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● My First Hero  ●




「オレらの学校にすっげーピッチャーがいるんだぜ」
 泉がその話を聞いたのは金曜日の給食の時間のことだった。
「すっげーピッチャー?」
 四年生から始めた軟式野球は、今現在、泉にとって一番関心があることだった。特についこの前、ゴールデンウィークの最後の日にあった試合で始めてタイムリーヒットを打ったばかりでもある。
 闇雲に振ったバットではなかった。
 ちゃんと「ここに来る」と思ったところに来ると思った通りのボールがきた。試合前に密かに自主トレで素振りを何回もやっていたのが効いたのかもしれない。打ったボールはライト前に綺麗に飛んだ。そこで大きくバウンドして更につっこんできた外野の頭の上を抜けて一番深いところに転がっていった。人生初のタイムリーは泉自身の足の速さも手伝ってスリーベースになった。
 日曜日の試合の、あの瞬間のことを思い出すとどきどきして胸が震える。
(ありゃあ、結構いいピッチャーだったんだぜ?)
 三角パックの牛乳をちゅるちゅると吸いながら、ついにまにまとしてしまう。しかも六年生ピッチャーだ。五年生の泉にスリーベース許したなんて、さぞや悔しかったに違いない。
 泉はうきうきだ。
(オレ、すっげー!)
 同じチームに属しているクラスメイトは泉の関心がいまひとつ薄いことにやきもきしたように身を乗り出した。
「なあ、泉!すっげーすっげーすっげーピッチャーなんだってば!」
 口角泡を飛ばす勢いに机を繋げて食べている同じ班の女子が見咎めて「高木、唾飛ばすのやめてよ。給食に入るでしょ!」と文句を言う。
「うっせ!ブース!」「なんですってぇ!」
 きーきー言い合いになっているのを、泉は蚊帳の外で眺めていた。
 カレーシチューは人気のメニューだ。あっという間に平らげられる。おかわりだって、一人一回だと決まっている。
 実は最近、泉は身長がちょっと伸び出している。既に160センチを越えた奴らが言う「成長痛」らしき膝関節の痛みも感じている。
 きっともっと背が伸びたら、今度はホームランだって打てるかもしれない。泉は期待にわくわくしていた。
 そんないい気分なのに、高木は無神経に言うのだ。
「でさ、そのピッチャーだけど。結構噂になってんの、泉知らねえの?」
 野球仲間にまるで「こんなことも知らねえの?」って口調で言われると、なんとなくかちんとくるではないか。
 泉は少しむっとして言い返す。
「そーんないいピッチャーだったら、なんで対戦した時にみんな騒がねえんだよ?うちの学校ってことはこの辺のチームの奴なんだろ?だったら、練習試合とかでもう当たってたっておかしくないじゃん?オレ、そんなすっげーすっげーすっげーピッチャーなんて当たったことねえぜ?」
 そう言うと、高木はにやりと笑った。
「そりゃあ、当たるわけねえよ。だってそいつ……リトルらしいぜ?」
「リトル?……ああ!」
 そういえば、野球は硬式と軟式があったことが、頭から抜けていた。
 小学生の野球は硬式球を扱うリトルリーグと軟式野球とに分かれる。
 泉はたまたま友達のお父さんがコーチをやっているからと地元の軟式チームに入ったが、このあたりにはリトルリーグのチームだっていくつかあるのだ。
 クラスメイトが意気込んで言うのはリトルリーグのチームにいるピッチャーのことらしい。
「リトルリーグの奴だったら別に、オレらと当たることはないんだから関係なくね?」
 それに、リトルの連中はなんとなくえらそうにしているという感じがするので泉はちょっと敬遠している。
 その、リトルのピッチャーにすごいのがいると、クラスメイトは言うのだ。
「でもさあ、すっげー速いんだって。速すぎて誰も打てないって。今、平和町リトルはそいつのおかげですっげー強くなってんだって」
「高木ぃ、だからオレらには関係ねって……」
「ウチの母さんがよく行く美容院の息子が平和町リトルの助監督やってんだ。すっげー自慢してたって。そいつならプロになれっかもしれねえって。知り合いのプロ野球の人に試合とか見に来てもらう予定なんだって」
「……プロ」
 途端にどきどきしてくる。
 この前の春休み、引退したプロ野球の選手がチームに特別コーチとしてやってきた。大きな身体、大きな手。泉はバッティングフォームを見てもらって、それから自分でわかるほどにぐんぐんとバッティングが伸びた。それがこの前のタイムリーに繋がったと信じて疑っていない。
 元野手だったはずがピッチングスタイルで投げてもらったら、スピードガンで130キロ出ていた。目の前を通過していくボールがまるで見えなかったことに泉はひどく興奮したのだ。
 プロのピッチャーはあれより速いボールをコンスタントに投げる。同じ学校で同じように野球をやっている同じ位の年齢の奴がそんな世界にいける可能性を持っている、と聞いたらにわかに泉の心臓はどきどきと高鳴りはじめ、急に「リトルにいるすごいピッチャー」のことに関心と興味がわいてくるのを感じていた。
「見てみたくね?どんだけ速いのか。ホントに速いのか」
「……見たい」
「だろお?」
 クラスメイトの目はらんらんと輝いている。



 荒川の河川敷グラウンドは、朝っぱらから大賑わいだった。
 ゴールデンウィーク明けの日曜の空は晴れ渡り、暑いくらいの日差しが照りつけている。
 泉はクラスメイトと共にいかにも平和町リトルの関係者です、という顔をして応援席に座った。確かに平和町リトルは上げ潮なのだろう。少年野球の練習試合にこれだけの人が集まっているのがその証拠だ。
 泉はきょろきょろとユニフォーム姿でグラウンドに散らばる選手を目で追う。
「どれだよ?」
 なんとなくスパイにでもなったような気持ちで、こそこそと友達に尋ねれば「あれあれ。あのちょっとでっかいの。一番つけてっだろ?」とこちらもこそこそとした返事をする。
「ああ……あれか……ハ・マ・ダ……浜田って言うんだ。何年生だっけ?」
「六年」
 泉のちょうど目の前がピッチャーの投球練習のスペースになっていた。
 ゆっくりと肩慣らしのキャッチボールを浜田が始めている。相手はプロテクターをつけているから、これが浜田とバッテリーを組んでいるキャッチャーなのだろう。
(なーんか、抜けてる感じの顔してんのにな)
 でも、楽しそうにボールのやり取りをしている。と、泉は思った。
 小さなボールを投げて捕る。捕ってまた投げ返す。それだけのことなのに、それはなんて楽しいのだろうか。いい球をグローブでしっかり受け止めた時のあの胸がすく感じ。投げ返したボールが相手のグローブに収まるいい音を耳にした時の小気味よさ。
 浜田はそういうのを今、全部味わっているのだろう。
(確かにいい球だなあ……)
 最近「いい」とか「悪い」とかいうのが、ちゃんとわかるようになってきたと、自分でも思う。
 ちょっと、浜田とキャッチボールをしてみたいな、と思った。
 キャッチャーが座る。マスクを被ってミットを前に突き出して構えた。
 知らず、泉は息を呑む。
 浜田が投球体勢に入った。

(顔つきが、変わった)

 優しそうな柔和な様子は霧散し、真剣できりりとした表情でキャッチャーが構えるミットをにらんでいる。その落差にくらりとしてしまう。
 投球フォームは流れるようだ。無理のない自然な体勢から、振りかぶった腕が下ろされる。

 目の前をボールが線のようになって通過する。
 キャッチャーのミットが、いい音を立てる。

「すっげ……」
 隣の高木が思わずつぶやく声が聞こえた。
 泉の目にはしっかりと今の速い速い一球が刻まれる。
「すげえ。速ぇ……」
 しかも、ミットが相当いい音をしていた。あれは、速いだけではなくそれなりに重いということだ。
「ナイピー!」
 キャッチャーが嬉しそうに浜田にボールを投げ返す。もう一球。食い入るように見ている泉の目の前を白球が通過していく。
 胸がわくわくする。
(すげぇ。ホントにすげぇ)
 正直、自分のチームにいる六年生エースとは桁違いだ。軟式と硬式の違いはあれどもピッチャーとしての資質そのものが全く別次元にあるのだろう。
(あのボール、打てたらいいなあ)
 いや、それよりも。
(ああいう投手のバックってやりがいありそうだなあ)
 あれだけ速いなら、当たればいいところに飛ぶだろう。最近守備位置が固定しつつあるセンターの泉は、浜田がめいっぱいで投げて打ち取ったフライをグラウンドで存分に追える。
 走って走って、白球に追いつく。キャッチした球をすぐさま内野に思い切り投げ返す時の気分はどうだろう?
 浜田は振り返って「ナイスセンター!」と嬉しげに泉に声をかけるのだ。

「いいなあ……」

 センターの守備が大好きだ。
 広いグラウンドの、一番広い範囲を守れる。走って走ってフライに追いついた時の気持ちよさは他では味わえない。バックホームも好きだし、連携プレイが決まった時の快感は結構すごいのだ。
 そしてそれを、こんなピッチャーのためにできたらいい、と泉は初めて思った。
「……ん?」
 目の前の浜田が、数球投げたところで少し顔をゆがめたような気がしたのだが、気のせいだろうか?
 ボールを受け取ると鬱陶しそうに腕を振っている。まるで、右腕に違和感を感じているようにも見えた。だが、次の一球はやっぱりいい音を立ててミットに吸い込まれていったし、もう浜田が微妙な表情をすることもなかった。
「気のせい、か?」

 審判が選手を呼んだ。試合が始まる。

 試合は投手戦。

 いや、ほとんど浜田のワンマンショーだった。文字通りの剛速球の魅力はすごかった。泉は平和町リトルが守備につく度、食い入るように浜田の投球を眺めていた。
 平和町リトルは要するに浜田頼みのチームで、明らかに格下に見えるピッチャーをなかなか攻略できないでいる。
「あー、なんかいらいらすんな。あれくらい打てっだろ?」
「なあ。オレだったら絶対二本はヒット打ってるな」
 いきりたつ野球小僧二人はだがだからといって、かっこよくピンチヒッターとして登場というわけにはいかない部外者だ。
 泉はもぞもぞしながら試合を見守る。
 じっと浜田を見つめている。また、相手チームは為す術もなくバッターボックスでくるくる回ってチェンジになった。

(あいつすげえなあ……)

 かと思えば、しょうもないボール球を思いきり空振る平和町リトルの一番が三振してすごすごベンチに戻っていく。
 これでは、浜田が休む暇もないだろう。

(あいつのために、打ってやりてえなあ)

 もどかしくて仕方がない。
 マウンドでたった一人のピッチャーを助けてやりたくて仕方がない。
(どうしようか)
 心の中に、試合が進むにつれて育ってくる思いがある。
(どうしようか、オレ)
 あっという間に生まれて、急速に成長してきた強い強い思いだ。

(どうしようか。おふくろにリトルのチームに入りたいって、言うか?)

 もう気持ちは完全に浜田の方に向かっている。
 あの後ろを守ってやりたい。
 高くあがったフライを難なく取って、嬉しそうにしている浜田に「こんなの、大したことじゃねえぞ」と片手をあげてやりたい。
 たった一人で戦っているように見えるあのピッチャーのために、スリーベースでもホームランでもなんでも打ってやりたい。

(あいつと、野球したい……!)

 びっくりするほどの強い感情だった。
 どうやって止めたらいいかわからない。止めたいとも思わない。
 浜田がまた三振を取った。
 にっこりと嬉しそうに頷いている。
 その横顔を見ながら泉の中で強い強い気持ちにまた力が注がれる。
(やっぱり、言おう。おふくろに。ああ、でも高木とかは軟式辞めてリトル行くっつったら、裏切りだ!って騒ぐかもな)
 でも、あの背中を守りたいと思ってしまったのだ。守るためには、同じチームにならなければ始まらない。
 ならば、リトルに行くしかないではないか。

 と。

「あのピッチャーは……」
「うん、あれはもうどうしようもない……」
「典型的なリトルリーグ肘で……」
「かわいそうに」
「才能あるのにねえ……」
「多分今はまっすぐ伸ばすのも辛い……」
「だから、この試合を最後に……」

 風にのって、大人の声が泉の耳に届く。
「……?」
 思わず声のする方に首を巡らせたが、不穏な単語ばかりが耳につく会話をしている大人がどこにいるのか泉にはわからない。
(今の、浜田のこと、話してんだよな……才能あるピッチャーって、浜田しかこの場にいねえし)
 胸がどきどきするのがわかった。
 だけど今度は浜田の投球を観ている時のあのわくわくするようなそれではなくて、もっと違う、不安で仕方がないときのそれだ。
 小さい頃、一人の留守番で雷を聞いている時のような、ばあちゃんが倒れて担ぎ込まれた病院の待合室にいるような。そんな。
 なぜ、浜田のことを話しているらしい大人が口にする単語が不穏な響きのものばかりなのか。泉の心臓はぎゅっと鷲掴みされたみたいにどきどきいっている。

 浜田はグラウンドで一人、黙々と投げている。
 時折、いいボールが決まったと笑う。
 流れるようなフォームから繰り出されるのは小学生とは思えない速い強い球だ。見惚れてしまう。
 泉は見ていた。

 ずっと、浜田だけを見ていた。

 それは、初めて浜田良郎を認知した、泉の中に今も強い印象で残る思い出だ。

 結局泉の「浜田と野球をしたい」というその望みが叶ったのはそれから数年の後である。
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