朝必ず提出させられる。提出したら釣りがいくらかばれる。あの時間じゃデリバリーしてくれるとこはピザ屋しか開いてねえ」
「ああ!」
 浜田はぽん、と手を打った。
(オヤジ臭ぇ……)
 泉は浜田を軽蔑の眼差しで見つめるが、本人は全くそのことには気付いていないようだった。
「しかも、今はLサイズソーセージ&チーズロールの生地に二種類選べるダブルトッピングと、店舗オープン二周年記念でポテトチップス2袋付きで税込2980円だぜ?しかも、冷蔵庫には未開封の牛乳一本入ってんだぜ?」
 名前の欄に「浜田良郎」と書くだけ書いた浜田は「そりゃあ……よかったな」と、祝辞を述べた。
「練習後で餓えきった野球小僧のためにあるようなメニューじゃないか」
「先に注文してから、風呂入って弁当の空箱水に浸けて洗濯物洗濯籠に突っ込んだらちょうどピザ来るんだぜ?そりゃ注文するぜ」
「ああ、お前の母さんはいろいろ考えてんだなあ。さすがだ」
 浜田は面識のない泉の母親を讃えた。生まれる前から息子とつきあっているとはいえ、嗜好と行動を見事に把握していると言いたいのだろう。

「で」

「で?」
 泉は少し言葉を切ると「うー」と呻った。
「頼んだよ。来たよ。食ったよ。寝たよ。そしたら……」
「朝になったら口内炎ができてたのか。って、泉、ピザ食ったんだろ?牛乳も飲んだんだろ?更にポテチ二袋完食したのか?」
 泉は不機嫌な眼差しで元先輩を見ると「ったりめえだろ」と肯定した。
「ぎざぎざのヤツだったぜ」
 浜田はまたしても眉毛を八の字にして「そりゃ、口の中荒れて口内炎のひとつもできるわ」とため息をついた。
 厚切りぎざぎざポテトのポテトチップス2袋。舌先の小さな化膿の犯人はこれ以外に考えられない。
「自業自得っつんだ、そりゃ」
「うー」
 泉はまたしても不機嫌の低気圧を発達させて、プリントに自分の名前を殴り書きした。連立方程式はこの前阿部に教えてもらって以来、少しコツを掴んだみたいだった。前よりは大分わかるようになった気がする。その証拠に一問目はあっという間に解けそうだ。
「見せてやんねーからな」
 浜田に向かって一睨みする。浜田は苦笑していた。
「ホンット、泉ってかわいげねーなー」
「男がかわいくてたまるか。きめーこと言うな」
 一問目を順調に解きながら泉は威嚇してみせる。それにしても、男子高校生二人に爆睡されてしまうと、泉の机に残されたものを書くためのスペースはほんのわずかしかない。2問目を解くためにプリントの位置をずらしたいのだが、それができない。さっと振り向くと後ろの机の上で2問目を解く。だが、腰をひねった状態のままというのは体勢的にちょっと辛い。
「ううー」
 ちらりと壁に掛かった時計を見た。どれくらいで二人を起こしたものかと頭の中で考えを巡らせる。本当ならば今すぐ起こしても自力解答は難しいだろうが、四人であと3問解けばいいのだからもう少し寝かせておいても平気だろう。
 そう判断して、泉はまた一番最初のいらいらに戻っていく。
「うううー」
 何度目になるのかわからないがやっぱり舌の先にちょこんとできた口内炎をむにむにといじるのを再開してしまう。
 いっそ歯で噛みちぎってみようか、という誘惑にかられた。
「泉、口開けて」
「ん?」
 浜田が神妙な顔をして泉を見ていた。
「口開けてみ。どんななってるか診てやっから」
「えー」
「えー、じゃねえよ。さっきからもごもご口動かしすぎ。こっちが気になるっつの」
「鏡持ってねえの?女子に借りね?」
「るせ。とりあえず診せてみ」
 浜田に言われて渋々口を開ける。
「あー」
 浜田が顔を近づけてじっと口の中を覗き込む。
「んー。よくわかんね。舌ちょっと出してみて」
「あー」
 言われて少し舌を突きだしてみる。浜田がさらに顔を近づけた。
(近ぇよ!)
 すぐ目の前に浜田の顔がある。だが、その表情に別段色は浮かんでいない。
(近い近い近い近い近い近い近いっ!)
 顔が真っ赤になっていく。なのに、浜田の様子は変わりがないように思える。
 意識しているのが自分だけかと思ったら、泉はなんだかすごくムカついた。
「あー、あるある。舌の先のちょっと裏側に近いとこ。白くて小さいのが一個。針先位のぽっちりしたやつだ」
「んー」
 口内の違和感とは裏腹に、思っていたより小さい疾患だったらしい。泉は少しだけほっとした。
「ほら、これ」
 浜田は普段から爪切りで綺麗に指先を整えている。なんでも、バイト先の店長がことのほか接客マナーに過敏らしく、小学校の衛生検査並みに厳しくあれこれ言われるかららしい。

 その指先が、泉の舌先にいきなりちょんと触れた。

「……っ!」
「あー、ちゅーしてる!」
「……ん?ん?」
 予想もしていなかった浜田の行為に泉が悲鳴にならない悲鳴をあげて跳び退くのと、今にも顔がくっつかんばかりの距離にあった同級生二人の姿をむくりと起きあがった田島が目撃して率直な感想を述べたのと、三橋が起きてきょろきょろと周囲を見回したのはほとんど同時だった。
「ってねえよ!」
「してないしてない」
「してなかった?今の?マジで?」
「何?何?」
 真っ赤になって否定する泉と。苦笑しながら顔の前で手をぴらぴらと振る浜田と。決定的瞬間を目撃したはずなのにあてが外れてつまらなそうな田島と。今ひとつ事態が把握できていない三橋と。
 教室の視線は、西浦野球部連中に集中していた。
「あ……やっべ。うるさくしちまった」
 泉が慌てて浜田の頭をぺしり、と殴る。
「なんで殴られるわけ?オレが?ひどくね?」
「るせ。てめぇが余計なことすっからだ」
 その様子を、田島がにやにやと見ている。
 顔は紅いままだとわかっている。泉は浜田にぶーぶー文句を垂れて田島の視線に気付かない振りをする。
 西浦が誇る四番が優れているのは動体視力だけではない。ここ一番のカンの冴えは野生動物並みだと、外野チームの中では結論が出ている。
 その田島は意味ありげな眼差しでじっとこちらを見ているのだ。
(正直、怖ぇ……)
 泉は内心冷たい汗がびっしょりだ。
 ただでさえ口内にあるひどい違和感だったのに、先ほど浜田にちょんと突かれた口の中のできものは指先感触を孕んでしまった。
 違和感の上に他人の指の感触がある。

 浜田の指の感触がある。

 意識した途端、沸騰する。
「泉、顔真っ赤」
「っかくねえ!」
 田島の指摘にかっとなって怒鳴ってしまった。
 三橋はおろおろとして左右に視線を投げている。西浦のエースは繊細だ。人の感情の起伏に特に敏感に反応する。
 だから、泉をはじめとしたナインは当たり前だと思うことを、三橋にひとつひとつ説いて聞かせるのが常になった。
「これは大丈夫」「それは気にすんな」「平気平気」
 三橋には言わないが、言いながら時々正体の分からない何かがぐっとこみ上げる。
 他人のためになんだかたまらない思いになる。その度泉は「三橋は自分のチームメイトなんだ」と思うのだ。そんな当たり前のことをことさら意識するなんて今までにはなかった。
 泉は無意識に同じユニフォームを着て同じボールを追いかけて練習を一緒にすればそれで「チーム」なのだと思ってきた。
 いや、それは間違いはないことだと思う。
 だが、三橋と一緒にいると今まで思ったこともなかった当たり前を強く強く意識する。意識して、そしてなんとなく「こいつのために打ってやりたい」という気持ちになるのだった。
(あ−……)
 だから、三橋が自分のせいでおろおろし始めているのを見てちょっと「しまった」と思った。思ったものの、顔は紅いし、いたたまれないし、田島の視線は何か意味を含み過ぎで、ヒートアップした感情は普段の状態に戻ってはくれない。
「どーしたんだ、お前?なんか一人でバクハツしてるぞ?」
 浜田がのんびりと言って、泉の頭をぽんぽんと叩いた。
「てめぇ!」
 諸悪の原因のくせに、飄々とした様子の元先輩は泉の両頬を遠慮なく掴んでむにむにと引き延ばす。
「って!」
「しーずーかーに、しろ。先生来ちまうだろうが」
「うぐぅ」
 浜田はすぐに泉に触る。泉も同じように浜田に触るのだから文句は言えないのかもしれないが、浜田のそれは卑怯だと泉は思う。
「あ、あ、あの……その……浜ちゃ……泉く……」
 びくびくしながら仲裁に入ろうとする三橋に、浜田が最初に、それから田島がにっこり笑ってやる。
「あー三橋、気にすんな。泉は口内炎のせいでご機嫌斜めでちょっとだけきーってなってるだけだから。口ん中治ったら元に戻っから」
「そーそ。浜田と泉って超仲いーんだから放っておけ……てか、なんだよこのプリント?」
「プリント……いつの間に……」
 エースと四番はここにきて初めて課題のプリントの存在に気付いたらしかった。
「あー、三橋のプリント、涎で端っこ濡れてんぞ」
「ぬ、濡れ……っ」
 それで二人の関心はさっさと泉たちからプリントに移ってしまう。
「うううう……」
 浜田は二人の様子を見て泉の両頬から手を外す。
 まだ、顔が紅い。わかっている。泉は目を伏せた。
「てめぇ、絶対許さねえ」
「はいはい。いいよ、許してくれなくて」
 まだ口内には浜田の指の感触が生々しく残っている。
 他人に意図的に舌に触られることなどそうそうあるものではない。
 記憶の中、今も鮮明に残っている浜田の投球。小学生にして大人も見惚れる程、真っ直ぐで豪快な速球を放っていたあのぴっとした指先。あれと同じ指が

(触っ……!)

 思い出した途端、泉の許容範囲は完全に振り切れた。
「あー。沈没した」
 浜田の緩い声が憎くて仕方がない。
「そんな口内炎って痛いかあ?」
「痛い……っ、よ!熱いのとか食べると、しみるし。痛い……」
「まあなあ。確かにメシ食う時とか気になるのはやだな」
 田島と三橋の無責任な会話も本当に腹立たしい。
 泉は机に突っ伏して息を整える。顔の赤みも少しは退いて欲しい。プリントだって2問目までは解いているのだから、あとの3問は残りの三人に任せたって罰は当たらないだろう。
(つっても、それ、自殺行為じゃね?)
 クラスでは並みだが、この四人に絞れば成績はぶっちぎりの泉である。とはいえ、非常事態に一時退避は定石だ。
(あー、あと五分……五分したらフッカツして、プリントやって……)
 突っ伏した腕の隙間からちらりと諸悪の根元を盗み見る。
(ンだよ。大口開けて笑いやがって……)
 やたらとムカつく。ムカついて心臓がずきずきと脈打つ。
 最近ホントにおかしいのだ。

 何がいけないかと言えば、浜田がいけない。
 先輩だったくせにいつの間にか同級生になっていたのがいけない。
 突然応援団をやるとか言い出すのがいけない。
 毎日教室に行くとそこにいるのがいけない。

 全部浜田がいけない。

「1問目と2問目は泉のを写すとして、あと3問かあ。1個ずつ分けてやろうぜ」
「どーせ寝るなら全問やってから寝ろよなあ。おーい、泉ぃ」
「田島、その不機嫌は少し放っておけって。今無理矢理起こしても不機嫌悪化して暴れるだけだ」
「あーそうだなあ。阿部ほどじゃねえけど、泉って結構底意地悪いもんな。機嫌悪いまんまだったらプリント見せてもらえねえかも。うん。だけど、お前、てきとーなとこで起きろよ。じゃないとこれ終わらねえよ」
 田島の凄いところは何を言われてもムカつく気になれないところだ。天才なのか天然なのか、泉の中では徐々に天才の方に天秤が傾きつつある。
(天然成分が多すぎなんだけどな)
「が、頑張るよっ!一問位なら、解ける……かも、しれないし」
 天然と言えば、こっちのエースもそうだ。
(ホント、面白ぇチーム……)
 浜田がいなくても、面白いチームには変わりがない。
(そーだ。てめぇなんかいなくたって変わらねぇっつの)
 正直、浜田が野球部に所属していないしする気もないと知った時には「西浦を選択したのは間違いだった。自分は三年間棒に振った」と肩を落としてグラウンドに向かったものだったが。
 泉はまたちらりと浜田を見る。
 連立方程式を前にして、ひどく困った顔をしている。
 困り顔は眉が八の字を描く。
(わー、すっげ不細工)
 じっと不細工な八の字眉を見ている。
 同じ高校に入ったら、部活や廊下で会うことはあるだろうと思っていたが、まさか教室の同じ机で同じプリント相手に勉強するとは全く思っていなかった。
 あの頃ないようでいてちゃんと存在していた先輩・後輩の垣根が今はもうない。
 それが嬉しいのかそうでないのか、泉にはよくわからない。なんだか、いつも複雑な気分になる。
「うー。わかんね。つーか、問題の意味がわからねえ」
(去年も同じ授業受けてるくせに、なんでそうなるんだよ?)
 呆れてものが言えない、とはこのことだ。
 泉はじっと浜田の顔を盗み見る。
 じわじわと広がっていく感覚は、なんだかすごくやばいもののような気がしている。浜田を見ていると飽きない自分が少し怖い。
 口内には浜田の触れた感触が残る。それは一体いつになったら意識しないようになるのだろうか。自分はこの先もずっとほんのぽつりと触れただけの指の感触に、紅くならなくてはいけないのだろうか。

(全部、浜田が悪い)

 考えているとぐるぐると色んなものが渦を巻いてたまらないので、泉はとっととそのように結論づける。
 それが、浜田に対する無意識の甘えなのだということはとっくに自覚していることだ。
 泉はそっと口の中をもごもごと動かしてみる。

「痛っ!」

 きりりと刺されるような痛みが走って思わず声を出してしまう。

「あ、狸寝入り」

 田島の冷静なツッコミにも、泉は無視を決め込んだ。
「……っ」
 浜田が脇腹をこつんと小突いてくる。机の下で、そういうことをする。
 まだしばらく顔を上げられないな、と泉は思った。
 どうしてそんなことで顔も上げられない程動揺するのだろうと、それはこっそり意識のずっと下の方で考えた。
 しばらく、考え続けていた。

 結局泉が復活したのは、授業時間の終わり五分前である。
 四人のプリントの五問目は手つかずのまま提出されることになったのだった。
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