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● The Night Before My Birthday〜浜田お誕生日SS〜  ●




 ここのところ、泉の機嫌が悪い。
「浜田ぁ、なんとかしろ。鬱陶しいぞ、アレ」
 田島は三橋の首に腕をかけながら、鬱陶しい当事者がすぐ後ろの席に座ってぶすくれているのにも関わらず、浜田に向かってそう言った。
「あー?ンなのオレのせいじゃねーよ。泉本人に直接言え」
「やだよ。うぜえ」
 田島はものすごくイヤそうな顔をして言う。それもしっかり全部後ろの泉に聞こえている。わかっていてそう言っているのだ。
「い、泉くん……は、鬱陶しく ない よ!」
 ちょっとおろおろしながら三橋が言う。田島はにっと笑った。
「あーゆーのは鬱陶しいって言うんだぞ、三橋?言っていいんだぞ?てゆーか言っとけ。鬱陶しくてもアレなら平気だから。でももー大丈夫だ。今、係の人呼んだ」
 田島はまっすぐ浜田を見ながら、西浦のエースに向かって言う。
 いい笑顔だ。100点をあげたいくらいだ。
「係の人って……オレかよ」
 浜田が苦笑すると「他に誰がいんだよ」と西浦ナンバーワンスラッガーは頷いた。

「るせえよ、田島」

 低く呻るような地獄からの声に、野球部二人と応援団一人はびくりと身をすくめ、恐る恐る泉の方を見た。
「うわあ。泉、半目になってる。マジ、恐ぇ」
「い、い 泉 くん……こ こ こ !」
 田島は三橋の肩に手を回したままで、手配写真みたいな顔つきになっている泉を興味津々の様子で観察しにかかる。引きずられるようにして泉の側に近寄ることになった三橋はぶるぶる震え出した。
 その様子に気付いた田島は表情を曇らせる。
「ほら、浜田ぁ。三橋がびびってるだろ。なんとかしろよ、コレ」
 何やら口走る三橋をとりあえず、絶対安全領域に退避させると、平気で泉を指さして浜田に文句を言う。
「だからなんでオレなんだよ」
 言いながら不機嫌の主を見れば、これまた一際物騒な表情で浜田を睨んでいる。
「だから、睨むなよぉ」

 泉が16歳になってから半月あまりが過ぎていた。
 12月の頭にあった試験の頃の泉は、9科目の過酷な試験にも関わらず結構な上機嫌で部活禁止期間を過ごしていたように思う。
 野球部は5月のテスト辺りから、時間を見つけては放課後ちょこちょこと集まって勉強をするのが習慣になっているようだ。そのおかげで超低空飛行ではあるものの、三橋も田島もなんとか赤点を免れて部活を続けていられるといえた。
 泉は特に花井と阿部、そして監督からも名指しでくれぐれも西浦の要である二人から目を離さないように言われているらしいが、自分自身も「言われるまでもねえよ。あいつら放っといたらやべぇ」と二人の目付役を自覚しているようである。
 男三人集まれば自然にコロニーが形成されるようにできている。
 9組の野球部員は末っ子と一人っ子だけで形成されているのだが、気がつけば泉はこの二人の前ではなんとなく兄的な存在になっている。ちなみに田島はすっかり三橋の兄貴分だ。クラスの連中からは『野球部三兄弟』と密かに呼ばれているのを浜田だけは知っている。ちなみに三人の誕生日は末っ子、次男、長男の順番なのだから世の中わからない。
 さらに野球部と常につるんでいる浜田が加わった野球部四兄弟バージョン(浜田は野球部ではないのだが)では、誰が長男役かといえばそれはやっぱり

(オレ、なんだよなあ)

 これは正しく浜田が一番先に生まれているのだが、クラスの中には目前に浜田の誕生日が迫っているのを知れば「やっぱりここんちの順番通り長男が一番最後に誕生日を迎えるのか」と思う者がいるに違いない。
 クラスの連中がどれくらい浜田の留年の事実を知っているかは関知していないのだが、とりあえず四兄弟の一人だと思われていることは自覚している。
 時間があればすかさず教室でぐーすか寝ている三人の内の誰かへの伝言だとか、用足しとか。みんな当たり前に浜田に託す。

 4人はまとめてひとつ。

 クラスの連中の認識はもうすでにこれで固まっているのだ。
 泉たちと一緒にいるのは当たり前になっているのだが、改めて自分の立場を考えるとそれはくすぐったいような、不思議なような、奇跡のまっただ中にいるような変な感じだ。
 らしくもなくじっとりとした目で浜田を見ている泉ともしも同じクラスになっていなかったら、自分は今こんな風にひとつ年下の連中の間に立っていられただろうか。
 時々そんなことを考えてしまい、すーっと落ちていく。

 だが。

 ああ、今落ちてってるな、と思う間もなく泉が容赦なく浜田を引き上げる。田島が今落ちていた穴をさっさと塞いでしまう。三橋が引き上げられた浜田をじっと監視する。そうして三人して両腕に思いきりぶら下がって、落ちてるヒマはないんだぞ、と口々にはやし立てる。
 十年ぶりの留年男を先生たちがこのクラスにしたのは単なる偶然だろうが、多分他のどこにいても自分はどうにかなっていた。少なくとも今よりずっとよくないところに落ちていくのを止める術はなかった。多分、そっちの方が自然な成り行きだ。
 なのに、現実は野球部四兄弟の長兄だ。
 そういうことになってしまったら、もう沈むこともできない。
 普段は表面上クールで口の立つ次兄の調子が珍しくもでていないのなら、長兄がなんとかしてやらなければウソだと、三男と末っ子が期待を寄せている。
 兄としてはどうにかしなくては。
(兄ちゃん、ねえ)

 問題は、長兄と次兄の上下関係は激しくイコールに近いということだろうか。

「泉ぃ……お前、もういい加減にしろよ。三橋が怖がってるだろうが。それにオレも恐ぇ」
「……」
(あー、無視かよ)
 何も応えない泉に、浜田は困って天井を仰ぐ。
「こら、泉」

「……別に何もしてねぇぞ、オレ」

 確かに何もしてはいないが、一人机につっぷしてとぐろを巻いているだけで充分感じが悪い。泉本人もちゃんとわかっていてそういうことを言う。
(駄々っ子めぇ)
 それでも浜田には泉に呆れるとか怒るとかそういう感情が湧いてこない。
 いやどちらかというと、なんだかほのぼのとした……それだけではなくなにやらこうきゅんきゅんとした、もっと言うとぐっと下っ腹にくるような、かと思えばもやもやとしているような、なんだかごった煮の気持ちが動く。
 動く。
「こら、自分でわかってんだろ?ジコケンオする前に浮上しとけよ」
 頭に手をおいてくしゃくしゃ掻き回す。手に当たる髪の毛は硬いとばかり思っていたのに案外柔らかくて戸惑った。
「……」
 泉は恨めしそうな瞳を持ち上げて、浜田を睨んだ。
「泉……」
 諭すように、あやすように名前を口にすればふわりとした柔らかい感触が気持ちを撫でる。
 浜田は泉の頭をゆっくりと掻き回し続けている。指に絡む髪が気持ちよくて、つい弄ぶ指を止められない。
 そうだ。気持ちを撫でるそれは、今浜田の指を悦ばせているこの感触だ。

「おふくろが」

「へ?」
 一瞬飛びかけていた意識が無理矢理引き戻された。その原因とトリップしかけた事実そのものに浜田はどぎまぎとしながら、泉の髪から手を離す。
 指先に絡む髪が落ちるのがなんだか切ない、と思っていた。
 浜田の心中を知らない次兄は、むずがる子どものようにいやいや突っ伏していた半身を起こすと、頬杖をついた。
 感じが悪いところは特に変わっていないのだが、口を開くようになっただけさっきよりマシだ。
 田島はとっくに浜田たちのやりとりに飽きたらしく、自分の机の上に突っ伏して「1,2の3」で爆睡モードに入っている。三橋も同様だ。
 似たもの兄弟。
 三男と末っ子に先に行かれた長男次男は、言葉少なに睨み合う。見つめ合うというよりは睨み合うで、ちゃんと正しい。

「おふくろが、浜田の誕生日会をやりたいって言ってる」

「え?おばちゃんが?」
 思ってもみなかった泉の言葉にぎくりとして固まると、次男はぶすくれて「オレはなんでそんなもんやんだよ、って言ったぜ?」とそっぽを向いた。
「な、なんで泉のおばちゃんがオレの誕生日会やるなんて言ってくれてんの?」
「知らねぇよ。夕べ、ついうっかりオレが口を滑らせたらすっかりその気になって盛り上がりまくり。ちょっと待てばクリスマスだからそれまで待てって言ってんのに、もうああなったら誰もおふくろを止められねえんだぜ」
 唇を噛みしめて、悔しそうに言う。その反応に、浜田は首を傾げた。
「泉は、やなのか?」
「え……」
 浜田に尋ねられて一瞬虚を突かれたような顔を、泉はした。びっくりして、時間が止まっている。

「泉のおばちゃんがそんなこと言ってくれてんのはすっげー嬉しいけど、泉がそういうのやならオレ、てきとーな理由作って断るぜ?」

 言いながら(なんだか切ないなあ)と思いはしたのだが、泉の家に行くのに泉が嫌がっているのなら、尊重すべきは母親よりそっちだ。
 にっこり笑いながら胸の端っこがすかすかしているような気になる。なぜだろうと思ったら、目の前の泉が顔を紅くしてぶるぶる震えているのがわかって、少しだけ和んだ。
「ち、っげーよ!別に、やじゃねーよ。勝手に決めんな!」
 泉はなんだか一気に沸点に駆け昇ったらしく、教室中の視線がこっちに集まった。
「泉ぃ、何でけぇ声出してんだよ?いや、お前がいいって言うんなら、おばちゃんのありがたい言葉には喜んでノらせてもらうけどさ」
「あ……うん……言っとく……誕生会、浜田の誕生日当日、っておふくろ決めてんだけど」
 なんだか今日の泉は感情の振れ幅が大きい気がする。
「ああ。別に何の予定もねえ……バイト入ってっけど、そういうことなら早退けさせてもらうし」
「……」
 浜田の言葉に泉がじっとこちらを睨む。
(なんだよ?やっぱ、気に入らねえの?)

 寂しいなあ。

 ふと、そんな声が胸の奥からすっと突き上げて駆け抜けていった。
(あれ?なんだ、今の?)
 浜田は耳をすり抜けていった声の残骸を見極めようと、自分の胸元に目を落とす。
「好物、何か聞いておけっておふくろが言ってた」
「オレの好物はなすの挟み揚げと、カレーだぜ?」
「オ、オレは 何でも すき だ!」
 先ほどの泉の大声に目を覚ました万年欠食児童の弟達が当たり前のように会話に割り込んでくる。
「どうせなら、みんな呼ぼうぜ。花井に沖に巣山に……」
「あ、あ、阿部 くん……!」
 規模の拡大を勝手に進める二人に泉がため息をつきながら手をぶらぶらと振った。
「オレんちは三橋んちほどでかくねえから、野球部全員は無理無理。せめてお前らだけにしろ」
 田島は「ちぇー」とぶすくれ、三橋は一人花畑に旅立っている様子である。
「ったく、浜田の誕生会なんてそんな来たいもんかよ」
 田島がにっと笑った。
「泉、戻ったな。さっすが係の人呼んだかいあったぜ」
 その言葉に泉は無言で嫌な顔をし、浜田は苦笑した。
「係の人って……」
 ちらりと泉の方を見れば、嫌な顔は単なる苦笑に変わっていた。
 その横顔は、やっぱりなんだか憂いを含んでいるように思えてならない。



 それでも田島が言うところの「係の人」がいても、泉の機嫌は毎日目に見えて悪くなっていった。
 なぜか泉家で催されることになった浜田の誕生日会には、結局田島と三橋が参加することになったのだが、ホスト役の泉の低気圧ぶりは大型台風にも匹敵する勢いだったので、泉母との連絡役は浜田が引き受けることになった。
 泉の母とは、料理仲間なので特に実の息子を飛び越して連絡を取り合うのも、特に問題はないのだが。
(なーんか、ヘンなの)
 思いながらも、誰かが誕生日を祝ってくれるというのはそれだけで嬉しいものだ。
 今、自分の心がそれを「嬉しい」と思えることに、浜田は感謝したくなった。

 問題は、泉の機嫌だ。

(やっぱ、オレの誕生日会なんてやりたくねえんじゃねえの?規模もでかくなっちまったし)
 開催日を明日に控えた今日では「中止にしよう」とはもう言い出せないが、浜田としては悪化の一途を辿る泉のことがどうしたって気になる。
 泉が「嫌がっている」と思えば、胸のあたりがすかすかする。
 その度ひどく、困り果てている自分がいる。

 練習帰りの泉を捕まえたのは、誕生日会なんてものをやってもらえるせいで妙に意識している『年齢をひとつ重ねる』という節目を前にして、泉が「嫌がっている」なんて可能性をどうにかしてしまいたいと痛切に願ったからに他ならない。
 泉の機嫌が悪いのも、その原因が自分にあるのも、どうにもやりきれないことだった。

 長男は末っ子よりも三男よりも、次男にどうにも弱い。

「泉!」
 家に帰る道筋にあるコンビニで待っていたら、泉が目の前を通り過ぎるのが見えた。慌ててさっき買ったばかりのお菓子が詰まったレジバッグを持って外に飛び出し名前を呼べば、少し離れたところでブレーキの音がきゅっと鳴る。
 振り返った泉は、浜田の姿を認めてやっぱり機嫌の悪そうな素振りを隠さない。
「なんだよ。誕生日会は明日だろ?」
「そうじゃなくて……」
 浜田は一瞬言葉に詰まり、それから先に仕込んでおいた「口実」をちょっと持ち上げて笑う。
「ポテチとか。いっぱい買ったんだ。オレんち、こねえ?」
 ぎざぎざの厚切りポテチに、えびせん、ふがしの大きなパック。それから季節限定豪華ポッキー。これだけ用意して食いついてこないわけがない。
 案の定、泉は「……行く」と簡単に釣られてくれた。
 シーズンオフの現在、徐々に筋トレメニューが野球部の練習に加えられ始めているのだと聞いている。
 不思議なもので、体質によってはどんなに筋トレにいそしんでもなかなか筋肉がつかない者がいる。トレーニングの量と筋肉量は確実に比例して増えていくものではないのだ。
 多分、泉はその不幸な体質に生まれついたのだと浜田はこっそり思っている。
 夏を越えてぐっと身体ができあがってきている花井や阿部・巣山あたりと比べれば泉は、同じ練習をこなし、プロテインも摂取してちゃんと身体造りをしているのにも関わらず、一見して体格的には小柄で華奢からちょっと抜け出した程度にしかみえない。本人はさぞや不服なことだろう。
(もしかしてそれが原因かな?)
 男にとっては非常に重要な問題だ。さらに、野球選手としてもかなり深刻な話である。田島を見ていれば野球は体格でするものではないとわかるが、いいにこしたことはない。高校に入って最初の暮れが近づいてきてもやっぱり小柄なままの田島の体格があと一回り大きければ、県下でも有数のホームランバッターだったに違いないのだ。
 泉も。
 泉も、体格がついてきていればロングヒッターの一番として名前が今よりもっとずっと鳴り響くこと請け合いだ。
(春よりはずいぶん身体つきよくなったけど、まだ全然だもんなあ。普通にその辺歩いてる中学生で泉よりガタイいいヤツごろごろいるもんよ)
 すっかり冷え切った部屋にあげて「寒ぃ」とぶすくれる泉のためにストーブに火を入れ、釣り餌をテーブルの上に広げてから浜田はふとそこに思い当たった。
 顔をあげると、泉は畳にぺたんと腰を下ろしたままじっとポテチを睨んでいる。普段ならがつがつ遠慮なく手を出しているだろうになんだか変な感じだ。
「……どうしたんだ?食わねえの?腹減ってんじゃねえの?」
「腹は……減ってる……」
 短い言葉二つだけの不機嫌な返事に浜田は苦笑した。
「待ってろ。今お茶煎れてやっから。あ、牛乳あるぞ。あっためてやろうか?」
 泉はこくりと頷いた。
 行動は素直だが、とりあえず不機嫌だ。わかりやすいようでいて一番掴めない相手を前にして浜田はそれでもなんとなく心が浮き立っている。
 温めた牛乳をマグカップになみなみと注ぎ、ついでに自分の分にインスタントコーヒーの粉を振ってかき混ぜた簡単カフェオレを作ると、不機嫌な客のところに運んでいく。
 泉は礼を言ってカップを受け取った。
 普段は誰もいない部屋に人がいて、二人して差し向かいに座り大量のお菓子を前にしている。
 なんだか。
「あー、なんかこれって誕生日パーティーみてぇ。オレの誕生日は明日だから、バースデー・イヴって感じ?」
 言いながら「あははは」と笑うと、泉の表情が強烈に凶悪になるのがわかった。
「あれ?オレ、なんか、地雷踏んだ?」

「浮かれてんじゃねーよ、ばーか」

 泉はカップを唇に運ぶ。浜田を睨んだまま「熱ぃ」と舌を焼くミルクに顔を歪めた。
「お前さあ、ホントにどうかしたのか?ここんとこの泉はやっぱ、ヘンだ。田島に言われるまでもねえよ。オレ、なんかお前にやった?そんな機嫌悪いまんまだと、おばちゃんがいくら歓迎してくれてたって、泉んちに行くの、やだよ、オレ」
 途端、泉の顔がぱあっと紅くなる。
「別に、不機嫌でもなんでもねーよ」
 そっぽを向きながら言っても説得力のある言葉ではない。浜田はため息をついてテーブルの上のポテチを囓った。
「不機嫌だって。三橋なんか最近泉の目をまともに見れねえじゃん。田島が怒ってたぞ」
「ああ、あいつ三橋の兄ちゃんだから……」
 浜田の言葉に泉は俯いて、苦笑した。
「そんなこと言ったら、泉は田島の兄ちゃんだろ?」
「ンなことねえよ。やだよ、あんな弟」
「あるよ。泉?オレに当たるのはいいよ?でも、ナインの連中にはちゃんとしとけ。野球は一人じゃできねーぞ」
「わかってるよ……」
 泉は牛乳の入ったマグカップごと、両膝を抱き込むようにして座り直す。
「食え。腹が減ってるとぐるぐるしちまうだろ?」
 泉は目だけを浜田に向けて苦笑した。
「お前は脳天気でいいねえ」
 なんとなくずっとくすんでいたような泉の瞳の色が元に戻っている気がして、浜田は笑った。
「考えすぎて煮詰まってるよりは、脳天気の方がよくね?そっちのがセーシン的に楽じゃん」
「なんだそれ?」
 泉は笑った。それからようやく身を乗り出して、テーブル上のささやかな晩餐に手をつける。それを横目で見て浜田は少し安心した。
「だてに泉より一年多く生きてるわけじゃねえの。年長者の経験値ってヤツ?」
「……」
 ポテチに伸ばしていた泉の手が止まる。
「どした?」
「……345日」
「へ?」
 泉が何を言っているのかわからず、浜田は思わず訊き返す。
「浜田はオレより345日早く生まれてるだけで、正確には一年多くは生きてねえっつってんの。ついでに言うと今は……今日まではタメ年だろ」
「はぁ?」
 泉の元に戻ってきた不機嫌が、黒く重くわだかまっている。
「おま……そりゃまあ、あと何時間かはタメっちゃタメだけどさあ……そんな細かいこと、別によくね?」
「よくねえよ!」
 テーブルを拳でどん、と叩いて泉は身を乗り出す。
「てめぇはよ、人が知らない間に勝手に同学年になってんじゃねえよ。同学年だったら年齢位揃えてからなれ。こっちがわけわかんなくなんだろ?」
 一気にまくしたてると、音を立てて泉が目の前で萎んでいく。
「せっかく……何もかもちょうどいい感じだったのに。もう終わりだ。信じらんね」
「え?」
 浜田はまじまじと萎んだ泉を見つめる。
「えええええええ?って、泉、まさか不機嫌の原因ってそれか?」
「……」
「信じらんねえ。お前、人を先輩と思ってなかったくせに。実は思ってたのか?」
 あまりにも驚いてしまって、口がぱくぱくと開け閉めを繰り返す。酸素が足りない。
「オレぁ、生粋の運動部だぜ?上下関係にはもうDNAレベルで身体が反応するようにできてんだよ。これでも努力してたんだぞ。それをてめぇはよぉ……」
 浜田はぶるぶると頭を横に何度も振る。あまりのことになんだかじわりと涙が浮かんでくるのを止められない。
「泉、頼むからそういう努力は違う方向に向けろよなぁ。人を先輩とも思わない態度をとる努力ってなんだよ、それ」
「せっかくここんところは現実的にタメ年齢になってたってのに、また345日も待たなくちゃなんねえんだぞ。ムカついたって仕方ねえだろ?第一浜田、お前」
 泉はびしりと人差し指を浜田に突きつける。
「誕生日、誕生日って浮かれすぎ。キモいからやめろ。誕生日がきたらそりゃ、オレより一個上になるけど、だからってオレぁ態度変えねえからな。同学年だし」
「別に浮かれてねえし。態度は変える必要はないし。いや、変えて欲しいけど、実際」
 ほんの二年前は「浜田先輩!」と呼んでくれていたのだ。それなりに敬意を払って接してくれていたのだ。パンを買いに行かせたことはないが、多分頼めば速攻で走っていったに違いない。
「ああ、よかったなあ。あの頃は」
「じじぃはすぐ昔を懐かしいって言うんだよなあ」
「じじぃってさあ……今は、同じ年齢だって強調してたの泉だろうが」
 泉はぼやいて頬杖をつくと息を吐く。浜田はテーブル越しに泉に顔を近づける。

「オレがお前より年齢上になんの、そんなにやなのか?」

 泉は無言で目だけを浜田に向けた。
「泉が一番そういうの、気にしてないって思ってたけど」
 思わず目が細くなるのを自覚する。なんだか、気持ちに妙な成分が混じってしまっている。
「男ならわかんだろ?ちょっとでも浜田に負けてんのがやなんだよ」
(そこかよ……)
 思わず口元が緩む。
(勝つとか負けるとか、誕生日とか年齢とかってそういうもんじゃねえだろ)
 どうしようもないことに負けん気が発動している泉の言葉を聞けば、更に気持ちに含有される妙な成分が濃くなる。
「泉より誕生日早いのなんて、三橋もそうだし田島もそうなんだろ?なんで、オレ?」
「身長はオレのがでかい」
 近すぎる距離で、真顔で応える泉に浜田は零れてくる笑みを殺せない。
「じゃあ、えーと他に野球部でお前よりでかくて誕生日早いヤツ。他にいるんじゃねえの?」
「花井とか、巣山……」
「花井達はいいのか?」
「……」
 泉は黙り込み、それから心持ち頬を染めた、ように見えた。

「身長も、年齢も。浜田に負けてんのが一番ムカつく」

 泉は困ったヤツだと、浜田は思う。同じクラスになってからずっと思ってきた。毎日その気持ちは強くなる。
 浜田は、思わず泉の頭に手を突っ込んだ。そのままくしゃくしゃかき混ぜる。数日前に指が悦んだあの感じ。意外に柔らかい髪の毛の感触をそのまま楽しむ。
 怒られるかと思ったが、泉は浜田に髪を弄らせることを許したままだ。それで、ちょっと調子にのっている。
 泉はそのままテーブルに突っ伏した。
「でも、めちゃめちゃムカついてる自分がもっとムカつく……別に、浜田がウチに来るのはいいんだぜ?メシ一緒に食うのは面白いし、おふくろは張り切ってるし。でもなんか、ムカつくんだよ」
 泉が言えば言うほど、浜田の方は気分が上がっていく。誕生日を明日に控えていいプレゼントをもらった気持ちだ。
「いいよ、ムカついてて。兄ちゃんはなんか気分よくなったから」
「兄ちゃんとか言ってんじゃねーよ、ばーか」
 じっと、自分の髪を弄る男を睨むと泉ははっきり言った。

「浜田のこと、兄ちゃんだなんて思ったことなんか一度もねーよ」

 あとほんの数時間で浜田の年齢はひとつ改まる。
 そうしたら、なんだか嬉しいようなかきむしられるようなこの状況はまたリセットされてしまうのだろうか。
 なんとなく惜しいな、と浜田は思った。
 それは、泉の母親が腕によりをかけて作ってくれるらしい豪華誕生日料理と比べてもとても惜しいもののように浜田には思えた。

「じゃあ、泉はオレのこと、なんだと思ってんだよ?」

 その言葉を口にしたのは本当に気まぐれだ。
 だが、浜田の声に泉ははっとしたように表情を改める。

 それから、少し躊躇って口を開いた。

「オレは、浜田のこと……」
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