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 ベンチに戻った途端、雨がずいぶんとひどくなっていたことに気がついた。ベンチの屋根を雨が叩く音が大きくはっきり聞こえる。
 この回は自分の打順まで結構ある。泉はぐっしょりと濡れたアンダーをひとまず着替えることにした。
「あー、ちょっとやばい、かな?」
 花井が呟く声が聞こえて泉は荷物の中からひっつかんだ替えのアンダーとタオルを手にしたままでグラウンドの方に振り返る。
 審判員が集まって何事か相談を始めているのが目に留まる。思わず足が前に出た。
「結構、降ってきてるしな。このままやりてえんだけどな。やらせて欲しいな」
 すぐ隣では頭からタオルを被った花井が不安げな様子でグラウンドを見守っている。その言葉で泉は初めて審判員達が集まっていることの意味について思い当たった。

(まさかコールド?嘘だろ?)

 急に不安な気持ちが頭をもたげてくる。
 回は七回までを消化したところだ。
 桐青は三橋のワイルドピッチでラッキーな勝ち越しを決めたばかり。
 このまま雨天コールドになれば西浦は敗戦になってしまう。

(やめてくれよ。オレはこの後まだ打順廻ってくるんだぜ?試合……このままやりてぇよ)

 多分四月の始めに桐青と対戦していたらこんな気持ちになっていなかった。
 いや一ヶ月半前の抽選会の時には一年の夏は桐青と当たる今日で終わるのだと思った。
 あの時の自分と今の自分では一体何が変わったのだろうか。
 浜田は最近「泉たちはなんかたくましくなったよな」としきりに言う。
「なんだよ、それ。おふくろじゃあるまいし」そう言って一笑に付しているが、泉は本当は「もしかしたら浜田が言う通りかもしれない」と思っている。
 一月半前には絶対バットにかすりもしなかったボールがよく見えるようになったのは間違いないことだし、今現在も自分は去年の甲子園出場校に勝つことしか考えていない。
 この、恐ろしい程のポジティブシンキングは春先の自分では絶対に持つことはできなかった、と断言できる。
 泉は何事が相談をしている審判員達をじっと睨んだ。

(やらせろよ。やらせてくれよ)

 ふつふつと沸き上がってくるこの感情をきっと闘志と言うのだろう。
 今それを遮られたら、内側に渦巻くエネルギーは暴走してしまいそうだと思った。
 知らず握りしめた拳を見つめる。そんな強い感情が自分にあったこともそういえば今まで知らずに生きてきた。

(あーやっぱオレ変わったかもよ?浜田?)

 この雨の中傘もささずにスタンドで試合再開を待っている男にそっと語りかける。

(てめぇのせいだぞ?わかってんのか?)

 浜田が西浦に進学したことは中学の野球部の先輩にこっそり教えてもらって知っていた。もしもあの男がこの学校に入っていなかったら、受験しようなんて思いもしなかった。

(試合終わって、話す機会あったら言ってみっかな?)

 今、自分は西浦で野球をやっていることが楽しくて仕方ないと。
 そして。

(どーしようかな?言うか?)

 実は浜田が進学していなかったら、西浦なんか受験するつもりなかったと。
 浜田が西浦に入ってくれていたおかげで、自分は西浦を選んだし、そうじゃなかったらこんな楽しい気持ちにはなっていなかったかもしれない、と。
 もちろん、進学した先で入部するのは野球部と決めていたし、そこはそこで楽しかったかもしれない。
 だが、こんなに面白いチームだった可能性は多分すごく低い。
 一年生の内から思いきり練習ができてこんなわくわくするような試合に出れて。そんなことは少なくても絶対になかった。

(すっげぇ、楽しい……)

 言うか言わずにいるか。
 泉は考える。

(勝ったら)

 ふと考えた。

 勝ったら教えてやってもいいかもしれない。

(あーでもオレ絶対ぇ勝つつもりだし、そしたら最初から言う気満々ってことじゃね?)

 そんなことを考えている。
 アンダーを気前よく脱ぎ捨て、タオルで適当に身体を拭く。それから乾いたシャツに袖を通した。さらりとしたコットンが肌に触れると柔らかな温かさを感じる。それで結構体温を雨に奪われていた自分を知る。なんとなく元気になった気がした。
 つい、笑みが零れる。
「なに?泉なに笑ってんの?」
 西広が不審そうに尋ねてくる。
「オレ、今、すげー普通に桐青に勝つこと考えてんなあって思ったら、つい」
「ったり前だろ?ここまで来たんだぜ?オレ達!桐青を、これだけ苦しめてんだぜ?」
 花井が会話に割り込んできた。
「いけるよ!絶対!」
 思わず三人で顔を見合わせてにっと笑ってしまう。
「勝とうぜ」「勝つ!」「勝とう!」
 声に出してみると、覚悟と気合いはよりリアルになる。
 さらさらのアンダーの上に雨に濡れて重いユニフォームを着直した。ずしりとくる。

(わ、すっげー水吸ってる……)

 浜田と顔を合わせたらこの重さのことも話さなくてはならないと泉は思った。

(話すこと、いっぱいあるなあ……)

 見て聞いて感じた全てを浜田に話したくて仕方ない。
 泉は再びスタンド最前列に陣取っている男に思いを馳せた。きっと今、試合の続行を案じて困った顔になっているに違いない。

(勝つから)

 そんな強く思ったことはかつてないかもしれない。

(勝たないわけないだろ?)

 逆転されたばかりなのにこの勝ち気はただ事ではない。
 打席に立つのが待ち遠しいとさえ思っている。

(とにかく打って出る。そんで田島に打席回す!)

 自分の仕事をもう一度確認する。腹の底に何かがしっかりと据わった気がする。

 審判員が試合続行を伝えにきたのはそれからすぐのことだった。

「あれ?あいつら何やってんだ?」
「あ、みんな奥に引っ込んでくの見た」
「ったく、しょうがねえなあ!」
 ダグアウト裏に引っ込んでいるらしい連中を花井と西広が慌てて呼びに行った。

 みんなが戻ってくる。

 泉はずっとグラウンドを見つめていた。
 桐青のナインが守備に散らばっていく。もう、すぐに試合が再開されるのだ。
 反撃を始めるのだ。
 ぞくぞくと身震いが身体のそこから沸き上がる。

(やべー、マジ楽しいぞ。浜田)

 そうだ、1番に伝えなくてはいけないことはこの震えるような楽しさだ。

(一緒だかんな)

 浜田が野球を続けなかった理由を泉はまだ聞けないままでいる。
 恐くて聞けない。

(ちゃんと一緒にやってんだからな)

 泉はじっとグラウンドを見ていた。

 雨はやまない。
 だが試合は続く。

 最後のアウトは九回裏だ。
 三つ目のアウトの後でマウンドの三橋に駆け寄るのだ。ウィニングボールを手渡す役が自分だったら最高だ。
 そうして、援団への礼を大声で言った後で浜田にかるーくVサインしてやるのだ。
 情けない顔でフェンスにしがみつく浜田の顔ならちゃんと想像できる。

(大丈夫だ)

 雨はやまない。
 試合は続く。

 最後に笑うのは

(絶対ぇオレら、だ)
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