●● 空色 ●●
そーっとそーっと浜田の住む部屋のドアを閉める。
まだ夜は明けきっていない。頭上に広がるのは紺色の空だ。空気はきりりと冷えている。9月の始めあたりは昼間の熱気が朝になっても抜けなくて、なんとなくぬるい感じがしていたのにほんの半月程度でこの冷たさだ。
これから先、朝はどんどん遅くなっていく。
練習時間は自然短くなって、起きる時間も一緒に遅くなっていくのだろう。
それが、なんだか惜しいな、と泉は思っている。
今、浜田の家があるアパートは、その昔住んでいたというギシギシ荘ほどぼろくはないそうだ。泉にしてみれば充分ぼろいのだが、三橋と幼少時を過ごしたアパートのひどさはそれはそれは言語を絶するものなのだそうで、浜田の大げさな話よりも三橋がそれにちょっと恥ずかしそうに頷く姿に、見たこともない二人の遠い過去を思う。
三橋については多分最初の練習試合の後位から部内で保護モードが発動しているのだと泉は思う。
全員がごくごく自然に見守っている感じだ。
(あー、阿部はちょっと違うか)
あれは、ちょっと過激すぎる、と泉は思う。
三橋と同じチームになれたのはラッキーだった。多分それは野球というスポーツにおいてどれだけピッチャーが大事かわかってるヤツら……だからそれはチーム全員だ……はみんな思ってることだ。
もっと自分を誇りに感じていたっていいのに、西浦のエースはそれを全くわかっていない。
正直、ちょっと放っておいたらどんどんドツボにはまっていくタイプだ。
危なっかしくて仕方がない。それゆえに阿部の保護欲が全開になっているところはあるのだろう。本当によくここまで無事に野球を続けてきてくれたものだと、神様に感謝したい位だ。
そんな三橋がまだ小さかった頃に浜田が側にいたことを知った時、泉はなんとなくほっとしたものだ。それならば転校していってしまったという小学校二年生の秋までは三橋は大丈夫だったはずだ。
そのことについては、絶対の自信がある。
それだけでなくどうやら浜田が三橋の野球ことはじめに関わっていると知った時には、でかい図体の一番上についてる頭を撫でてやる位のことはしてやったっていいと、泉は思った。
浜田が三橋に野球という世にも楽しいものがあることを教えたから、巡り巡って西浦は得難いエースを手に入れることができているのだ。
なんとなく誇らしい、と思っている自分はやはりどこか少しやられているのだろう。
浜田にそのことを言うつもりは、まだ今のところないのだが。
そーっとそーっと閉めたはずのドアはやっぱり少しばかり予想より大きな音を立てて閉まる。跳び上がり「しーっ!」「しーっ!」と二人して唇に指を当てた。
「静かにしろよ。上下左右まだみんな寝てんだから」
浜田がひそひそ声で耳元に囁く。
「お前ん家は角部屋だから右はいねえだろうが……ンな顔すんなよ。わかってるって。浜田が騒音問題でここ追い出されたらオレも寝覚めが悪ぃ」
外階段は鉄でできていて、一歩の足を猫のように忍び足で降りて行かなくてはいけない。
二人して息を殺して降りていく。十数段が永遠のように思えた。
無事に下まで降りると、二人で顔を見合わせて大きく息をつく。
「なんか緊張すンなぁ……」
「ウチの朝練につきあうの、別に今日が初めてじゃないだろ?」
「だけどさぁ、やっぱ朝忍び足で階段降りきるのって緊張すんだよ」
二人して階段下に停めておいた自転車を引きずり出す。ひそひそ声でこれからの予定を確認しあう。
「先に泉ん家寄って、弁当受け取ってから学校な」
「ああ。それと、おふくろ宛のお前のなすの煮浸し置いてかなくちゃな」
泉はタッパーをちょんと指でつついた。浜田がにっと笑う。自信作だそうだ。
(確かに美味かった)
前夜、いきなり浜田の家に泊まることになった。
練習帰りの夜道でばったり会った男から「お月見をやるから来い」と誘われたのだ。
泉の両親は夏大の応援団効果で浜田のことを全面的に支持しているものだから、高校生の息子が夜帰ってきてから突然「これから浜田の家に行く」と言っても全く問題なく送り出してもらえた。
どころか「夜中に帰ってきてがたがたやられるのは迷惑だから泊まってこい」とまで言われた。
泉家は、息子二人に対して高校からの放任を宣言しているのだが、それにしても当日の夜いきなり誰かの家に泊まりに行くと言えば、自動的にイヤな顔をされる。それが浜田に限っては完全フリーパスだ。むしろ「さあ、行ってこい」と手土産まで用意する勢いである。多分、浜田の家を泉の自室の続きだと考えているに違いない。
両親の、特に母の浜田に対する信頼は無限大と言っていいかもしれない。
若干、泉は頭が痛い。頭痛の原因を良心の呵責と認めるにはもう少し勇気と一歩踏み込んだ既成事実が必要だ。
(浜田のおばさんウケは異常だぜ)
その源は、ソツのない社交的な性格と人当たりの良さ、それに手先の器用さに違いないと泉は踏んでいる。
西浦応援団の横断幕、たすき、はちまき、腕章。ついでに人からのもらいものだという学ランのお直しまでを浜田が一人でやってのけたと知った時の母親たちの顔は見物だった。だが、いくら浜田に「こんな風に仕込みたかった理想の息子」像を見いだしたからと言って、いつの間にか時々息子を飛び越えて直接メールやらおかずやらを交換するまでの仲になっているのはどうか、と泉は思う。
しかもどうやらメル友は泉の母だけでなく三橋や花井の母親も、もしかしたら西浦野球部父母会のほとんどが含まれているらしい。さすがにおかず交換までするのは、家が近い泉のところとだけらしいが、それにしても驚異的な事実ではある。
今日は浜田手製のなすの煮浸しを、鶏の照り焼きと大量の塩むすび、それから魔法瓶入りみそ汁とトレードするらしい。本当は前夜、浜田手製の野菜天も大量にあったのだが、それは泉と二人して完食してしまいあとかたも残っていない。
「やっぱりちょっと野菜天残しておけばよかったな」
「いいよ。どうせオレがいるんだから残るわけねえっておふくろも思ってるって。それに……」
(それに、浜田のメシ楽しみにしてるのは本当だけど、おふくろ的にはお前にメシの差し入れする口実なんだと思うぜ?)
言葉は飲み込んだ。
浜田は何もかもわかっているかのような瞳で泉に微笑すると「行くか」とあごをしゃくった。
「ああ」
それから、顔を見合わせると夜明け前の町に漕ぎだしていく。
頬に当たる空気はもう冷たい。
あの鮮烈すぎた夏は去った。もう、秋だ。
タイヤが道を踏みならす音。ブレーキをかければきしむ。
裏道は人も車も、猫すら通らない静けさである。
まだ誰もが家の中でまどろみ、夢の中にいる時間である。
街灯は白い光を道に投げているが、大分その明るさはなりを潜めてきている。もうすぐ、夜が明けるのだ。
顔をあげると、夜明けの気配が徐々に辺りに満ちてきていた。
紺色一辺倒だった空はうすく紫色に染まり始め、天辺のあたりに僅かに星がまたたく。夕べ真夜中に南中していた月は建物の間にほんの少し姿が見えるだけだ。じき、沈む。
毎日、夜が明ける道を走っているが、いつでも気がつくと朝が忍び込んできている。夜と朝の境界は一体どこで線を引くのが正しいのか、泉は未だに判然としていない。
浜田と二人、無言で自転車のペダルを漕いだ。
すぐ側を併走している浜田は、先輩で同級生で友達で、多分、それ以上の関係だ。
小学校の時は遠い存在だった。泉は一方的に浜田の顔と名前を知っていたが、浜田は泉孝介という人間を認知すらしていなかっただろう。
中学に入ったら、間の距離はぐっと縮まった。やたら仲のいい先輩と後輩だったと思う。周囲の連中はみんな浜田のことが好きだったが、誰もが泉が一番浜田にかわいがられている、と言っていた。
自覚はしていなかったが、確かに浜田からはよく声をかけてもらっていたしマウンドで投げる姿にはやっぱり尊敬を抱いた。
(かっこよかった……んだぜ?あの時は)
その投球フォームは今でも泉の瞼の奥に焼き付いている。
泉の家には五分ほどでついた。
浜田を家の外に待たせておいて、泉はそっと家の鍵を開ける。
泉の弁当はもうちゃんと玄関先の靴箱の上に置いてあった。母は日課を果たした後でもう一度寝に戻ってしまったに違いない。家の中はしんとしていた。
「……」
泉の弁当の隣には浜田の分と思しき包みも置いてある。メッセージは何もないが、間違うはずもなかった。
泉は何も言わずに弁当を二つ手にして、代わりに浜田が作ったなすの煮浸しが入ったタッパーを置いて家を出た。
「浜田、これ。ウチのおふくろから」
弁当の包みを手渡せば、浜田は目をぱちくりさせて一瞬何か言いかけ、飲み込んだ。受け取った包みを持つ手に一度、ぎゅっと力を込めるのを確かに泉は見た。
「……あとで、お礼のメール打っておくな」
「ああ。そうしてやってくれ。多分喜ぶから」
そうして自転車の籠に弁当を放り込むと、再び二人して自転車で夜明け前の町にこぎ出す。
中学校の時に大好きだった先輩は、高校生になったらいきなり同級生になっていた。
あの驚愕は人生で空前絶後だ。多分あれ以上驚くことはそうはないと思う。どういうことだ、と詰め寄る前にへらへらと笑って「ダブっちゃった」と泉に言ってきた浜田の口を思いきり掴んで両側に広げてやった。
以来、対等な間柄だ。
同級生になったのだから仕方がない。タメ口をきくようになったし、普通にからむようになった。
田島や三橋は浜田のことを、本人の口から真相が明かされるまでずっと、泉の中学時代の同級生だと信じて疑っていなかったらしい。そういう風に最初から接したし、浜田自身が元々先輩風を吹かすタイプではなかったからその辺は割とすんなりできた。
(だけど、ホントに、絶対ぇ許さねえからな)
未だに泉はそう思っている。
これほどの驚愕とパニックと胃がでんぐり返るような思いをいっぺんにさせられたのだから、当然だ。
このことは一生引っ張ってやるのだ。
空の色が徐々に変わっていく。
普段、気にも止めていなかった夜明けの色が、泉と浜田の上に広がっている。
夜の紺色。黎明の紫。家々の隙間に見える地平線に近い部分は白くそして柔らかな薔薇色でもあり、空はそれら全部の色のグラデーションだった。
だが、それもほんの一瞬で夜の色は藍色になり、さらにトーンの明るい青紫に刻々と変わっていく。
やがて最初の鳥の声が聞こえる頃、一筋のオレンジ色の光が現れる。
冷えた空気を切り裂いて、最初の暁光が世界を照らし出す。夜の領分から遠ざかっていく。
学校までのほんの二十分かそこらのわずかな間、劇的な色の変化が頭上に広がる。
泉は視界に夜明けの色を捉えていた。
(綺麗……だな……)
世界が朝を迎える。
普段は、ただ黙々とペダルを漕いで急ぐ町だ。
(オレは、毎日こんな中を走ってたのかよ)
いつもと違うのは、隣を浜田が併走していること位だ。
何が違うわけではない。
昨日も一昨日も、多分明日の朝も、頭上には同じ様に色が広がり変化して一日が始まっていく。それでも、泉は今朝の空を特別なもののように思ってしまう。
(あー、キモ……オレ、キモ……)
夕べ、一組しかない布団でぎゃあぎゃあ口ゲンカしながら浜田と一緒に寝た。
いつもより少し遅くまで起きていた。
秋になったとはいえ練習は毎日びっちりあって、家に帰ればいつもご飯と風呂をこなしただけで泥のように眠りが押し寄せてくるのに、夕べは平気だった。
大きな月が空を白々と照らしていたから、窓を開け放ち部屋の灯りを消して一晩過ごした。普段よりも明るい夜だったと泉は思う。
あの夜の色も、まだくっきりと身体の中に残っている。
この朝はその夜から続く朝だ。
「……」
ちらりと、視線を浜田に送る。
「……っ!」
ちょうどのタイミングで視線がばちり、とあった。
慌てて顔を前に向けて、サドルから腰を浮かせて立ち上がる。
思いきり、ペダルを漕いだ。
「おい、泉!ンな急ぐなよ、まだ早ぇじゃん!」
慌てた浜田の声が後ろから追ってくるのが気持ちいい。
「うっせ。遅ぇんだよ、浜田!」
笑って振り返り、もっと強く強くペダルを漕ぐ。
基本的にアップダウンのこう配の少ない平坦な道は、一緒に自転車を走らせる者の顔を見るのに最適だ。
前に向き直れば、建物の隙間から輝くオレンジの太陽が空に昇っていくところだ。
今日もいい天気になるに違いない。
グラウンドにもきっと一番乗りだ。
(そうだ、どうせだからさっさと着替えてみんなが来るまで浜田と軽くキャッチボールしよう)
それは、すごくいい考えだ、と泉は思った。
世界に朝の匂いが満ちている。
今日の最初の太陽を浜田と一緒に浴びている。
グラウンドが畑の向こうに見えてくる。
自転車を停めたら振り返って言う言葉はもう決めた。
きっと浜田は一瞬ひるみ、それから笑って「おお!やろうぜ、キャッチボール!」と言うに違いない。
それから始まる一日はすごくいい感じに違いないと、泉は思っている。
いつもと同じはずの世界がこんなに鮮やかに見える理由だって、本当はもうわかっているのだ。
グラウンドの脇に自転車を停める。
案の定、夜が明け初めたばかりの野球場には誰も来ていない。多分いつもよりも十五分は早いだろう。
泉は振り返り、スタンドを立てかけている浜田に声をかける。
「な、みんな来るまでキャッチボールやってようぜ」
名前を呼ばれて顔をあげた浜田は一瞬ひるみ、それからにっこり笑って泉に応えた。
つられて泉もにっこり笑う。
そうして二人して、一緒にグラウンドに足を踏み入れた。