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● 本日の泉さん〜西浦トークSS・田島編〜  ●




 2年の教室から戻ってきたら、もうクラスに残っているのは一人しかいなかった。
 1年生は放課後ともなれば部活にダッシュだ。それが決まりだ。
 そうして、クラスに居残りしていたのは、結構意外な人物だった。

「っス、田島?」

 小柄な同級生は、現在のところ西浦野球部のサードを守っている。浜田の見ている限り四番は間違いなくこの男だ。放課後わざと第二グラウンドの方を回って帰るクセがついているからよく知っている。
 ピッチャーは三橋でキャッチャーは阿部。それから、今のところ泉は外野を守っていることが多いが、まだポジションが定着してはいないらしい。
 なんだかグラウンドに散らばっているナインが眩しい、と思ってしまうのは間違いなく自分のつまらない感傷のせいなのだと知っている。それでも、なんとなくあの眩しいのに近づくのが恐い。

 そんなこと、泉には言えるわけもない。

 なのに泉は構わず浜田に関わってくる。
 当たり前に、当然の権利を主張するようにいつも側にいる。そうすると、どうしたって同じクラスの眩しいのはオプションで漏れなく浜田の側にあることになる。
 最初の数日は結構しんどかった。
 それでも強制的に毎日一緒にいたら少しは慣れた。要はベースボースシャツさえ着ていなければなんとかなる。そこまでのリハビリはできた。
 だが、泉なしでは少し恐い。何のフィルターもプロテクターもなく近づくのは恐い。
 そんなつもりはなかったのに、どうも自分は捨てたはずの野球にひどい未練を残しているらしい。多分、泉にはそんなことお見通しなのだ。
 だからいつでも側にいるのかもしれない。でも、そんなことを思っているなんてこと微塵でも勘づかれたらドつかれる事請け合いだ。
 泉は遠慮がない。
 浜田に対してはいつも真っ直ぐ、全力で向かってくる。

 結構、キツいんだけど。それ。

 もちろん田島は、そんな浜田の胸中などもちろん知るわけがない。
 浜田に名前を呼ばれて、顔を上げるときらきらした瞳でこっちを向いた。

「あー、浜田ぁ!ちょうどいいとこ来た。マジ、助けて。お願い、頼むっ!」

 ちょっとひるむ。
 いつも泉とつるんでいるから、野球部とは自然と一緒にいることが多い。多いが、基本的に浜田に積極的にからんでくるのは泉で、田島と三橋は最終的には毎回変形プロレスに移行する様子を楽しげに見守っているのが常だ。
 いや、田島は割りと……かなり、積極的に参戦してきてそうしてどっちの味方もせずに第三勢力としての存在をおおいに誇示して喜んでいる。
 入学式から半月ほどしか経っていない教室の中で、日々バカ騒ぎをするようなのは他にいない。おかげで既にクラスメイトからは「あいつらはみんなまとめて一個」と認識されているようだ。
 浜田だって、そんなことは自覚している。

 なのに、田島にいきなり懇願モードに入られてひるんでいるということは、もしかしたら浜田の意識だけが遅れているのかもしれない。

「なに?どしたんよ?部活は?」
 浜田は笑って田島の側に行く。机の上には学級日誌が広げられていた。
 午後の日差しはぎりぎり夕方手前、という頃合だ。泉も三橋ももうとっくにグラウンドに行ってしまっているに違いない。田島だけが一人居残りのようだ。
「日直の日誌」
 居残りは地獄の底から響くような低い声でうなった。
「日誌。日誌書かなくちゃいけないんだけどさ。オレ、今日休み時間の記憶ねえんだよ。浜田、助けて。なんか日誌に書けそうなことなかったか教えて」
「特になし、で逃げられねえの?」
「それは許さない、って高橋に釘刺された上で押し付けられた」
「ああ……そういや、この前わざわざホームルームで宣言されてたもんなあ。担任が翌日しゃべるネタを提供しないような日誌は再提出って。なんつー教師だよ、ったく。日直、もう一人いんだろ?高橋はどうしたのよ?」
 明らかに文才とは程遠そうな田島よりはよほど頼りになりそうな女子にこういうことは任せた方がいいはずだ。日誌を見れば、今日の時間割と天気と日直の名前、それから日付しか書かれていない。
 田島と一緒に日直当番になっていた女子の名前を浜田が挙げると、不幸な男は絶望的な表情を浮かべて首を横に振る。
「オレさあ、とりあえず朝練の後で職員室から日誌持ってきたんだよ」
「うんうん」
「で、あとは休み時間ずっと寝てたんだよ」
「あーそうだったな」
「昼休みが決定的でさあ。弁当全部食っちまってたから四時間目終わって速攻購買行っただろ?」
「そういやそうだったな」
「お茶のポットも高橋が持ってきて、返しに行くのも一人でやったんだってさ……それで、キレられた」
「あーなるほど」
 それではこの状況は無理もない。
 不幸にも今日一日分の日直の仕事を全部やることになってしまった女子は、部活に飛んでいこうとする田島の襟首を般若のような顔で捕まえて日誌を押し付けたのだそうだ。
「今日、全部あたしがやったんだから日誌位書いてよね!だって。すげーコワかったー」
「そりゃー……正当な主張だよなあ。諦めろ」
 田島は首を横に振って日誌に顔をうずめる。
「オレ、現国苦手なんだよぉ」
 机に座ったままじたばたし始める。
「お前は駄々っ子か」
 浜田は苦笑した。
「ひっどいんだぜ?泉はよぉ、三橋引きずってさっさと部活行っちまいやがんの。手伝いたそうな顔してたのに、三橋」
 その光景がありありと目に浮かんで浜田はつい吹き出した。三橋は泉とは違う意味でいろいろと思うところのある同級生だが、日ごろの様子からして明らかに非があるだろう田島にでさえも同情してくれそうなキャラだ。

 泉は。

 想像するまでもない、と浜田は思った。
「あー、泉オニだから。そういうところ。ジゴージトクだ、とかなんとか言って速攻見捨てるだろ」
「そうそれ!あいつ全く同じこと言ったぞ。なんだよ、ジゴージトクって!意味わかんねっつの!だよなー!泉、何気にオニだよなー!」

(ジゴージトクがわかんねってのは、ちょっと問題ねえか?田島)

 こっそり、浜田はそう思ったが自分だって漢字はわからないのだからそこはそれだ。
 なんとなく流れのままに浜田は田島の前の席に座る。
「お前、字汚ねえなあ!それにでけぇ!」
 きっとその昔は「元気がいい」と褒められたに違いない田島の文字は与えられた枠いっぱいに書かれていた。
「字がでっけえとその分書く量少なくてもごまかせるとかってねえ?」
「あーあるある。わかっけど、一文字も書けてないんじゃごまかす以前の問題だろそれは」
 田島は「だよなあ……こう、最初の一文字なんだよ。最初の一文字が書ければ後はなんとかなりそうな気がする」と、ホントかどうかいささか怪しい発言をした。
 浜田は「田島の場合はなんか違う気がすっけど、なんかその気持ちだけはわかる」と同意した。
 その返事に、西浦自慢の四番バッターになるだろう男は机の上にあごを乗せたままでにやりと嬉しそうに笑う。
「なーなんか思い出してよ。こーぐっとくるようなこと。なかったか?あんだろ、一個くらい」
 自分は寝ていたと言ったくせに、そう言う。
「何も休み時間だけじゃなくて書くことは授業中のこととかでもいいんじゃねえの?」
「何寝ぼけてんだよ、浜田ぁ……授業中なんてもっと寝てるって」
 眉毛を額の真ん中に寄せて言う。
「浜田だから、休み時間のこと聞いてんじゃん」
 言外に「お前も授業中寝てんだろ?」と付け加えられても、反論の余地はない。浜田は笑ってあごを掻く。
「とりあえず、朝のホームルームからでいいから、順番に思い出していこうぜ。オレは記憶ないけど。なんかあんだろ」
 促されて怒る気にも放っておく気にもなれず、その気になってしまうのは田島の人徳かもしれない。
 そういえば泉が「田島には何か底知れないものを感じる。あいつ、大物かもしれない」と真顔で言っていたのを思い出す。その評価はどうやらいいセンついているようだ。
「えーと、そうだな……泉がすげー機嫌悪そうで不細工面してたけど、朝練でなんかあったのか?」
「あー、泉ぃ?あー、多分あれだ。あいつ、足速ぇだろ?なのに、今日の朝練最後のグラウンド一周のダッシュがさ、部活内四番だったんだ。それだろ」
 浜田は「へぇ」と呟く。
「あいつが四番目ねぇ」
 泉の俊足ぶりは浜田の中でも鮮烈な印象に残っている。
 その様子を見ると、田島はにっと笑って起き直りシャープペンシルをくるくる回した。
「一番が西広でぇ、二番がオレ。三番が花井。で、四番が泉。ほとんど僅差で巣山に、阿部と水谷。いつもは大概泉が一番か二番なんだけどな。今日はスタートダッシュが遅れた上にラスト一周の時のポジショニングが悪かったってへこんでたぜ」
「ああ、なるほど」
 浜田は合点がいった。それはそれは、泉の不機嫌もわかるというものだ。やり場のないムカつきに沸騰していたに違いない。
 とはいえ、それくらいなら最大瞬間風速を記録すれば後は沈静化するレベルだ。
「それで1時間目が終わったら戻ってたのか」
 田島は浜田の声に目をぱちくりとしばたたかせた。
「って、泉のことはいいから。なんか日誌に書けるようなネタ!なかったか?」
 浜田は天井を見上げる。
「んー。あ、1時間目と2時間目の間にお前ら早弁してただろ?猛烈な勢いで。あんな食ってるから昼休みまで弁当が残ってねえんだよ」
「あー、そういや泉がいつもより余計に食うからオレもつい配分狂ったんだよな。なんだよ、オレが居残ってこれ書かなくちゃいけなくなったのって半分泉のせいじゃん」
 鼻の穴を広げて田島が主張するのを、やっぱり浜田は苦笑して見ている。
(いや、それは違うと思うぞ、田島)
 確かに泉はがつがつ弁当を食っていたが、もうその顔はすっきりしたものだった。試合で盗塁を刺されたのならともかく、部活の朝練ダッシュで不覚をとったからといってそんなに気に病むタマではない。
 その証拠に、泉は昼休みにちゃんと自分の弁当の残り半分を食っていたのを浜田は知っている。
「今日の弁当のおかず書いたらウケるかな?」
 田島が真剣な顔で言うので浜田は慌てて制止する。
「それはもー少し西浦に馴染んでからの方がいいと思うぞ。あの担任はあれでなかなか冗談が通じないタイプだ」
 十年ぶりの留年男の監督を努める相手だ。クラスの連中は優しげな容貌に惑わされているが、あれはあれで結構オニなのだ。
「ダメかぁ。いいアイデアだと思ったんだけどな」
 田島は再び机に突っ伏した。
「なんか他にないかー?」
「えーと、2時間目と3時間目の間は寝てただろ。3時間目と4時間目の間は花井が来て泉と三橋呼んでなんかしゃべってったぞ。お前寝てたけど」
「あー、きっとそりゃあれだ。ゴールデンウィークの合宿の件だなきっと。後で聞くからいいや」
「何?お前ら合宿なんてやんのか?あー、だから泉、あんな嬉しそうな顔してたんだな」
 浜田は「うん、うん」と頷く。
「すげーな。野球部やる気あんなあ」
 すると、しおれていたのが嘘のように田島はぴんと身体を起こした。
「ああ。なんか、監督が超やる気でさあ。今は練習もウォーミングアップの延長みたいなのが多いけど、もう結構いい運動量だぞ。面白ぇんだぜ!合宿の時にはさ、どっかの学校と練習試合組むんだってさ。試合久しぶり!すげぇ楽しみ!」
 目がきらきらしている。
「あー、泉もンなこと言ってたな。もしかしてこのチーム、超当たりかもって。で、何?もうキャプテンとか決まったの?別のクラスにわざわざ連絡伝えに来てたってことは、花井がそうなの?」
「んー、まだ入学して半月だしな。主将はこいつだ!って言える位までお互いのことわかってるわけじゃねえし。新設チームだからこそキャプテンて超重要だって思うし。でもまあ、なんかモモカン的には花井って思ってるところはあるな、多分だけど」
 田島はシャープペンシルを鼻の下で挟むとそんなことを言う。きらりと目が光った。
「花井……あいつ、結構飛ばすんだぜ?飛距離だって、絶対ぇ負けねぇ……」
(ああ……結構見てんのね、こいつ)
 田島の冷静な分析に、浜田は舌を巻く。案外ちゃんと見ているところは見ているタイプらしい。入学式からこっち、泉とつるんでいる様子からはなかなか想像できなかった。侮れない。
 と、田島はもう表情を変えて言った。
「日誌に野球部の合宿のことは書いたらだめかな?」
「部活日誌じゃねえからなぁ」
 田島はため息をついた。
「じゃあ、昼休みはなんかなかった?昼休みはなんかあんだろ、普通」
 浜田は天井を向く。
「オレ昼休みはちょっと出てたからなあ。田島は泉達とメシ食ってからどうしたんだよ?」
「速攻寝た。今日はもう寝る日って決めてたんだよ。朝から」
「決めんなよ。お前はよぉ……」
 笑って、まだ縁が出来てから半月足らずの同級生のために記憶を掘り起こす作業を再び始める。
「あー、そういや昼休み、教室にオレが帰ってきたところで泉がさぁ」
「禁止」
「へ?」
 言いかけた言葉を遮られて浜田はあんぐり口を開けて田島を見た。
 困ったような怒ったような中途半端な表情で、西浦の将来の四番がこちらを見ている。もしかしたら攻略しにくいタイプのピッチャーに対してはこんな顔をするのかもしれない、と瞬間的に浜田は思った。
「禁止。あのな、学級日誌は泉日記じゃねーの。浜田はさっきから泉、泉、泉!泉ばーっかしじゃんかよ。もー、泉禁止!泉ネタ以外でなんか!」
「え……」
 あっという間に顔が紅くなっていく。頬が熱い。
「え、オレ、オレそんなに泉のことばっかりしゃべってたか?」
「大体な……あー、もういいや。これ以上部活遅れんのヤだしな。それで行こう」
 田島は言って、真っ白なままの日誌コメント欄に

 泉のキゲンが悪かった。
 泉のキゲンが直った。
 泉が寝てた。
 泉が早弁した。
 花井(7組)が来て合宿のことを話したら泉がうれしそうだった。
 泉がメシ食った。

 そこまで書くと首を傾げて浜田に尋ねる
「で、昼休み、泉はどうしてたんだ?」
「……この前の生物の実験、泉の書いた実験記録丸写しにしたら先生にバレて廊下でいきなり怒られたってキレられた」
 田島は頷くと、途中になっている日誌に

 泉がキレた。

と、書き記す。
「お前、漢字少ねぇよ……てか、おい、それまさかマジで……」
 浜田の声を無視しつつも、少し記事内容について考え直したらしい。
「泉が」と「キレた」の間に「浜田に」と付け足す。

 泉が浜田にキレた。

書き直して、満足したようにぱたんと日誌を閉じる。

「もーこれでいいや。提出してこよーっと」
「えええええ?ちょ、待て!そんなん提出したら泉がまた怒る!」
 さっさと立ち上がり日誌を小脇に、かばんを肩にかけた田島に浜田が取りすがる。
「だーめ!人の質問に泉のことしか答えないのが悪いんだろ?大丈夫だって。浜田が言った、って書いてねえから」
 もう、するりと身を躍らせて教室の出口のところに移動している。機動力もあるらしい、頼もしいスラッガーだ、などと感慨にふけっている場合ではない。
「田島ぁ!頼むよ!」
「にひひ。これなら明日の朝のネタになるよな。浜田、サンキューな!」
 ひらりと身を翻して廊下を走っていく。
「こら!田島!廊下走るな!」「すんませぇん!」
 呆然と佇む浜田の耳にそんなやり取りが飛び込んでくる。
「……オレ、明日休もうかなぁ」
 明朝のホームルームのことを考え、泉の観察記録を担任が発表し、みんなが笑い転げ、そしてその原因に泉が思い当たるまでの到達時間を思い、その後の修羅場を思って暗澹たる気分になった。
 浜田はもう一度椅子にすとんと腰を下ろすと、ため息をつく。

「オレ、そんなに泉のこと見てんの?」

 顔を手で覆い、泉の席に視線をやる。途端、頬がぽっと熱くなるのを感じた。

「……そんな、泉のこと考えてんのかよ」

 肩を落とし、熱い頬を両手で覆ったまま息を詰める。

「やべ……」

 小さく呟いた声は、誰もいない教室の中で溶けて消えた。
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