●● farewell flower ●●
期待の方が不安よりずっと大きかった。
泉は高木が持ってきてくれたペラ一枚の入団申込書を前に、どきどきしている自分を感じていた。
ほんの十日ばかり前のことだ。
同じ小学校に「浜田さん」という剛速球投手がいる、と教えてくれたのは軟式野球仲間でクラスメイトの高木だった。
まるで自分のことのように「リトルのチームにさ、すっげーすっげーピッチャーがいるんだぜ」と泉に言ってきたのだ。
半信半疑で観に行った試合で、泉は奇跡のように速く強い球に出会った。
浜田に、出会った。
硬式かそうでないかの違いだけで、さして軟式の自分達と違うようには見えなかった連中の中で、一人輝いて見える人を見た。
泉たちとたったひとつしか年齢が違わないのに、その右腕から放たれるボールは猛烈な勢いでキャッチャーミットに吸い込まれていった。
惚れ惚れした。
何球かおきに球をこぼすようなヘボがキャッチでなければきっと自分は最初から最後までしびれるような感覚を持ってその人を観ていられたに違いなかった。
生まれて初めて、この投手の背中を守りたい、と強く願う人に出会った。
目の前で惜しまずに繰り出される、強く速い綺麗な投球。
浜田、と言うその六年生の手から放たれるボールは信じられない位のスピードでキャッチャーミットに飛び込んでいく。
心臓が痛くて。
ついつい息をするのも忘れて見入っていた。
生まれて初めて、この人と野球がしたい、と痛烈に願った。
浜田のいるチームで野球がしたい。
だから、今の軟式チームを辞める。
試合の帰り道の公園で、絶交を言い渡されるのを覚悟して高木にそう言ったら、クラス一のお調子者は目に涙をいっぱいに溜めて「オレも、泉にそれを言い出そうかどうしようかってすっげー悩んでた」と泉の手をがっしり握りしめたのだ。
泉の感激は多分同じ位の熱さで隣で浜田を観ていた高木にも伝染していたようだった。とくとくと日が暮れていく公園のベンチで話し合い、二人して浜田のいる平和町リトルに移籍しようぜ、ということになった。
問題は親だ。
元々親に「野球がやりたい」とねだって、今の軟式チームに入ったのは泉たち自身だ。なのに、せっかく入ったチームを辞めて別のチームに行く。しかも、軟式から硬式に行くと言ったら反対されるかもしれない、と思った。なんとなく「途中で投げ出すな」とかなんとか、親はそういうこと言いそうだ。
とにかく必要な書類とかそういったものを揃えて交渉するのが一番すんなり行くんじゃないか、という事で会議を終え、必要書類の調達は高木が「オレは平和町リトルの助監督の居場所を知っているから任せろよ」と買って出た。
そして今日だ。
泉はほんの一枚の紙を目の前にしてわくわくしているというのに、高木は暗い表情を隠さない。
「どうしたんだよ?」
泉は不審に思った。
高木だって、浜田の投球にあんなに興奮していたはずなのに。
(それとも夕べ、先におばさんに話して反対された、とか?)
ちょっと嫌な考えが過ぎった。
「泉……オレ、昨日入団届けもらいに行った時に聞いちゃったんだけどさ」
暗くて低い声だ。
響きを例えて言うなら「絶望」だ。
「何?何もったいつけてんだよ?」
心臓がどきどきする。
気持ちは伝染するようにできている。いい気持ちも、悪い気持ちも。どちらかと言えば、悪い気持ちの方が余計に伝わりやすいのだ。
泉はどきどきして、高木の次の言葉を待った。
「浜田さん、リトルのチーム辞めたんだって」
高木は「どうする泉?ホントにこのリトル行く?」と探るような目をしていた。
理由はどうやら肘を痛めたため、らしいが高木の情報網ではそれ以上のことはわからなかった。
聞いた途端に、泉の中で膨れ上がっていたリトル熱が萎んでいくのがわかった。
「……浜田さんがいないんなら、いいや」
別に硬式にこだわっていたわけではないのだ。このまま続けていればいつか高校で硬式に出会うだろう。それでいい、と泉は思った。
浜田の後ろを守れないなら、それでいい。
「だよな!オレも、浜田さんと一緒にやりたかっただけで……母さんに言うのもちょっと勇気いるし……」
それでそういうことになった。
困ったことには女子が足りない。そして男子は一人多いときている。
泉のクラスの学級会はもめにもめていた。
議題は来週に迫った卒業式についてだ。
もっとも泉たちは五年生で主役というわけでも何でもない。ただ卒業式に在校生代表で出席して歌を歌い、在校生代表のヤツが卒業生を送る言葉を述べる。それから先に講堂を出て校庭にずらりと並んで卒業生を待ち受け、女子は男子の六年生にに男子は女子の六年生に卒業祝いのスイートピーを一輪手渡すだけだ。
毎年続いているこの行事は、かなり昔の児童会の発案で始まった伝統行事らしい。
餞の花、というもっともらしい名前がついている。
とにかく、当時の在校生が始めた行事というところがミソらしく小学生に芽生えた自主性を重んじたくて仕方がない学校は、例え在校生の誰もが「卒業生に花をあげたくなんかない」と言ったとしても、ずっとずっと続けていくつもりなのだと、泉は思う。
何年か前に兄がこの行事を経験したが「一生分のフラッシュ浴びたぜ」とにかにか笑っていた。なんせ、毎年地元のケーブルテレビ局がこの美しくも微笑ましい光景を撮るために訪れるし、星回りがかっちりはまるとテレビさいたまが取材に来ることがある位だそうだ。
泉は観たことないが。
そして学級会は今大荒れになっている。
泉のクラスが花を渡すことになっている六年のクラスは女子が一人少なく男子が一人多いのだ。
花は一列に横並びした六年生に合図に合わせて一斉に渡すことになっている。
テレビカメラは、真横からずらりと並んだ生徒達が一斉に花を手渡すその瞬間を狙って待ち構えている。親たちのハンディカムも携帯のフラッシュもここぞとばかりにズームイン、だ。
たまにどうしても人数が合わなくて一瞬遅れて在校生が二輪目を手渡すことがあったりするそうだが、それは非常に画面的によろしくないそうで、PTAからもクレームがくることがあるそうだ。
もはや、何のためにこの行事があるのかわからない。
だが、行事は続けられなくてはいけない。
それは、そういうものだった。
そして、泉のクラスは花を渡す六年生のクラスよりも、女子が一人少なくて男子が一人多いのだ。
女子の主張は簡単だ。男子が一人犠牲になって六年生の男子に花をあげればいい。
だが、男子としても、男に花をあげるのは抵抗がある。いや、何百人もの生徒達の中で自分だけが男に花をあげる、という状況にものすごい抵抗があるのだ。
他のクラスは受け持ちの六年のクラスとの人数合わせがぴたりとできており、状況的にはもはや男子が観念して女子の提案を受け入れざるを得ないところに追いつめられている。
泉はさっきからぼんやりとして、男子対女子の闘いを傍観していた。
(別にいんじゃね?花渡すったって一瞬だろ?それくらいいーんじゃね?)
もちろん、それが自分になるとは思っていないからこそ言える意見である。
「……マジかよ」
泉が引いたくじには赤いサインペンで二重丸がついている。
「泉だ」「泉がハズレ引いたぞ」「泉に決まりだ」
他の男子達は自分がその役割につかずに済んだことを心の底から安堵し、不幸な泉を憐れんだ。
「オレが男に花渡すのかよ……」
若干絶望的な気分になる。
「泉、これは公正なくじ引きの結果だから拒否るんじゃないわよ」
クラス委員の女子が腕組み仁王立ちして泉の前に立ちはだかる。
「……しねぇよ」
ぶすくれてしまうのは仕方がない。
もう、他の男子は「泉がオンナ役」「泉ちゃーん」「コウコちゃーん」と周囲で冷やかしモードに入っている。
「うっせ!こんなの大したことじゃねえだろうが。てめぇら騒ぎすぎなんだよ。ガキじゃあるまいし」
一蹴すると「おおお!」「泉おっとなー!」と冷やかしが賛辞に変わる。
(あー、うぜー)
泉は掴んでしまった二重丸のくじを恨めしげに睨む。
(いっそ、卒業式の日は腹が痛いとか言ってバッくれっか?)
かっこよくクラスの男子に言い放ったものの、正直男に花を手渡すなんて、しかも衆人環視の中一生分のフラッシュを浴びながら渡すのなんかイヤに決まってる。
「泉?卒業式の日は絶対休むんじゃないわよ。休んだらサボリ認定すっからね。先生に言うよ?」
仁王立ちの女子はにっこり笑って泉に言った。これでも結構男子からの隠れ人気はあるのだから、世の中わからない。
(心の中読まれた……!)
いつの間にかクラス委員の後ろに女子が鈴なりになってにこにこ泉に笑いかけている。ものすごく恐い情景だ。きっと、トラウマになる。
しかもずばりと言い当てられては、男として引き下がるわけにはいかない。
「……休むかよ」
再び外野の男子から「おおおお!」と大きな感嘆が漏れた。
「聞いたわよ?クラス全員が証人だからね」
どうも、これがこの前教科書に出てきた「口は災いの元」と言うヤツらしい。
(ったって、一瞬だ、一瞬)
卒業式の日はぴかぴかに晴れていた。
明るい陽射しと春爛漫の暖かさが、だが今の泉には恨めしい。
いっそ季節外れの台風でもきてくれたら、中止になるかもしれないと一瞬思ったのだが、神は泉に味方をするつもりはないらしい。
ハズレくじを引いた瞬間はそんなに大したことではないと、本当に思ったのだ。なのに、ここのところすっかり学年中に「泉孝介が男に花を渡す役になった」ということが広まっていて、毎日他のクラスの誰かが教室を覗きに来る。
うんざりだ。
日々、お役目が鬱陶しく重くなっていく。
軟式野球仲間の高木だけは唯一「ホントに大変だな、泉」と同情してくれる。つくづく男の友情はいいもんだと思う一方、それも気休めに過ぎないのは事実だ。
本当に卒業式当日はバッくれてしまおうかと何度も頭を過ぎったのだが、教室でクラス全員を相手に見得を切ってしまった以上、そんなわけにはいかない。
男のコケンに関わるし、小学生生活はあと丸々一年残っているのだ。
「バッくれ」と呼ばれ続けるであろう汚名は今現在の「花泉」と囁かれるあだ名より、不名誉に違いない。
日々泉は自分の顔が険しくなっていくのを感じていた。
「でもさー、気になることもオレとしてはあるわけよ」
本番当日、泉を見物しにくる人間は普段の四割増しといったところだ。教室の前後の扉から入れ替わり立ち替わり他のクラスの連中が覗きにきている。クラス中の視線もちくちくと痛い。
「何がだよ?」
芸能人の気持ちを実感しながら、泉は高木に聞き返す。
「いやさ、泉が今日花を渡す六年の男子ももう誰になるか決まってるわけだろ?」
「だろうな」
きっとそいつもくじを引いてハズレたのだ。気の毒だがこっちだってかわいそうなのだ。おあいこである。
泉の気のない返事に高木は身を乗り出した。
もしかしたらテレビさいたまが来るかも知れない。そんな噂が流れていた。教室中がみんな若干おめかしモードの今日、いつも適当な格好の高木も生意気にニットのベストにネクタイまでしている。
「いやさ、泉がハズレに決まってから今日まで六年からなんのリアクションもなかっただろ?気になんね?」
「なんねーよ。相手も諦めてんだろ」
いやいやいや、と高木は泉の目の前で指をちっちと横に振る。
「向こうは一生の思い出になるわけだろ?それが、今日一番の注目浴びるはめになっちまったわけだろ?」
「別にオレのせいじゃねー」
「泉のせいじゃねえよ?せいじゃねえけど、オレは普通なんか一言六年がなんか言ってくると思うんだよな。それが、今日まで何もない」
泉はちらりと高木を見る。
(絶対ぇ、昨日やってた小学生探偵のアレ観ただろ?)
高木は悪いヤツではないが、どうも影響されやすいと泉は思う。
その証拠に。
(ゴールデンウィーク明けには、リトルリーグブーム起きてたもんなあ)
高木に誘われて観に行ったリトルの試合ですごいピッチャーを観た。
今でも思い出す。
瞼の裏にまだ残っているあの姿。
もう何ヶ月も前の、たった数時間のことなのにまだ思い出す度に身体が震える。ぞくぞくとして、今まで知らなかった強烈な欲求が持ち上がる。
あの人の後ろを守ってやりたい。
あの人のために打ちたい。
ピッチャーは、野手にそういう思いを自然に抱かせる存在なのだと泉は初めて知った気がする。
自分のためにやる野球と直結して常にそういう思いを抱くものなのだと、初めて。
なのに、泉が同じ空気に飛び込むよりも先に、浜田はさっさといなくなってしまっていた。
ぽっかりと穴が空いたような気持ちもまた、同じ場所にしまわれている。
(まあ、リトル熱が冷めたのはオレも一緒か……)
あの人のバックを守れないのなら、リトルリーグのチームに入ったって仕方がないと思った。
「泉?いーずみー?大丈夫か?お前、ちょっと半分どっか行ってたぞ?改めてショックが襲ってきたか?」
「ちげーよ。だからそんなにオレは気にしてねえって何度言わせんだよ、おめーはよ」
泉はわざとイヤな顔を作ってそう言った。
「いやさあ、だから。他のヤツらはその瞬間まで自分に花を渡してくれるのがかわいい子なのか残念な子なのかはわからなくても、ハズレくじひいたヤツだけは自分に花を渡す相手がわかるんだぜ?気になるの当たり前じゃん」
泉は思いきり眉間にしわを寄せた。
「だから。それがなんで気になんのかが理解できねえよ、オレは」
高木が思いきり妙な顔をした。
「泉、お前兄貴いんだよな?知らねえの?」
泉は首を傾げた。基本的に現代に生きる子どもの端くれとして諸々の情報収集には気を使っているつもりなのだがどうしても抜け落ちる部分がある。
「……あ、そういや朝、兄貴が花を渡した六年がどんなコだったか教えろってなんかうるさかったな。なんか、あんのか?」
もちろん兄には自分が花を渡す相手が男だなどというこっちが不利になるような情報は与えていない。やけに食い下がってきていたから、まさかバレているのかとも思ったがどうもそんな様子ではなかった。
泉はそれどころではなかったから、その時はなんとも思わなかったが気になるといえば気になる反応だ。
高木はため息をつくと「あーあ」とため息をつく。
「知らないのかよ?結構さ、確率高いんだぜ?」
「何の?」
「だからー、花を渡した相手と渡された相手が、カップルになる確率だよ」
「はぁ?」
泉は思いきりいやな顔をしてみせる。高木は心持ち鼻の下を伸ばし気味にして言う。
(頬染めてんじゃねーよ。キショいっての)
おまけに両手の指でハートの形まで作っているから始末に負えない。
「お前、何言ってんの?毎年100人以上が花を渡しっこしてんだぜ?その内何組がカップルになるってんだよ?」
(てか、お前いつの間にそんなことに興味持つようになってんだよ)
泉はそっちの方のショックを抑えきれない。だが、親友の心を知らずに高木はにやにや笑うのだ。
「だーかーらー。そういうジンクスなの。ジンクス。花を渡した相手と中学で再会して、それがきっっかけで、とかさ。全然そんな気がなかったのに実は花を渡しあった相手だとわかってくっついたとかさ。あるんだって実際。それが毎年一組でも二組でも出てたらそりゃそれですごいだろ?だから、重要だろ?花を渡したりもらったりする相手」
チャンスは二回。渡す時ともらう時。その瞬間まで自分の相手に誰がまわってくるのかわからない。
再会は少なくとも一年後だ。
多分会ってもすぐには互いをそれとはわからない。そうとは知らずに出会って、何かの拍子にその時の相手だと知る。
その瞬間、人は思わず知らず運命を感じる。
(あー、女が好きそうな話だな、それ)
泉はため息を隠せない。
「だけどさー、んなこと言ったって実際くっついた奴等がいるかどうかなんてわっかんねーだろ?」
だが、高木は大真面目な顔をして言うのだ。
「そんなことないぜ。ウチの両親、ここの小学校出身なんだけどさ」
「おい、まさか」
泉ははっとして背筋を伸ばす。
「オレ、ジンクスの生き証人。母ちゃんが父ちゃんに花渡したんだってさ。ちゃんと結婚したんだぜ?」
高木は得意げに自分を指さしてにかにか笑っていた。
高木は「泉のチャンスは一度きりになっちまったけど、気を落とすな」と、肩を叩いてくれた。
そんなこと、何の気休めにもなりはしない。
(あー、確かにオレの相手になった六年が偵察にこないのか不思議なわけだよ。よかった、ハズレくじ引いた先輩がそういうくだらないことに気合い入れるタイプじゃなくて)
道理で女子の気合いが漲っていたわけだ。何か滞りがあれば、自分の運命の相手と対面するその瞬間を汚される、とでも思っているのだろう。
当日の今日になっても、女子達の泉への牽制は止まない。これは、万が一にでもタイミングを失敗したらいじめ殺されそうだと泉はしみじみ思う。
肝心の卒業式は退屈だった。
今年の卒業生の中にも何人か軟式のチームの先輩がいて、その名前が呼ばれると泉も何となく緊張して姿勢を正したりはしたが概ね退屈だった。
(あー、オレらの代ってショートしょぼいからなあ。大越さんが抜けんの辛いなあ……青木さんのサード、はまあいいか……)
来年度を戦う布陣を考えては泉はちょっと暗くなる。
(でも、問題はあれか。ピッチャー……)
少年野球において「いいピッチャー」と同じチームになれるかどうかは、かなりの大問題だ。バッティングはある程度までレベルアップすることもできるが、ピッチングはなかなかそういうわけにいかない。大概において、バッティングのレベルアップの方がめざましいと決まっている。
(とりあえず、コントロールがそこそこあって。球が速ければ言うことないんだけどなあ)
チームの新エースの顔を思い浮かべると、若干絶望が混じる。
四年生で入ってくる新顔にいいのがいればいいのだが、そういう子は大概リトルリーグを選ぶと来ている。どこもチーム事情は同じ様なものだが、なんともいえず悩ましい問題だ。
(いいピッチャー欲しいよなあ……)
例えば。
「浜田良郎!」
突然、その名前が耳に飛び込んできて泉ははっとした。
「はいっ!」
大きな声の返事がして、泉の座る席の前方で背の高い少年が立ち上がる。それから、浜田はいささか緊張したような面もちで歩いて卒業式の檀上に昇っていった。
(あれは……)
その背中はよく知っている。去年の五月後半、高木と何度か六年生の教室まで姿を見に行った。
多分泉にとって空前のブームだったのだ。
浜田は姿を見かける度に笑っていたような気がする。いつも教室の中でみんなの中心になって騒いでいるのを見た。その姿はとても「肘を故障して野球を辞めざるをえなかった子」には見えなくて。
どうして、野球辞めたんスか?
いつもそれを訊こうとしては勇気がくじけて挫折した。
あの背中を、しばらくずっと追っていた。
同じ背中だ。
「浜田良郎。以下同文……卒業おめでとう」
校長先生に卒業証書を渡されると、ぺこりとお辞儀をして振り返る。
どうして、野球辞めたんスか?
きっともう、そのことを訊くチャンスは永遠に巡ってはこないだろう。
泉は浜田が自席に戻るまで、じっと目で姿を追っていた。
守りたいと思った、初めての背中だ。
(絶対ぇ、忘れねえからな)
追いつくことを許してもらえなかった背中だ。
今だって悔しくて仕方がない。
浜田が野球を辞めたと知った時のショックは今も消えずに胸の奥にしこりのように残っている。
多分きっとずっと忘れられない。
式は恙なく終了した。
五年生は、PTA有志の合唱を後目にそっと講堂を退場していく。
いよいよ、卒業式のメインイベント、餞の花を渡すのだ。
ずらりと決められた通りに泉達は横並び一直線に並ぶ。百人以上の児童が真っ直ぐの線上に並んだ。
児童会とPTAの有志達が、手早く一人一人に赤いスイートピーを渡していく。一輪一輪が綺麗に透明のセロファンで包まれてリボンもついていた。
校庭には既に地元のケーブルテレビやら、タウン誌やらと思しきプロっぽい機材を抱えた人たちがばらばらと集まり、それ以上に大興奮状態の卒業生の父母たちが手に手にハンディカムを構えてスタンバイしている。
泉は、同じクラスの男子の一番端に並んだ。
(一瞬だ、一瞬。すぐ済むって)
なんだか異常に緊張してくる。たかが、花を渡すだけなのに。泉の右に立っている女子はがたがたと震えている。ケーブルテレビのカメラがさーっと居並ぶ在校生達の表情をなめていった。
やがて、児童会が選択したらしい卒業ソングが流れてくる。
いよいよだ。
体育館から、六年一組の最初の生徒が現れる。ゆっくりと歩いて泉の前を通過する。徐々に校庭に引かれた六年生の白線の上の自分の位置に立ち止まっていく。
(そういや、浜田さん……目の前通るんだよな)
自分の前を通り過ぎて、同じクラスの女子の誰かに花をもらうのだ。
多分それが最接近だ。
(そっか、卒業したんだもんな)
どうして、野球辞めたんスか?
訊きたかったが、それを知ってどうするというのだろう。浜田が野球を辞めてしまったことを、再確認して落ち込むだけだ。
自分が生まれて初めて守りたいと思った背中がマウンドに戻ってくることはもうないのだと、確認して切なくなるだけだ。
(って、考えたって仕方ねえや。オレ、ばっかじゃね?)
続々と六年生が目の前を通り過ぎていく。
そろそろ、自分のクラスの担当の連中が女子の前に立ち始めた。
(浜田さん、来ねえな……)
縦割りの同じクラスの六年生に在校生達は花を渡すことになっている。泉同様不幸な六年男子ももうすぐ目の前に立つはずだ。
そっと、顔を横に向けて自分が花を渡す相手を探る。六年生は男子・女子の順番で歩いてくるから泉に花をもらうことになるのは、男子の一番最後、女子との切れ目にいる人だ。
「……嘘」
その人は、背が高いからすごくよく目立っていた。
泉はぎこちなく顔を正面に戻すと、いきなりがたがた震えだした足を必死でさすって押しとどめようとする。
(嘘だろ……)
それは、休み時間こっそり覗きにいった顔だった。
廊下ですれ違った後で、高木とぎゃあぎゃあ騒いで興奮した顔だった。
生まれて初めてその背中を守りたいと願った人だった。
(ヤバい……帰りてぇ……)
自分が引いたくじの悪さをこれほど呪ったことはない。
(オレが花を渡すのって、浜田さんじゃんかよ……!)
相手はもちろん泉のことなど知るはずもないが、泉はあいにくものすごくよく知っている。いや、その全貌を知っているわけではないが、なんというか、ある意味ストーカーというか追っかけというか、そういう状態に一時期陥っていた相手だ。
神がいるなら、全力で呪おう。
浜田は歩いてくると、泉の目の前に立った。
(あああああああああああああ)
浜田はにこにこと人の良さそうな笑顔で泉を見ている。泉としては大パニックである。逃げたくてたまらない。今すぐ走ってこの場を去りたい。
だが、足は凍り付いたようにその場から動いてはくれなかった。
(ああそうだよな。この人なら、偵察とかしなさそうだよな。そうか浜田さんハズレ引いちゃったのかよ。そうかよ。マジかよ)
ほとんど泣きそうな、情けない顔で浜田の顔を睨み付ける。自分の顔色は今紅いのか青いのか白いのかよくわからなかった。
と、浜田がにこにこしたままで口を動かす。
「……?」
泉は、ひきつった顔のままその口の動きを見つめた。
悪ぃな
ぱくぱくと口を動かしているその口がそう言っているのだと気付いて、泉は浜田の目を見つめる。
(悪ぃな?って、何言ってんだ、この人?)
何で?
同じように口をぱくぱく動かして応えれば、浜田はにっと笑った。
やだろ?
(あ、気を使ってくれてんだ……)
そのことに気がついた。泉が、男なのに男に花を渡す貧乏くじをひいたことを申し訳ないと思っていてくれているのだ。
すーっとパニックが退いていく。
(ばっかだなあ。自分の思い出台無しになったのに……)
泉はなんだかおかしくなってくる。
(運命の相手と会うチャンス、一回ふいにしたのに)
それで、にっと笑ってみせた。
別に
口ぱくで応えれば、浜田はまた笑った。
ありがとう。
泉はなんだかちょっと呆然としてしまった。
(あんただって、やだろ?男に花もらうなんて?なのに、なんで……)
なんだか胸がいっぱいになっている。
(主役に気をつかわせちゃったぜ)
なんだか、嬉しくてたまらなくなっている。
(そっか、オレはこの人の背中を守りたいって、そう思ってたのか……)
視界がぱあっと拓けていく。そんな感じがした。
音楽が止まった。
六年生は完全に校庭に展開し、花を渡してくれる五年生の前に立っている。
「卒業生の皆さん、今までありがとうございました。中学校に行っても、私たちの手本となるよう立派な中学生になってください」
児童会の会長が短い挨拶を終えると急いで五年生の列に戻っていく。
そうして、恒例のドラムロールが鳴り響くと、続いて感動的なファンファーレが流れた。
「卒業、おめでとうございます!」
五年生全員が児童会長の声に続いて大きな声で「おめでとうございます!」と唱和し、一歩前に出る。
光り輝くフラッシュ。ケーブルテレビのカメラクルーが走り回っている。女性アナが何やら感動的な台詞をしゃべっている。ハンディカムやカメラを手にしていない父母や先生方からは大きな拍手が聞こえた。
五年生はその光と拍手の中で手にした紅い花を卒業生に手渡した。
「オレ……」
泉は浜田にスイートピーを手渡しながら、思わず口走っていた。
「……オレ、浜田さんと野球がしたい」
にこにこしながら手渡された花を受け取っていた、浜田の動きが一瞬止まる。
驚いた顔をして、泉を見ていた。
「オレ、中学で浜田さんと野球がしたいんです」
泉も浜田を見返す。
「だから、野球、辞めんな……」
みるみる打ちに目の前が潤んでくる。
(やべ……っ、なんだよ、オレ……)
慌てて、在校生が一歩後ずさる最後のタイミングに合わせて自分の位置に戻った。
浜田は呆然として泉を見ている。
「これより、卒業生は記念撮影に入ります。各クラス、指示に従って集まって下さい。在校生は講堂に戻って自分の椅子を教室に運ぶようにしてください」
教頭の声に、泉は右に、浜田は左に別れる。
今にも涙が落ちそうなまずい状態を堪えるのに必死で、泉は浜田の最後の姿を振り返って確かめることすらできなかった。
早足で歩いていく、その背中に浜田の視線がつきささっているようなそんな気がした。
心臓がどきどきして、自分の椅子を持って教室に帰るまで一言も口を開かず、歩いていった。
自分が引いたのは決してハズレくじではなかったと、ずっとずっと泉は思っていた。
中学生になった泉が、野球部の浜田に再会するのにはそれから一年と少し後のことである。