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● 投手のDNA 〜西浦〜ぜトークSS・沖編〜  ●




 西浦高校野球部にあるボールは、150キロ設定ピッチングマシンと、ピッチャー・沖の左腕から今放たれたので全部だ。
 泉は沖が投げた最後のボールをステップして綺麗にセンター前にはじき返す。隣では阿部がファールチップに倒れた。150キロを前に飛ばせるのは今のところ田島四割、花井三割弱、それから時々巣山と阿部が続くと言ったところだ。
 泉は十球に一、二回なら前に打てる。バントは恐すぎるがヒッティングよりはまだマシに前に転がってくれる。もっとも、監督からは「140キロの投手のボールをバントしてもらうことは当然あるけど、150キロのマシンはなるべくヒッティングしていってね」とは言われている。
 甲子園のスタークラスの高校生投手にはごくごく稀に150キロを投げる『怪物』が現れるが、それは本当に数年に一度の奇跡のようなものだ。
 それでも140キロのボールを投げる投手ならば、県大の上位チームにはちらほら現れてくる。
 高校野球のすそ野は広い。
 硬球は恐い。
 当たると、軟球よりずっとずっと痛い。そして、高校野球のピッチャーの球は速い。中学の時対戦したピッチャーより速い。
 少なくとも、初戦の相手である桐青の高瀬の球は130キロ前後。目の当たりにしたことのあるピッチャーの中では武蔵野第一の榛名より劣るとはいえ、充分速い。
 高校野球において、硬球がぶつかって重大な事故になった例はいくらでもある。

 恐い。打ちたい。恐い。でも、打ちたい。

 どうすれば打てる?

 150キロのボールと向き合う時間は、硬球とスピードに萎えずに立ち向かうメンタルトレーニングの側面も持っている。
 隣でバットを振っていた阿部は、そういう感覚と向き合っていたに違いない。

 人が放るボールはピッチングマシーンのそれとはまた全然感じが違う。
 ピッチャーが投げるのは生きているボールだ。
 もちろん、本当の試合ではバッテリーが二人がかりでたった一人のバッターに挑んでくる。さらにはランナーの存在があり、野手のポジショニング、グラウンドのあらゆる状況、その全てと対峙することになる。
 バッティング練習でのそれは打ち取りにくるボールではないが、ピッチングマシーンが放つボールとは異なる温度があるように泉は思う。
 同じ130キロでもピッチャーの投げる球は打ちにくいと決まっている。
 野球はやっぱり不思議で、面白い。
 バットにボールが当たってグラウンドに飛んでいくのと競争するように一塁に向かって走る、ほとんど本能みたいになったあの感じ。
 野球は、楽しい。
 ここのところで自分のバッティングがぐん、と向上したのは肌で感じて知っている。
 野球が、楽しい。
 泉は振り抜いたバットを置いて息を吐くと、ピッチャーを努めた沖の元に走っていく。
 他の連中はとっくに外野にたどり着いていて、わあわあ言いながらボール拾いを開始しているから、そっちは任せておいてネットや、道具を片づける方に回る。
「大分ボール速くなったんじゃね?」
 沖と一緒に防球ネットを運びながらそう言えば、西浦の正一塁手兼控え投手は「あはは、ありがとう」と笑った。
「沖は最初から結構ちゃんと枠入ってたし、様になってたよなぁ。さすが経験者って感じだったけど。ここんところ投球練習結構やってたからカンが戻ってきたんじゃね?」
「まあ、ピッチャー経験者って言っても公式で投げたことないし、自慢できるような経歴じゃないけどね」
「オレは打つだけならどっちでもいけっけど、左で投げるのはなあ。笑える位へろっへろになるんだよなあ」
 頬を膨らませて泉が言えば沖は苦笑する。
「でも、スイッチヒッターってちょっとかっこよくない?左右どっちのピッチャーが来ても大丈夫!ってさ」
 泉は言われて「にひひ」と悪びれて笑う。
「ったって、中学ン時は打率しょぼかったからどっちのボックス入っても全然違和感ねえってだけであんま意味なかったけどな」
「そうなんだ?意外だなあ。泉、チームの中でも打率いいじゃん。なんか確実に塁に出るっていうか、そういうイメージ」
 泉は「いやいやいやいや、中学ン時のオレはひでかったぞ。自分で言うのもなんだけど」と笑った。それは過去形だと、自分で感じているから素直に言える。
「ここ最近だぜ、なんかバッティングがすげーたのしーって思えるようになってきたのは」
「それはなんかわかる」と沖は頷いた。
 毎日の練習はかなりハードだが、それがちゃんと自分の実になって返ってきていることを実感できれば辛くはない。
「で、どーよ?」
 泉に問われて沖は首を傾げた。
「ピッチャーやってても中学時代と感覚変わってきたりとかってねーの?」
 打撃については確実に何かが変わったような感覚が泉にはある。守備についても悪くない。コンバートポジションについては、中学時代に一時期ついていた守備位置だから問題はない。ただ何かにつけて中学時代の自分とは変わった、というイメージが泉の中には確かに存在している。
 その感覚をチームメイトも味わっているのかどうか、なんとなく尋ねてみたかった。
「ああ……」
 沖は泉にそう言われてちょっと空を見上げた。花曇りの天気はこれから下り坂に向かうらしい。明日はグラウンドで練習できないかもしれない。
 所定の位置に防球ネットを置くと、練習着をぱたぱたと手ではたく。それから、泉に向かって沖は困ったような顔をして笑った。
「花井は多分チームで一番『上手い』からピッチャーやってみろってことになったんだと思うんだけど。オレさ、左投げだろ?昔っからどうしたって『じゃあとりあえずピッチャーやってみようか』って言われちゃうんだよね。希望者が他にいてもさ」
 泉は首を傾げる。
「でもそりゃ仕方ないんじゃね?やっぱ、左投げだとピッチャーかファーストって感じするし」
 泉の返事に「利き腕でポジション決められてもねえ」と沖は苦笑した。
「ピッチャーってさ、やっぱり特殊なポジションだろ?正直な話、試合でマウンドに立つと未だに足元から震えが来るよオレ」
「へえ……そんなもんなんだ」
 泉は思わず沖の顔を見つめる。
「うん、もうね。がくがくきちゃって止まらないんだよね。なんだろう、オレが投げるボールから全部始まるってことへのプレッシャーなのか、それともオレが打たれたら負けるっていう重圧なのか、単純にぴりぴりしてる空気そのものがヤバいのかよくわからないけど、ぶるってどうしようもない」
 防球ネットはグラウンドの隅にまとめておいて、練習の最後に他の道具と共に用具倉庫にしまうことになっている。ピッチャーが立っていた側のネットを二つとも所定の位置に置くと、二人してマウンドのところに置いてあった空のバケツを持って外野に走っていく。
 なんとなく、二人してボールがまとまっている辺りに陣取った。
 毎日部員が一生懸命磨いている硬球はもう手に馴染んでいる。三橋が「軟球よりも、縫い目が指に食い込む感じがするんだよ」と言っていたが、その感じは泉にも理解できる。拾いあげると手の中に吸い付くように収まった。
 西浦に進学することが決まってから硬球をいくつか買って家においてあるが、それらと部活で使うボールとではなんだか感触が違うような気がする。
 それはより多く生きたことのあるボールだからなのかもしれない、と泉はこっそり思っている。
 両腕いっぱいに拾ってバケツに持っていく。
「マウンド立つのって、そんな恐ぇもんなのか?」
 練習試合は連勝街道驀進中だ。エースの三橋ではなくて沖と花井のリレーで繋ぐ時も含めてずっと勝っている。
 試合に勝てるのなら、投手は最高に気持ちがいいポジションではないかと泉は思う。実際、左投げなら投手をやってみたかったな、と思ったことが泉にもなかったわけではない。誰でも野球ことはじめの時には一度は憧れるポジションかもしれない。
 高校野球まではピッチャーで四番、というパターンが名門校であってもしばしばある。
 三橋に出会った時に田島が言っていたが実際「チームで一番上手いから」ピッチャーなのだ。
 左投げであるということは、野球をやっている者の中では圧倒的に人数が多い右バッターに対して強い、といううまみを最初から抱えていることになる。どのチームも一人は左腕が欲しいと思うのは当然だ。そういう意味では沖は恵まれているということになる。
「沖、勝ち星結構稼いでるだろ?」
 泉にそう話しかけられた沖は「言っただろ?まだがくがくだって」と苦笑した。そうして自分も両手に抱えてきたボールを一旦バケツに落とす。
「投手っていうのはさ、利き腕じゃなくてやっぱり性格……っていうか生まれつき向き不向きがあるんじゃないかって思うよ、ホントに」
 なんとなく二人して遠くでボール拾いをしている三橋を見た。
「三橋がすげーのはオレも認めてる。けど、あれはどっちかって言えば投手に向いてるようには見えない、んだけどなあ。でも向いてんだよな」
「オレから見るとあれはもう正直ソンケーの域に達してるね」
 二人して腰に手をあて、遠くのエースを見た。
 体格も性格も一見して投手向きとはお世辞にも言えない。現に練習試合をする相手校にはほぼ例外なく外見で最初に舐められているのがわかる。
 だが、実際試合になれば、ほとんど驚異的と言っていいそのコントロールを持つ西浦のエースを、まだ対戦校の誰もが完全攻略できていない。
 沖は「ホントに、信じられないんだよね」と、ため息をついた。
「三橋ってダメピだって言われて中学時代野球部の連中に総スカン食らってたんだろ?それでも、マウンド降りなかったってどんだけ根性座ってんだよ、ってオレは思っちゃったね」
 沖は首を何度も横に振る。
「まず試合開始の瞬間だろ?それから、当然ありとあらゆるピンチの場面。それから相手のバッターがすっごい威圧的な顔してる時。それからあとはやっぱ体力的にキツくなってきた時だなあ」
 指を折りながらあげるシチュエイションに泉が首を傾げると「えへへ」と沖は笑った。

「マウンド降りてぇ!って思う時。降りていいよ、って言われたら喜んで降りるよ実際」

 泉は目を丸くする。
「だから言っただろ?ピッチャーは生まれつき向き不向きがあるって。実際ピンチの時にマウンドに立ってみるとさ、ヤバすぎて大変なんだよね。ホントにさ、投手の重圧ってハンパないから。だから、試合の外でもすげぇしんどい思いしてただろう三橋が『ピッチャー』を辞めないでい続けたってのはホントに脅威なんだよ、オレにしてみれば。」
「あー、それはわかる」

 照りつける太陽。
 塁を埋めた相手チームのランナー。
 球数が増えて上がる息。汗、砂埃。ギャラリーの一喜一憂する様子。
 グラウンドに散っている味方の守備。
 頼りのキャッチャー。
 挑んでくるバッター。

 ピッチャーはそれら全てをその背に負う。

 グラウンドとそれを取りまく世界を全て肩に負う。

 その重圧はどれほどのものなのだろう。

 遠くから見ている背中がある。いつでも泉の視線の向かう先には投手の背中があった。

 ぴりぴりした空気の中背番号をこちらに向ける姿をずっとずっと見てきた。

 あの夏の遠い背中を、今でも時々夢に見る。
 絶対に守ってやる、と強く心に誓う背中だ。

「オレはね、この世にはピッチャーのDNAってのがあって、それがあるかないかで投手になれるかそうでないかが決まってるんだって思うんだよね」
「DNAってそんな……」
 また両腕にいっぱい集めたボールをバケツにあけながら沖は大真面目な顔で頷いた。
「あるある。絶対あるって。投げるのが好きで好きでたまらない、投げずにはいられない、ただ投げられたらそれでいい。そういうDNAがあるとでも思わなかったら、投手のあの執着は理解できないよ」
「へえ……」
 ピッチャー経験者の言葉はなかなかに重い、と泉は思った。
「三橋はマウンドへの執着心確かにすげー強いけどさ、程度や表に現れる行動の差こそあれ、投手は大体そうできてるんだよ。あそこが自分の場所だって思ってる連中だから。なんていうのかな、野球そのものより『投げること』の方が好きなんじゃないかなって思う」
 沖は「オレは野球好きだけどさ、そもそもマウンドに執着ないんだよねえ」と笑ってみせた。それが、自分が投手向きでない、と思う理由らしい。

 なるほど、一理ある。

 泉は遠い夏の日の背中を思い出しながらそう考えた。

 夏の日の背中の持ち主は、身体を壊すまで投げ続け、壊してからもなお身体をだましだまししながら投げ続けた。
 泉は知っていた。
 いつも、あの背中の主は攻守交代の時にほんの少し苦痛に顔を歪めることを。こっそり裏でコールドスプレーを使って炎症をなだめていたことを。
 なぜそこまでして投げるんだろう。
 そう泉は思っていた。
 思いながら、あの背中を守りたいと強く強く心に刻んでいた。

「だから、ホントは投手経験ありって言いたくなかったんだけどウチの状況考えたら申告せざるをえなくてさ」
 バケツ4杯分のボールがいっぱいになった。周囲にはもう転がっているボールは見あたらない。両腕にボールの入ったバケツを提げながら二人してベンチの方に向かう。
「やりたくない、ってところまでにはいってないけど。でもやっぱり他に誰かいいピッチャーがいてくれたらね。今からでも入部してくれないかなあって、ホントに思うよ」
「あー……」
「なに?誰か心当たりあんの?」
 沖がきらきら目を輝かせながら言う。
 泉は苦笑した。苦笑しながら、なんだか妙に胸の奥がすーすーするのを感じた。
「あー、あった。あるにはあった。けど、一応誘ってみたら断られちまった……から、諦めろ」
 沖は不思議そうな顔で首を傾げた。
「何?同中のヤツ?野球部で一緒だったとか?」
「んー、そんなとこ。でももうやらないんだってさ」
 言って、ボール満載のバケツを所定の位置に戻す。

「ボール拾い終わったね?じゃ、シートノックから始めるよ!」

 監督の声に二人して「ッス!」と声をあげ、慌てて自分のグラブを取りに行く。

「泉?」
「んー?」
「野球部入り断った人、いいピッチャーだったのか?」
「ああ」
 グラブを手にはめながら、泉は躊躇わず頷いた。
「そっか……」
 沖は他のポジションのグラブより大きくできているファーストミットを手にしながら、少しだけ息を溜める。
「……うん。オレはオレなりに頑張るから」
 顔を上げてそう言った。
 泉はやけにやる気と決意が漲った沖の表情に少しひるみ、それから笑った。
「急にやる気になってんな。いい傾向じゃね?」
「そっかな……」
「頼むぜ」
 にっと笑う泉に、沖は笑い返す。
 その、ちょうどのタイミングでグラウンドから大きな声が響いてきた。

「ちゅーす!今日は練習手伝わせてもらいます!」

「浜田……」
 二人して振り返れば、西浦野球部応援団をかって出た浜田がここのところではもう当たり前のようになった野球部の練習サポートを監督に申し出ているところだった。
 泉はじっと元先輩で今は同級生となった男を見つめる。それから、ふっと笑ってみせた。
「ったく……つくづくヒマだねえ、あいつは」
 泉は息をついてキャップを深く被り直すと、首をこきこき鳴らしながらグラウンドに出ていく。沖はその背中を見送った。

「ああ……そういうこと、か」

 なんとなく、中学時代の部活の先輩だったという浜田のポジションがなんだったのか、尋ねなくてもわかる気がしていた。

「三橋君、阿部君、花井君、沖君、田島君は今日はブルペンからねー!」

 監督の声を聞いて、沖は一度手にしたファーストミットをベンチに置く。そうして、そろそろ自分にかっちり馴染んできたピッチング用のグローブを手に取った。

「……うん、頑張ろう」

 小さく決意の言葉を口にすると、ほんの少しだけとても悲しそうな、なのに嬉しそうにも見える表情を見せたチームメイトを追ってグラウンドに出ていった。
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