●● 目撃者 ●●
今年は実にいいバレンタインデーだった。
梶山は今日一日を振り返り、ついつい緩んでくる頬を引き締める。
周囲には立ち読みのマンガ雑誌にウケて笑っていると思われるかもしれない。格闘マンガの超シリアスシーンでにやけるなんて絶対妙だ。慌てて周囲を見回すと、コンビニの雑誌コーナーで立ち読みをしている奴らは梶山のにやけっぷりには全くもって無関心のようである。
ほっとして、またマンガに戻る。
(いや、でもマジで今年のオレはモテ男だよなあ)
再び頬が緩んできた。
西浦高校には近隣の女子中高生達の間で知らぬ者はない、と言われる程有名なバレンタインの掟がある。
本気チョコをくれたコとつきあうのがOKならばその場でもらったチョコを一緒に食べる。
従って義理チョコの場合は「開けないでね」と渡す時に一言添えなくてはならない。
なんでも昔実際にあった出来事を発端にした風習だそうだが、そんな習慣があるおかげで西浦におけるバレンタインのチョコレート率は近隣の学校より一割増し、とまことしやかに言われているらしい。イベントは特別な要素があればあるほど盛り上がる。
その一割増の西浦においても、今日の梶山のチョコレート率はかなり高かったと自負している。
原因はもちろん、夏大からの応援団活動に他ならない。
主に一年の女子から「ファンです」と笑顔でチョコをもらった日には、普通に顔がにやけると言うものだ。
おかげでなんとなく立ち寄ったコンビニのレジ前にできていたバレンタインコーナーのチョコレートにも、実に寛容な気持ちになれる。
きっとこの中のいくつかは、本気のチョコとなって女子から惚れた男の元に行くのだろう。もう、バレンタインもあと数時間しか残っていないが、一個くらいはまだ滑り込みで届くかもしれない。
梶山は鞄の中に入っているいくつかのチョコレートを思って、まだ出番を待っているそれらにエールを送った。
浜田から応援団に誘われた時にはそんなに深い心づもりがあったわけではない。ただ、一年生に置いてきてしまった友達の頼みを断る気にはなれなかった、それだけだ。
夏の自分はかなりがんばったと思うが、結果思いがけずご褒美をもらった気分である。 大満足だ。
「お……浜田じゃねえか」
梶山がふと目を上げると、コンビニの大きなガラス窓の向こう側によくよく見知った姿があった。
夏の立役者の一人、応援団の生みの親、その人である。
つい一時間ほど前に学校で別れたばかりの浜田は、自転車を押しながらコンビニの駐車場に入ってきた。
雑誌売り場に知り合いがいることには全く気付いていない様子である。
「なんであいつ、自転車押して歩いてんの?」
梶山は週刊マンガの連載ページを開いたままで薄暗がりにいる友人を眺めていた。
学校からここまで歩いたら30分以上かかる。足があるのにも関わらず、わざわざ歩いてくる意味がわからない。
「と、ツレがいんのか……あー……なるほど、泉、ね」
よく見れば、一人ではない。
一緒にいるのは、浜田のクラスメイトで元後輩の野球部だ。
「うーん……これは……」
なんとなくマンガ雑誌で顔の下半分を隠してみる。
二人して連れだって、自転車を押して学校からここまで歩いてきた様子だ。
二月のど真ん中、今年はことのほか寒さ厳しい冬である。マフラー、手袋、なんなら耳当て。完全防寒してさっさと自転車に乗って走りぬけてしまわなければあっという間に氷漬けだ。そうでなくたって、せっかくの足を使わない理由はない。
いや、理由なら当事者二人には立派なものがもしかしたらあるのかもしれない。
「これは……」
梶山は全くこちらに気づく様子のない二人を、窓越しに眺めていた。
なんとなく見てはいけないものを盗み見している気になっているのはどうしたわけか。
「なんで、どきどきしてんだか……」
なんだか顔まで紅くなってきている気がする。理由についてはあまり考察したくない。
浜田と泉は、外で立ち止まり二言、三言、会話をしていた。そして、浜田だけが店内に入ってくるようである。
「……うわ」
浜田は何度も泉に振り返って「入ってくんなよ!」と叫びながら、コンビニに向かって歩いてくる。
何がどうしてそんな展開になっているのか知らないが、小学生でも今時そんな子どもじみた真似はしない、と梶山は即座に結論付けた。
寒空の下待たされる泉は、こちらも全く雑誌コーナーに目をやる様子はない。
ただじっと、浜田を見ている。
(……なんか、すごくね?)
黒目がちのつぶら、と形容していい瞳はまっすぐ浜田にだけ注がれている。
(すげ、見てんなあ……)
浜田はひときわ大声で「入ってくんなよ!」とコンビニのドアの前で叫ぶ。
泉が苦笑していた。
梶山は、雑誌で顔を隠しながら友達と後輩の姿を交互に見ている。
(なんだろう、これ……)
なんだかいたたまれない気持になっている。
浜田は店内に入ると、一目散でレジ前に設置されているバレンタインコーナーに向かう。
梶山はひやひやしながら店内でチョコレートを物色している友人と、ほんのわずか浜田を見るとさっさと自転車を押して視界の外に消える泉を見比べていた。
(おいおい、泉行っちまうぞ?浜田?急げ?てか、泉、いろよそこに!お前はちょっとも待てないのか?)
注意を促そうにも、この現場を目撃していること自体二人にばれるのがすごくまずい気がして、梶山は心の中で地団太を踏んだ。
「あ、袋いりません。レシートもいいっす」
浜田が何やら物色していたのはバレンタインコーナーで、それ以外の場所には見向きもしていない。ならば、当然今会計をしているのはチョコレートだろう。
(誰にやるんだよ、って……やっぱ、そうなのか?そうなのか?浜田)
じっと浜田を見つめていた泉の眼差し。必死な様子の浜田。
また心臓が痛くなってきた。
とっくに泉はいなくなっているのに、慌てている浜田が哀れだと梶山は思う。
小走りで出ていく浜田は、やっぱりすぐそこに梶山がいることになど全く気付いてもいなかった。
「お前はなんでそんなに青いんだよ?それともオレが枯れてんのか?」
外に出た浜田は、きょろきょろ辺りを見回しながら「あれ?泉?泉ぃ?」と声をあげて相手を探している。
(おーい、泉はなあ、ついさっき、お前がチョコを必死に選んでる間に帰ったぞー)
哀れな友人を慰めるべきだろうか、と梶山は雑誌を閉じた。
「あいつ帰ったの?マジで?嘘だろー?」
切なそうな声がガラス越しに聞こえる。
(あんま大きな声で言うな?ホモだとばれるぞ?)
バレンタインの夕方に必死の形相でチョコレートを買う男。これだけでニアホモ認定の行動だが、さらに待たせているのが男とくればこれはもう。
レジに入っている店員もちらちらと外の浜田を見ているではないか。
(ばかだね、お前はホントに)
せっかく幸福なバレンタインデーをくれた友をこのまま野ざらしにはできない。
仕方ないから泉に逃げられた浜田を慰めてやるか、と梶山は雑誌コーナーを離れて外に出た。
「……」
軽く手を挙げて偶然を装って声をかけようとしていた梶山の手は空中でむなしく固まる。
泉を携帯で呼ぶことを思いついたのだろう。携帯を耳にあてたままの浜田の視線はまっすぐ建物の脇の方に向かっていた。
ふらふらと自転車を押してコンビニの建物の脇に向かう。
「……っ」
ほんの二メートル脇を通ったくせに、浜田は全く梶山に気づかなかった。
(なんだ?)
わけがわからなくて、梶山は浜田の向かった方にひょいと顔だけ出してみた。
(わ!)
慌てて引っ込む。
そこには、てっきり帰ったと思っていた泉がいた。
浜田は泉の姿を見つけて、ほんのすぐそこにいた友達にも一切気づかずに近寄って行ったのだ。
「隠れんなよ、焦るだろ」
ぼそぼそとしゃべる浜田の声が聞こえる。
(あいつ……こんな声で泉にしゃべりかけてんの?)
声が、甘い。
ひたすら優しい、優しい声だ。
普段、梶山や梅原としゃべる時にこんな声音だったことは未だかつてただの一度もない、と断言できる。
いや、浜田と泉が一緒にいるところはしょっちゅう見ているが、その時にはこんなしゃべり方をしてはいなかったはずだ。
また、見てはいけない現場を覗いているような気分に梶山はなってきた。
「何?これ」
泉が短く問いかけた。聞くつもりはなかったはずが聞こえてきてしまった。
(逃げろ、オレ!)
梶山が自分に発破をかける間に、浜田が答えてしまった。
「何って、チョコレート」
(うわああああああ!)
心の中で絶叫である。
この場合のチョコレートは、さっき浜田が買っていたあれ以外に考えられない。そして浜田はあれを泉に手渡したのだ。
(「開けんなよ」って言えよ、浜田!)
だが、いつまで経ってもその気配はない。
まさか、自分が心の中でエールを送ったチョコレートがさっそく本命チョコとして贈られるとは思わなかった。
しかも、自分の友達から同性の後輩に向かってだとは、予想外にもほどがある。
これで泉が浜田の食べる分のチョコレートを返したら一巻の終わりである。いや、浜田的にはスタートかもしれないが、なんとなく終わりな感じが梶山はした。
「……」
「……」
だが、泉は何も答えない。沈黙は梶山の上にも重く落ちてきた。
(あ、だめなんだ、泉……意外……)
さっき、浜田をじっと見つめていた瞳の色を思うとてっきりチョコを一緒に食べるような気がしていた。
(いや、違う。そうじゃなくて……)
考えている間に、物陰での二人の会話が再開されていた。
「あのさ、ここでにらみ合ってるオレ達って間抜けじゃね?」
「かな?」
「だろ?」
泉はどうやら浜田の「開けんなよ」がなかったチョコを流すつもりらしい。旗色は明らかに悪い。さっき浜田が必死に選んでいたチョコレートは不発に終わる様子だ。
「じゃあ、早くお前んち行こう。寒ぃし」
泉の一言で、どうやら浜田のチョコレートは空振りと決まったようだった。
「……ああ」
落胆を隠せない浜田の声が悲しそうだ。
(マジか……いや、普通そうだよなあ)
梶山は驚き半分納得半分である。この分では浜田の家で二人きりになった時にあまりにも気まずすぎて浜田が哀れだ。
(なら、浜田の家になんか行くなよ……って、泉は泉なりにいつも通り変わんねえからって気ぃ使ってんのかもなあ)
あれでいて、チームワークがものをいうスポーツの選手なのだ。その可能性は高い。
(やっぱり、ここはオレが一肌脱ぐか。仕方ねえやつだな、浜田め)
いろいろ考えて、梶山はあくまで偶然を装って二人に声をかけ浜田の家に押し掛ける作戦を取ることにした。
それならば浜田のみじめな気持が少しは軽くなるかもしれないし、泉も気が楽になるだろう。
それに、今日の幸福を呼び込んでくれたのは野球部のがんばりがあってこそだ。後輩とはいえ、泉にも多少なりとも恩返しをしておきたい。
梶山は物陰から出てきたタイミングで声をかけようと決意した。
と。
「浜田!」
泉が浜田を呼んだ。
「ほら」
(……え?)
「お前、これでいいのかよ?」
(え?)
「オレはこれが一番欲しかったんだよ。泉」
(……えええええ?)
梶山のほんの数メートル離れたところでいったいどんなビッグバンが起きたというのだろうか?
怖くて動けない。
だが、泉の声の調子、浜田の声音からして、どうも浜田のチョコレートが無事大望を果たしたらしいことはなんとなく理解できる。
泉は、恐らく西浦におけるバレンタインチョコレートの風習を知っていて浜田からもらったチョコを浜田に食わせたのだ。
本気チョコをくれたコとつきあうのがOKならばその場でもらったチョコを一緒に食べる。
従って義理チョコの場合は「開けないでね」と渡す時に一言添えなくてはならない。
(は、浜田ぁ……)
確かに今日の浜田の様子はおかしかった。どこかぼんやりとしていて心ここに非ずといった調子で、春大の打ち合わせもなんとなくなし崩しに終わったのだ。梅原がそう言えば別れ際に「昨日あたりも電話したらなんかぶっ飛んでたぞ、あいつ」と言っていた。
それもこれも泉にチョコをやることで頭がいっぱいだったからというわけか。ならば、最初からもうちょっと気の利いたヤツを用意しておけばいいのにそれをしないところが浜田ゆえか。
(浜田、オレぁ複雑だぞ?)
前々から時々「あれ?」と思うことはあったのだ。
浜田は泉をかまい過ぎだし、泉はそのパーソナリティーからすれば随分と子どもっぽく浜田にあたる。
お互い意識しすぎだ。
それは、元先輩後輩から現同級生になった照れ隠しと思えばそれで片付くことかもしれないが、もしもそこに誰にも秘密の熱が潜んでいたとしたら。
(浜田ぁ……なんかわかってたけどさぁ……)
他人の恋が成就する、その場面に出くわした。
しかもそれは仲のいい友達で、さらにその恋人は気の強い後輩だ。
あまりにも驚愕の事態に梶山はふらふらと後ずさりする。そのままコンビニの中に戻ると溜息をついて、しゃがみこんだ。
「お、お客さん?気分でも悪いんスか?」
店員が恐々とこちらを覗きこんできた。
「あー、すまん。ちょっとあてられただけだから、しばらくじっとしてりゃ大丈夫」
(わかってたんだよな、うん)
コンビニに入る泉がどんな瞳で浜田を見つめていたか、さっき見たばかりではないか。
浜田の声がどれほど甘いかさっき耳にしたばかりではないか。
(泉、な……ありゃー、気が強いとかいう問題じゃないから、苦労すっぞお前)
なんとなくもう認めている自分に、梶山はまためり込んだ。
「お客さん、マジ平気っすか?救急車とか、マジ呼ぶのヤバいんスけどぉ……」
「平気だっつってんだろうが。少し休ませてくれよ。ちょっと、精神的疲労がな……」
「現代社会っていろいろありますからねえ。でも、救急車はちょっと……」
腕に顔を埋めた梶山のその目の端に、浜田と泉がやっぱり自転車を押しながらコンビニを離れていくのが見えた。
そうだ、これから浜田の家に行くと言っていた。
学校から浜田の家までは自転車を飛ばして約30分かかる。歩いたら小一時間といったところだ。
その時間をかけて二人は一体何を話しているのだろうか。
ほんの30分を惜しんで交わす会話は、二月の冷たい空気に凍えることと引き換えにしても構わない大事なものなのだろうか。
梶山はため息をつく。
去っていく友達の顔なら見なくてもわかる。
きっと、今日一番幸福な顔をしているに違いない。
梶山は携帯を取り出すと、梅原の番号を呼び出した。
「ああ、梅か?これからちょっとカラオケつきあわね?浜田?いや、あいつは今日はいいや。なんか調子悪いっぽかったろ?だろ?うんうん、だから今日は二人で歌い明かそうや。な?」
梶山はさっき見たことを胸にしまうと、いいバレンタインをくれた友人のために静かな時間をより確実なものにしてやることに決めた。
もちろん、この貸しはその内倍にして返してもらうつもりだ。