●● アクエリアスの午後 ●●
「あ、浜田……さん、練習いつも手伝ってもらってありがとうございます!」
生真面目な野球部主将が頭を下げる。もちろん、帽子も取って深々と、だ。
浜田はそれでつい、苦笑する。
「はーなーいっ。だから何度も言ったと思うけどオレは好きでやってんだからそんな、礼なんていいんだよ」
だらだらと流れる額の汗を腕でぐい、と拭って笑ってみせると花井は困ったような顔をした。
(あー、生粋の運動部って感じだもんなーこいつ)
DNAに刻み込まれた「先輩には絶対服従」の本能がどうしても抜けない。
西浦高校野球部には、先輩などいないと言うのに。
「ホントに、花井はいつになったらその固いのとれるんだ?九組の連中を見てみろよ」
花井は苦笑しながら、頭をかく。
「やー、わかってはいるんスけど、つい……すんません」
「まー、あいつら……特に泉は、あれはやりすぎだけどな。オレも中学ン時の先輩に会ったらコーチョクするもんなあ」
走塁練習のおかげで汗みどろになったついでに、思いきってTシャツを脱いでしまう。
花井は「ですよねえ……泉ってすげえ」と、蛇口に手をかけて浜田に首をかしげてみせる。
「あー、すごくねーすごくねーって」
頷いて頭を蛇口の下にやると花井がジャストタイミングで水栓をひねった。
勢いよく冷たい水が浜田の髪を濡らす。夏場の部活はこれがないとやった気にならない。
「あー、気持ちー」
そのままばしゃばしゃ顔を洗う。
「やー。なんか、三橋は浜田……さんの幼馴染だし、田島は……田島だからなんか屈託ないのわかるんスけど、泉はなあ……オレ、ある意味泉が一番すげぇって思います」
花井が苦笑しながらもさっとタオルを差し出した。この辺りの絶妙な間合いが運動部育ちだ。
浜田は素直にタオルを受け取る。
「サーンキュ。だけどさ、マジで。オレと花井は同学年なんだからさ、そんな固くなんなくていーんだぞ?」
タオルの隙間から主将を見れば、顔を紅くしている。
「まーでも。気持ちはわかる。わかるけどさー」
ちょいちょい、と花井を手まねきして蛇口の下に誘う。にっこり笑って、花井もベースボールシャツとアンダーを脱ぐと蛇口の下に頭を突っ込む。浜田もさっきの花井同様蛇口を勢いよく捻った。
「くーっ!気持ちーっ!」
命の水は効果抜群だ。
花井には自分のタオルを投げてやると「ッス」と返礼される。
そのままなんとなく二人して並んで座った。
グラウンドでは内野陣の特守が続いている。ランナー役は水谷と西広だ。
今日はマネージャーが不在のため、花井との一発じゃんけんに負けた泉は一人でアクエリと麦茶のタンクを作りに校舎の方に行っていた。
もう夏だ。作っても作っても、タンクの中身はあっという間に空になる。みんなで交代でドリンクを作ってはマネージャーのありがたさを噛みしめている。
モモカンの声が景気よく青空に響いている。
じゃんけんに勝った花井は、ゲスト扱いの浜田の隣で天を仰ぐ。浜田はすっと立ち上がると、プラカップに二つアクエリアスを汲んで花井の隣に戻った。
差し出したカップに花井ははっとしたような顔をして「ッス」と恐縮する。
「……まあ、今のあれを見てたら信じられねーかもしんないけど。泉も昔は花井みたいだったんだぞ?」
「へ?」
まん丸に目を見開いた花井に、浜田はにやりと笑った。
「あいつも、生まれる前から体育会系ってタイプだからさ。先輩に対しての礼はもう魂に刻みつけられてっから。だからオレの後輩だったころはそりゃーもう」
言いながら、くくくっと笑ってしまう。
「いや、今の花井はまだいいって。ホントに」
思い出しながら笑いがこみあげてきて止まらない。
「昔はなー、泉は今以上にちっこくてさー。柔軟やってる時とかにオレが通りがかると、えびみてーにぴんって飛び上って、やったらでけえ声であいさつしてさー」
花井は苦笑しながら、スポーツドリンクをあおる。隣で浜田もそれに倣った。氷をたくさん使って冷やしてあるスポーツドリンクは沁みるように美味い。
体育会系人間にとって、先輩後輩の関係は絶対だ。浜田もそうだが、花井もこの先何年経っても当時の『先輩』に会ったら途端に上下関係の絶対服従精神は蘇るに違いない。
ある意味、泉が今のように浜田に接するのは奇跡的と言っていい。
浜田の瞼の裏には今でも顔を真っ赤にして浜田に礼をする坊主頭の泉がありありと浮かぶ。
「あいつはなー、いっつも浜田さん、浜田さんってオレの後ついて回ってたな」
「えええええ?」
そこには花井は心底驚いたらしい。
「だよなー。今のアレ見てたら信じがたいのはわかる」
浜田は少々複雑な気持ちで頷いた。大きく、頷いた。
「オレらの代が引退するって時にはだな。こー大きな目にいっぱい涙を浮かべてだな」
「えええええ?」
若干聴衆が引き気味である。構わず浜田は続けた。
「オレ、浜田先輩がいなくなったら寂しいっす!とかなんとか言いながらオレに抱きついてきた時にはちょっとびびったぜ?」
「いや、いくらなんでもそれはウソだってのはわかるって……泉がンなこと言うわけ……」
花井が吹き出しながら言う。ちらりとそれを横目で見て浜田は「いやいや、マジマジ」と続ける。
「部活の引退式の日には、感極まって抱きついてきた泉の涙と鼻水でオレの着ていた学ランはぐしょぐしょのテカテカに……痛っ」
がたん、という音。それに続いて猛烈な勢いで何かが後頭部にぶち当たる。
「痛ってーなあ、泉!」
振り返れば、泉が顔を真っ赤にしてこっちを睨んでいる。どうやらぶつけてきたのはグラウンドの隅で無残に乾燥しきってかぴかぴになっていた雑巾のなれの果てらしい。
なんてものをぶつけるのだと、浜田は眉をしかめた。
「てっめえ!好き勝手なこと花井に言ってんじゃねー!」
「いやあ。今でこそこんなんなっちゃったけど。その昔は泉もすっげーかわいかったきらめきの過去があるんだぞ、と花井にだな」
地面に置いた麦茶とアクエリのタンクをむんずと掴んで、とりあえずベンチまで運ぶと、自分の仕事は終わったとばかり、泉はずかずか歩いて浜田の前に立つ。
「よくも言いたい放題言ってくれやがったな」
怒りに漲る泉がぎりぎりと浜田を睨む。浜田はすい、と花井に手にしていたカップを押しつけた。
「いやいや、オレはただ過去の事実をだな、花井に聴かせてやってただけだぞ。泉は案外かわいいやつだっ……痛っ!」
脇腹にきた一撃を交わして浜田は泉の手を取る。返す左の拳をすかさず手のひらで受け止めるとそのまま、ぎりぎりと握力勝負に入る。
「てんめぇーっ!」
「いやいや、まだまだ若いモンには負けねえぜっ」
花井は。
花井は呆然として当たり前のように力と力のじゃれあいに入った二人を眺めていた。
「……あれ?」
ふと、気づく。
(泉、なんか耳まで真っ赤じゃね?)
プラカップを二つ手にしたまま、花井は首を傾げる。
「てっめぇー言うんじゃねえよ、そんなこと!」
「やー、ホントに口ばっかり成長してオレは嬉しいよ」
泉は本気で、浜田は笑いながら相手をしている。
花井はじっとその様子を見ていた。
(……うん。やっぱり真っ赤だな)
ふと、考える。
(こりゃー、もしかして、浜田の言ってたことって結構ホントのことだったりして)
となると、泉が浜田にタメ口を叩く一番最初の一言には相当の勇気がいったに違いない。泉はどこからどう見ても体育会系人間だ。それほどまで慕っていた先輩とそうすぐに同級生になれるものではない。
(泉にできんのに、オレにできねえわけねえ、よな)
浜田の方の準備はできている。なら、壁があるのは花井自身にだけだ。
それも、ごく低い。またいでしまえばきっと何と言うこともない。そんな、壁。
それにしても、だ。
(それにしても……泉が、浜田の引退を惜しんで大泣き、ねえ……)
その姿を想像して、つい口元が緩む。と。
「はーなーいー……」
ぷっと吹き出すのをこらえきれなかった自分を、花井は密かに叱咤したがもう遅い。
大層物騒な目をした泉がこちらを睨んでいる。
「てめぇ、今なんか想像しただろ。ろくなことじゃねえだろそれは」
「い、いやあ、オレは……」
一触即発、ベンチ脇の空気が一気に緊迫の度合いを増したその時、バッターボックスから怒声が響きわたる。
「そこ!三人!休憩取らずに遊んでんだったら、球拾い!さっさと散りなさい!」
「はい!」「はい!」「はい!」
第三勢力の加入に、一気に情勢が変わる。
慌ててシャツを着るとグラブを手に取り、グラウンドへ駈け出そうとする。
ふと気がついて、花井は予備のグラブを手にとった。
「……浜田!」
名前を呼んで、花井は同級生にグラブをぽんと投げて渡す。
「花井、サンキュ!」
浜田がやけに嬉しそうに笑った。
(あれ……)
花井は見逃してはいない。
浜田のすぐ横で、泉も同じようにひどく嬉しそうに笑っていた。