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● 29th Nov. 〜泉お誕生日SS〜  ●




 デジタルの表示が、59から00に変わったと同時に日付が改まる。
 泉は自室のベッドに寝ころんだまま、数字が56の辺りからじっと携帯の液晶画面を睨み続けていた。
 その瞬間に今日が昨日に変わるのは毎日のことで、特別何が起きるわけではない。
 今日も明日も明後日も、同じように粛々と時間は流れていくと決まっている。

 だが、今日のこの日付の更新は少なくとも泉にとってはいつもとは少しだけ違う意味があった。

「……」
 00に変わってから五秒待ったが、携帯が鳴る様子はない。
 ごろり、と寝返りを打った。
 携帯は、まだ鳴らない。
「……っ」
 思い切ってメモリから「は」の行を呼び出す。ただ二文字だけの漢字を睨んで、知らずに詰めていた息を吐いてから『浜田』の文字を選んでダイヤルボタンを押した。

 一回、二回、三回……

 耳に押し当てた携帯は夜を飛び越えて浜田を呼んでいる。

 八回、九回、十回。

 十回目のコールで耳に聞こえてきたのは「留守番電話にお繋ぎします」という、つれない女声アナウンスだった。

「……」

 泉は携帯を耳から離すと通話停止ボタンを押して恨めしげに小さな機械を睨み付ける。
 また寝返りを打った。
 リダイヤルボタンを押したが、やっぱり十回のコール音の後で同じアナウンスが聞こえてきた。

「……」

 泉は少しだけ唇を噛むと、フリップを閉じてベッドから起きあがる。
 寝間着代わりのスウェットを脱ぐとその辺にあった長Tシャツとデニムに着替える。それからフリースのパーカーを選んだ。少し考えて厚手の靴下を履く。キャップを被って防寒体勢を整えると、机の上に放り出したままになっていた家のと自転車のと、鍵を二つ、それから大事な携帯をひっつかんだ。
 親はもう寝ている時間だ。隣の部屋にいる兄は間違いなく起きているだろうが、そこさえ引っかからなければ大丈夫だと、あたりをつけた。
 二階からそっと階段を降りていく。途中で二回、きしむような音をたててしまって少し焦った。幸いなことに兄がぬっと自室から顔を出すことも、母親が「こんな夜中に何よ?」と文句を言ってくることもないようだ。
 そおっと、そっと、泉は玄関のドアを開けて表に出る。

「……っ!」

 数日前に木枯らし一番が吹いた夜の街はいよいよ冬の寒さが迫ってきている。
 泉は思わず空気の冷たさに思わず声をあげそうになって両手で口を塞ぐ。身を縮めながら音を立てないように自転車を置いているガレージに向かった。
 通学に使っている愛用の自転車は、日頃から結構まめに整備している。門の外に引き出して、二軒隣まではそれでも押して歩いた。
 空気がきりりと冷えている。
 この辺りの冬の夜は都心より3度は低い。ここのところ父親は家に帰る度にそんなことを言う。

 確かに、寒い。

 体感温度の一番低いところは多分夜明け前のそれが一番だろうが、真夜中の大気はもうすっかり凍りついているように泉には思えた。もちろん、まだ冬はほんの入り口辺りのところだからこれからもっとずっと夜の空気は凍りつく。
 野球部の朝練に行く時には既に手袋もマフラーも出動しているが、その内耳あてが欲しくなってくる。そこまで完全防寒してしまったら、あとはもう鬼のように自転車のペダルを漕ぎまくって体温を自主的に上げるしかない。

 いつの間にかそんな季節になっていた。

 せめて手袋を持ってくるべきだった、と心から泉は後悔したが、危険を冒して家の中に戻ることははばかられる。
 サドルをまたぐと、ペダルに足をかけ、ゆっくり力をこめる。
 パーカーのポケットには家の鍵と携帯が入っているだけ。

 浜田の家まではほんの5分の距離だ。

「……」
 浜田が現在住んでいるのは、神社の近くの木造二階建てアパートだった。
 家主に言わせれば、間取りが広くて南向きの二階角部屋、自転車置き場もちゃんと確保できているし、風呂トイレ別で収納スペースも充分ある。何より家賃が安い、といいことづくめの部屋らしい。
 部活がない時でも大概野球部の連中とつるんでいる泉だが、浜田のこの部屋にはその隙間を縫うようにしてよく入り浸っている。
 築年数が経っている分、畳も押入も広めの作りで、荷物の少ない高校男子の一人暮らしでは人がくつろぐスペースがより広く取れている。
 だからだろうか、やたらと落ち着く家だと泉は思っている。
 浜田が自慢するほどの超お値打ち物件なのかどうかはわからないが、落ち着くことだけは確かだ。その点は評価してやっていい。

「……」

 吐く息が白い。
 浜田の部屋が見える位置で自転車を停めて南向きの二階角部屋を見上げれば、部屋の灯りは消えていて真っ暗だ。
 時間的に、相手がもう寝ているかどうかは微妙なところだった。
 浜田は結構な数のバイトを掛け持ちしているし、来年のシーズンでも野球部の手伝いをする気満々でいるらしいから、シーズンオフの今の内に貯金をしておくのだとよく言っている。
 結構ハードなスケジュールを組んで日々こなしていっていると豪語していたから、もう疲れて眠ってしまったとしてもおかしくはない。
「……」
 泉はポケットの中に手を突っ込む。
 指先に携帯の固い感触があった。取りだしてフリップを開けると、夜の中では目に痛い程の明るさのバックライトが光る。
 そのまま、リダイヤルボタンを押せば先ほどコールしたばかりの浜田を携帯が呼び出す。
「……」
 浜田の部屋の灯りは点く気配がない。

 八回、九回、十回。

 三度目の留守電アナウンスに、泉は通話ボタンを切った。

「……」

 しばらく浜田の部屋を見つめたまま携帯を握りしめる。コールバックの振動が手に返ることはなかった。



 行きのペダルが軽かったか重かったか、泉は覚えていない。
 ゆっくりわざと大回りして夜の街を走る。
 頬に風が斬りつけてくる。

 もう冬が街を包んでいる。

 毎日帰り道で見上げていた星空が、一層近くに見えるような気がする。またたく輝きが降ってくるようで、圧倒される。
 この辺りはベッドタウンで、こんな真夜中になってしまえばカーテンの隙間から漏れる宵っ張りの部屋の灯りとまばらな街灯があるばかり。
 頭上から降り注ぐ星の光は、想像以上に強く白い。
 呼気がふわりと白い。星の光の白とは全く種類の違う白だ。
 ひとりぼっちで走る夜道は恐くて、冷たくて、でもなんだか清々しい。
 タイヤが鳴る。
 家までの距離がもっともっと長ければいい、と泉は思った。

「……」
 
 通りを逸れて裏道に入る角のところにジュースの自販機があった。ふと思いたってパーカーのポケットを探ってみたが、あるのは携帯と家の鍵だけだ。コイン一枚出てこない。
「……」
 HOTの文字の上に並ぶ何種類もの缶コーヒーを横目にしながら、泉は再びしぶしぶ家を目指す。
 本当は、コーヒーが飲みたいわけではなくて時間を少しでも潰したいだけだ。
 角のところで自転車を降りた。そこからは自転車を押していくことにする。夜中に家の前でブレーキをかけると案外響いて大きく聞こえるものだ。兄が夜遊びをして帰ってくるとすぐにわかる。
 玄関を開けた瞬間ににやにや笑う兄とはち合わせて、真夜中にどこに行っていたのかと詮索されるのはごめんだった。そうでなくてももう、家からこっそり抜け出したことがばれている可能性だってあるのだ。

「……」

 自転車を押しながら角を曲がる。

 泉家までの距離は四軒分。

 まばらな街灯。近所はもう寝静まってしまっているらしい。
 ちょうど、家の前にある灯りの下に誰かがじっと佇んでいるのが見えた。
 凍えるような夜中の道を、泉と同じように自転車でやってきたらしい。見覚えのあるそれは、佇む人のすぐ脇に停められている。
 ブルゾンのポケットに両手を突っ込んで、電柱にもたれ、顔を泉家の二階に向けていた。

 それは、泉家の次男の部屋がある辺りだ。

 泉は、道に佇むその人のことをよく知っていた。
 とてもよく知っていた。
 そのまま自転車を押して近づいていく。
「……泉」
 気配に気付いたらしく、道端に佇んでいた人がこちらを向く。

「……よぉ。犯罪者」

 浜田は苦笑した。
「お前、いきなり犯罪者はねぇだろ?」
 泉は浜田のすぐ近くまで寄ると、露骨にイヤそうな顔をしてみせた。
「真夜中に人ん家の前にじっと立ち尽くしてるヤツがいたら、普通犯罪者とか思うだろ」
 顔を見上げる。
 浜田の鼻の頭は真っ赤だ。
 泉が家を出てからここに戻ってくるまで正味三十分経っていない。恐らく夜回りの警察官に声をかけられるようなことはなかっただろうが、それでも夜の寒気に浜田の身体は冷え切っているようだ。
 埼玉の冬の夜は寒くて冷たい。
 浜田は苦笑した。
「そりゃそうだよなあ。ごめん、泉。オレ、電話しようかと思ったんだけど携帯、バイト先に忘れてきちまってさあ。ここまできたはいいけどどうしようかと思って考えてたんだよな」
「ああ……だからか」
 泉は合点した。
 道理で何度コールしても出ないわけだ。ついでに、家にいなかった理由も理解した。
「中入れよ。あ、おふくろ達は寝てっから静かにな」
 泉の声に浜田が怯む。
「そりゃいくらなんでもまずいだろ。こんな夜中におじさんやおばさんにあいさつもなしに家に入ったら」
「だからってわざわざたたき起こして、こんばんは。って言うわけにもいかねえだろ?入れ。せっかくきたんだし」
 言ってさっさと先に家の門を開けてしまう。
 まだ道端で躊躇してるらしい浜田に振り返ると、くいくい、と手招きした。
「家の前でぼそぼそ話し込んでんのって結構響くんだよ。オレの部屋でしゃべってた方がマシだ」
 その言葉で浜田も観念したらしく、泉の後に続く。
「……すぐ、帰っから」
 泉は浜田の言葉など聞く気はない。
「自転車、門の中に入れとけよ。どうせだから泊まってけばいいだろ。朝になったらおふくろ達にあいさつすれば?別に気にしねえよ、お前がいたって」
「お前、それはさすがにヒンシュクだと思うぞ、オレは」
 結局泉家の敷地内に浜田の分の自転車も引き入れると、二人忍び足で家の中に入る。
 一番危惧していたのは兄の存在だったが、どうやら今夜はぐっすり眠ってしまっているらしい。
 泉は唇に人差し指を立てながら浜田を部屋に誘った。



「はあ。なんか犯罪者の気分だなあ」
 浜田は泉の部屋の床にへたりこむとため息をついた。泉は逆向きに椅子に座って、にやにやしながら浜田を見ている。
「お前、何しにウチに来たの?」
 部屋のエアコンが低い呻り声をあげている。外の寒さに凍えた身体に一気に体温が戻ってくるのを感じて心地よい。
 浜田は天井を見上げると「あー……なんでかなあ」と嘯いた。それから顔を泉に戻すとにやりと笑った。
「泉は?」
「は?」
「泉はなんでこんな真夜中にチャリで外出てたんだよ?」

「……散歩」

 泉の答に浜田は「あはははは、散歩、ね」と笑うと、

「じゃあ、オレも。散歩ってことで……」

「嘘つき」

 泉に言われて浜田はため息をつく。

「そりゃあ、お互い様だろ。この嘘つきめ」

 泉は微笑した。

「オレ、お前と同じ年齢になったぞ」

 浜田は黙って泉を見つめると「ああ、そうだな」と、破顔してみせる。
「ったって、たった二十日間だけのことだろうが」
「でも、今はタメだ」
 泉は今度はにやりと笑った。
「今日から浜田の誕生日まで、オレら、タメだぜ」
 浜田は微苦笑を作る。
「ホントにお前は子どもだねえ。そんなことが嬉しいのかよ」
「おめぇだって同じ年齢じゃん。タメに向かってそんなこと言ったって、それはそのまま自分に返ってくるんだぜ?」
 浜田は「ああ、そうだな」ともう一度頷いて両手を揚げた。
「その通りだな」
 二人して目を合わせると、吹きだした。

「あー、そうだ。泉、これやる」
「ん?」

 浜田はごそごそとブルゾンのポケットから何やら取りだした。
「ほれ」
 ぽん、と放られたそれを両手でキャッチすると「ナイキャ!さっすが、西浦のセンター」と浜田が揶揄した。
「なんだよ、これ」
 手の中にはやたらと派手なパッケージデザインの缶コーヒーが一本。
 元はちゃんと加温器で温められてあったものだったらしい名残のぬるみが掌に伝わる。
「誕生日プレゼント」
 泉は大げさにイヤそうな顔をした。
「安っ!しかも、もう熱くねー」
「そう文句言うなよ。せっかく買ってきてやったのに」
 浜田はぶつぶつ不満を口にした。
 泉はそんな同級生を見ながらにやにや笑う。
「これ、あれだろ?この先の、通りから逸れるとこの角にある自販機で買ったんだろ?」
 泉の指摘に浜田の顔色が変わる。
「当たり。なんでわかんの?泉、すげー。それ、どこにでも売ってんのに」
「カンだよ、カン」
 浜田に会うほんの数分前に見ていたあの機械の中にディスプレイされていた七色の賑々しいパッケージ。泉がじっと見つめていたあのボタンを、その少し前に浜田がいくつかある選択肢の中からあえて選んで押しているところを想像するとなんだか楽しい気持ちになってくる。
 浜田は泉が楽しそうに笑うのを見ながら頭をかいた。
「なるほど、缶コーヒーだけに、カンかあ」
「今の笑うとこ?全然面白くねーけど、笑うとこ?」
「ホントにお前はかわいくねーな。けどまあ、一応、一応言っとく」
「何よ?」
 手の中で小さな缶を弄びながら泉は首を傾げる。
 浜田は不器用に視線を逸らして、そうして言った。

「誕生日おめでと、な。ホントはそれを一番に言いたくてきた」
「……」

 ごとり、とその瞬間手の中から缶コーヒーが床に落ちる。
「あ……」
 慌てて椅子から降りた泉は缶を手に取って浜田を見た。相手が案外近いところにいることに泉は急に気がついてしまう。
「そ……ういう、真面目な顔すんのって、反則じゃね?」
 床に転がる缶コーヒーに、浜田と同時に手が伸びる。
 指先が、七色の虹色をした缶の上で触れあった。
 それは、昨日と違う今日が始まる合図だ。

 特別な時間がこれから始まることに気付いた二人だけが知っている、そういう種類の合図だ。
 
 その夜の缶コーヒーはその後長い間泉の机の上に飾られることになった。
 浜田には言わないが、泉にとっては宝物だ。
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