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● ノート借ります。  ●




「あー、ちょっと!そこの!えーと、9組の人?」
 教室に入ろうとしたところを呼び止められて、浜田は声のした方に目をやった。
「オレ?」
「そう!アナタ!」
 切羽詰まってぱたぱた上履きの音を立てながら駆け寄ってくる顔には見覚えがある。
「あー、野球部の……」
 浜田は記憶を探る。確か正レフトのくせっ毛、打つのも守るのもお世辞にもあんまり上手いとは言えない……名前は確か、

(……水谷だ!)

 思い出してすっきりした。
 向こうは全くこちらを関知していないようだが、浜田は知っている。
 西浦野球部の連中ならば、もう大体固まってきた正ポジションも名前も頭に入っている。自分の記憶の裏付けをとることができてなんだか満足だ。
 浜田が自己満足に浸っていると、水谷はおもちゃみたいな動きですり寄ってきた。顔がひきつっている。
 何かに似ているな、と思った。
(……あれだ。ぜんまい仕掛けとかそういう……)
 三橋とは違うが、なんとなく共通項がありそうな人間だな、と浜田は思った。
 そんな風に浜田が思っていることなど、もちろん水谷は知らない。
「……ねえ!泉か三橋か田島いない?野球部の」
「ちょい待って」
 浜田は教室の扉を半分開けて首だけ中に突っ込む。水谷が残りの隙間から同様に教室を覗き込んだ。
「あー、まとめていねーや。なんか用事?」
 浜田の言葉に、水谷が絶望的な顔をして天井を向いた。

「なんだよぉ!オレぁ、朝練終わった時にちゃんと言っといたのに!辞書貸してくれって!主に泉に!」

「なんで、泉なの?」
 絶望しきって地団駄を踏みつつ呪いの言葉を吐き始める水谷に浜田は苦笑して尋ねてみた。
「……お前9組なんだろ?泉と三橋と田島知ってんだろ?なら、オレが主に泉に期待する理由わかんだろ?」
 納得いった。
「ああ……そゆことね。だけど、辞書借りんなら三橋か田島のがいいぜ。あいつら教科書も便覧も何もかも学校に置きっぱだから。まず、ないってことがありえない」
 水谷はぱっと顔を明るくして「そっか!いいこと聞いた!」と言ったが、次の瞬間また暗い顔つきになった。
「わかったところで全員いねんだから仕方ないじゃぁん」
 浜田は笑った。
「なに?辞書って英語?オレの貸してやるよ」
「マジ?でも、借りたいの古語辞典なんだけど」
「あるある。でも、今年指定のとちょっと違うけどいいか?」
 浜田の辞書は泉達のものと装丁は同じだが、版が異なる。水谷は「うんうん」と首をこくこく縦に振った。
「ありがとー、えっと……」
「浜田」
 途端に水谷はにっこり笑った。

「ありがとー、浜田!」

(おー、いい笑顔)

 なんだかんだ言いながらみんなから愛されているに違いないだろう、水谷のチーム内ポジションがわかるような笑顔だ。
 人がこういう笑顔を見せることができる団体は、絶対に悪い方向にはいかない。

「で、浜田?もひとつ、お願いあんだけど……」

 水谷がやけにもじもじしながら上目遣いに浜田を見つめる。
「なんだよ、気持ち悪い……」
「今日のリーダー、あたるんだよね、オレ。9組が午後やるのと同じとこだから、先に訳写させて……」
「花井か阿部に写させてもらったら?」
 水谷はぶるぶると首を横に振った。
「あいつら、オニだから!そういうのは自力でやるもんだっつって、見せてくんねえの。阿部なんか、ヘーキな顔して見返りヨーキューすっし。花井は『水谷だと、あいつらより多少厳しくできる』とかなんとか嬉しそうに言うんだぜ?ひどくね?」

(あいつらって……田島と……三橋も、か?)

 野球部の練習はよく観ているが、同じクラスの連中以外の性格までは流石に把握できていない。苗字と顔とポジションと選手としての能力値がざっと。
 泉達に見つからないようにそっと盗み見ている身としては、これくらいの量の情報収集がいいところだ。
 浜田は苦笑した。
「なんだよ、そっちのがメインなんじゃね?」
「泉には言ってあんだよー。今日借りてく予定のCD、泉にもコピってやるっていうことで話がついてんだよ。なのに、いねーってどーゆーことだよ」
(それも見返りヨーキューされてるって言うんじゃねえのか?)
 浜田の心の声が聞こえたわけでもないだろうが、水谷は鼻高々に言った。
「ほら、これもコーショー術の一貫、っての?どーせオレはあのCD借りるつもりだったし?ならオレの余分な出費はゼロなわけよ」
 あったまいー!と付け加えんばかりの水谷に、浜田は何と言っていいのかわからない。
「でも、浜田が貸してくれんなら、浜田にコピった方がいいか?」
「あー、もーいいから。待ってろ」
 水谷の頭をポンポンと撫でると、浜田は教室に入っていく。
 そうして、泉の机の中から勝手にリーダーのノートとついでに辞書を取り出すと水谷のところに持っていく。
「ほら。泉のノートと辞書。CDは泉にコピってやってくれ」
 水谷は表に『リーダー 泉孝介』と書かれたノートと浜田の顔を見比べる。
「……いいの?泉の勝手に借りても?」
「だって、水谷、泉に借りるって約束ちゃんとしてたんだろ?あいつには後でオレから言っておくから。その代り、この時間終わったらすぐに返せよ。超うるせーから」
 浜田は頭をぽりぽり掻きながら言った。
「オレがリーダーのノート貸してやれたらいいんだけどさ、オレもこのノートあてにしてっから。だから、ちゃんと返すんだぞ?」
 水谷はじっと浜田の顔を見つめる。何か言いたげな顔をするが、上手く言葉にならない様子だ。

「よーす、水谷。なんか用か?」

 二人して声の方に向き直れば、泉がぷらぷらと歩いてくる。
 水谷は眉をひそめた。
「泉!オレ後でリーダーのノートと古語辞典借りに行くって言っただろ?なんでいねーの?」
 言われた泉は「おお、忘れてた」ときょとんとしてみせる。
「忘れてたって、ひでーのな」
 水谷は絵にかいたように頬を膨らませた。その様子に息をつきながら、泉は言う。
「でもなー、オレ、辞書は貸す約束したけどノート貸す約束はした覚えねーぞー」
「あれ?そうなのか?水谷」
 明らかにぎくりとした様子を見せて馬脚を現した水谷は「あははははー」とうすら笑いを浮かべる。
 泉は横目でちらりとチームメイトを見ると「仕方ねえなあ」と肩をすくめた。
 浜田はその様子を興味深く見つめている。
(あらー、なんかちょっと大人じゃねーの?泉はよ)
 と、ちらりと泉がこちらを見た。ノートを水谷に貸したのはお前か?と目で尋ねるので、頷いた。
 泉は息をつく。
 水谷は目をパチクリさせてその様子を見ている。
「辞書と……ノートも貸してやっけど、この時間終わったらすぐ返せよ」
 泉の言葉に、水谷はぱっと顔を輝かせて浜田を見た。
「な?同じこと言っただろ?」
「すっげー。浜田すっげー。泉のこと完璧読んでんのな」
 二人で顔を見合せて笑った。
 泉はその様子が気に入らないらしく、いらいらと口をさしはさんでくる。
「何が読んでる、だよ。浜田も笑ってらんねーだろ?今日あたるぞ、リーダー」
「げ?マジ?今日何日だっけ?あー、忘れてた!」
 泉に指摘されて急に今日の日付と自分の出席番号を思い出す。
「水谷!絶対ぇこの時間終わったら即効でノート返せよ!即効だ、即効」
「わかったよー。じゃあ、借りてくな。浜田がかわいそうだからちゃんとすぐ返すよ」
「おー、そうしてやってくれ。じゃないとこいつが哀れだ」
 軽く手を挙げて、水谷は自分のクラスの方に向かって一歩足を踏み出す。
 と。
 踏み出した足をそのままに、くるりと綺麗にターンした。
 浜田と泉は、目の前で華麗なターンを決めた水谷を見る。

「な、なんで浜田ってオレの名前知ってたの?オレ言った?言ってねえよな?なんで?なんで?」

 目いっぱいに瞳を大きく開いて、かくかくとしたぜんまい仕掛けのおもちゃのように水谷は言った。
「ああ……」
 浜田と泉は二人同時に納得の声をあげて、つと目を合わせる。
 まさか、野球部をずっと影からこっそり覗いていたからだとは言いにくい。
 泉は、にっこり笑った。いや、どちらかと言えば、にやりと、だ。
(なーんか見透かされてるみて……)
 浜田は水谷に向き直ると、慌てて適当な言い訳を考える。
「いや、泉から野球部の連中の話よく聞いてっから、なんかきっとお前は水谷だろうそうだそうに違いないと……」
「……だ、そうだぞ」
(やっぱり、野球部の練習覗いてんの気づいてたんだろ、テメ)
 浜田は隣の小柄な同級生に睨みを利かせてみるが、全くこちらを見ようとはしない。
 水谷は「ああ!」と納得した様子で、こちらは助かった。
 高校男子が高校球児を覗き見していたなんてことは、あんまり口外したい事実ではない。
「あー、なるほど。なんか納得した」
 水谷は言ってにこにこ笑う。泉は首を傾げた。
「何が納得したんだ?」
「いやー、だってさ、浜田、泉の机の中すげー当たり前に勝手に漁るし。なのに泉は全然そのことに文句言わねえし。怒んだろ?普通はさ。オレは正直びびったぞ?でも平気だったから、浜田は泉にとって大丈夫なヤツなんだなあって思ったんだよ」
「……」
「そーかそーか、野球部のことそんな毎日話すほど仲いーやつだったのか。納得。んで、オレのことはなんて話してんだ?泉?」
(毎日とは言ってねえぞー、水谷)
 浜田は口に出さずににっこり笑った。
「……どうって、毎日顔つきあわせてる印象のまんま」
 泉も笑った。
 水谷の顔はみるみる内に真っ赤になる。三歩下がって、低く唸る。
 野球部で泉が水谷にどんな態度を取っているのかよくわかるというものだ。
 慌ててフォローを入れてやる。
「あー、水谷?泉は変なことは言ってねーから大丈夫だぞ?そうだな、できればもうちょっとバットを短めに持ってスイングをコンパクトにする様に意識した方がいいんじゃね、とかは」
 言いかけた浜田の声に、水谷は「んー。わかってんだけどさあ、感覚掴めなくて……」と俯く。
 そこで予鈴が鳴った。
「あーもう行かなきゃ。泉、サンキューな。浜田、即効写して次の時間持ってくっから」
「おー、頼むぞ」
 水谷は手を上げるとばたばたと上履きの音を響かせて七組に走って戻っていく。向こうから連れだって歩いてきた田島と三橋に手を挙げてあいさつしているのが見えた。
「おい」
 泉が尻を横に振ってぶつかってくる。
「なんで、水谷の名前を浜田は知ってんだよ?」
 ぶつかられたらぶつけ返すのが礼儀だ。浜田も同じくヒップアタックを返しながら「だから、泉が話した野球部情報の中にあったんだよ」と言い返す。
 それから、二人して互いに下半身アタックをやったりやられたりを繰り返しながら教室の中に戻った。
「オレは水谷のバッティングフォームのことなんて絶対言った覚えねえぞ」
「いや、言った」
 泉は目を細める。

「だとしても、水谷のバッティングの欠点なんて、オレは気づいてねえよ」

「……」
 思わず浜田は動きを止める。
「あいつが水谷。いいヤツだろ?」
「いいヤツだな」
「ウチのチームは当たりだよ、浜田。だから、安心しろ」
「……」
 応えに詰まったのは不覚だ、と浜田は思う。
 泉はにっと勝利の笑みを浮かべて自席に戻った。

(あー、やっぱりバレてたか……)

 さてどうやって言い訳しようかと、そのことばかり考えてしまう。
 おかげで、授業で何をやったかなど覚えていない。
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