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● あの夏の背中  ●




「予算の範囲で目をつけたやつを片っ端からはめてみて、いい感じ。って思ったやつを買えばいいんだよ。あ、色は無難なの選んでおけよ。多少硬ぇって感じても、ちゃんと手になじむようにもみ込んだりとかして革を柔らかくするし、使ってるうちになじむもんだからあんま気にすんな」
 泉の声に、西広が「うん」と嬉しそうに頷いた。

 西広が「グラブを買うことにしたんだけど。あと、他にもいろいろ。どれがいいとかよくわかんないから誰かアドバイスしてよ」と言ったら、ナインの手が一斉に挙がった。
 西広は西浦高校野球部員唯一の野球初心者で、入学時に何一つ自分の野球用具を持っていなかったただひとりの人間だ。
 軟式時代から引き継いだ野球部の備品は、モモカンが丁寧に手入れをしてくれていたから使い込まれたグラブ独特の「いい感じ」はあるにはある。ちゃんと貸してくれるのだから、万単位の金をかけて自分のグラブをわざわざ買う必要はとりあえずは、ない。
 だが、当たり前に「自分の」ものが欲しくなるのは仮入部で半月ほどやってみて、いよいよ高校球児になる決心が固まった証拠だと、泉は思った。

 ゴールデンウィークには合宿が控えている。
 
 あと少しでやってくる、高校生になって初めての宿泊コミの遠出にみんな浮足立っていた。
 おっとりした雰囲気の西広も例外ではなくて、用具を買いそろえたいというのも、浮き浮きしたハレの気分の象徴なのかもしれなかった。
「結局、全員?んじゃ、ビッグスポーツ行くか。みんなチャリだよな?こっから三十分位かかっけど、あそこ、品揃え多いし。結構安いよな?」
 泉の感触では恐らくキャプテンになりそうな花井がそう言うと栄口が控えめに手を挙げた。
「オレ、いいもん持ってる」
 鞄の中から高々と掲げたのは、折込チラシだ。

 御持参の方は、お会計より5%オフ

 でかでかと印刷された赤い文字に、ナインの歓声があがる。
 それでみんなで大型スポーツショップに買い出しに行くことになった。
 案外、入学祝いにもらった金でグラブやスパイクその他諸々を新調したり買い置きしておこうという人間が多かった。それに他人が金を使うところを見るのは単純に気持ちがいい。
 何より、合宿だ。
 泊りがけの合宿を経験するのが初めてだという人間が過半数を占めている。うきうきしない方がおかしい。
 
 おかげで、国道沿いにあるスポーツショップの野球用品コーナーは現在、西浦高校野球部員御一行様来店により大盛況だ。
「……あーこんだけいっぺんに買うと気持ちーな!」
 泉は、西広の景気のいい買い物っぷりになんだか上機嫌だ。
「あ、ソックスと……アンダーはパンダじゃなくて黒な。多めに買っとけよ」
 花井がやっぱりにやにやしながら西広に言うので、きっと同じことを考えている、と泉は思った。
 西広が押すカートの中には大量の野球用具が入っている。眺めているだけで楽しくなってくるから不思議だ。
「三万円以上お買い上げの方にはグラブお手入れセットかソックス三足セットプレゼントだってさ。ラッキーだな。手入れはあんまやり過ぎても意味ねーから、週一くらいでな」
 泉の言葉に「うん。あ、やり方後で教えてよ」と西広がやっぱりにこにこしながら応える。
 ショップについた途端、目当てのものが決まっている連中はわき目も振らず各々のコーナーに散っている。
 案外グラブの新規購入組が多くて、それぞれが二択、三択の長考に入っていた。
 泉自身はアンダーシャツやソックス程度しか買う予定のものがなかったので、西広の景気のいい買い物につきあうので全く問題ない。
 西広がきらきらした目でグラブをひとつひとつ手に取って吟味している姿を見ているのは結構楽しい。
 田島が目の端でバットを構えてうんうん唸っている。三橋は白球をじーっと眺めてこれまた考え込んでいるようだ。
 同じクラスの二人とでさえ、まだそこまで腹を割って話をしてはいない。他のチームメイトともなるとまだまだだ。合宿を使ってある程度まとまっておきたい算段の泉である。
 まだまだウォーミングアップ程度の練習しかしていないが、このチームはとりあえず中学の時の部活より数段手ごたえがある。気が、している。
(まあ、三橋次第だろうけどさ)
 学生野球におけるピッチャーの存在の大きさは計り知れない。同期のピッチャーの力だけで行ける場所がある程度決まる。
 正直な話、今は不安の方が強いのだが捕手の阿部がやけにかっているのは見ていてわかる。
(あいつの目が節穴じゃねーことを祈るっきゃねーな)
 泉の目から見て、はっきり「阿部は上手い」と思う。シニアの大会でかなりいいところまでいったという話もうなずけるというものだ。
 阿部はやたらこだわり派のキャッチャーのようだから、中学時代のキャリアコミであれだけ三橋押しということは、信用していいのかもしれない。
 ということは、この野球部はもしかしたら「あたり」かもしれないということだ。
(これで、もう一人ガチなピッチャーがいたら言うことねえな)
 脳裏にちらちらと浮かぶ影をさっさと追い払って泉は整然と並ぶグラブの棚を前に若干圧倒されている西広に声をかける。
「さっきからそればっかり触ってんな。気に入ったのか?」
 それは特価品よりは少しばかり値が張るグラブだった。だが、泉が選ぶとしても多分「これ」というものを、チームメイトは気に入ったようだ。
「うん、やっぱりこれにするよ」
(あー、なんか嬉しそう)
 気持ちはわかる。
 新しい道具を手にするということはそれだけでわくわくするものだ。しかも。
「もしかしてさ、人生初マイグラブか?」
「うん、当たり」
 それはそれは嬉しそうに笑う理由に、泉は納得いった。
「なんか、そんな感じしたぞ。自分の時のこと思い出した」
 泉の言葉に、西広は照れたように頭を掻く。
「あと、スパイクとバット……そっちも、初だ」
 カートを押して店内をすい、と移動する。泉は自分の分の買い物を一緒にカートに入れてもらうと横に立ってぶらぶらと歩いた。花井はいつの間にかスパイクコーナーに足止めされている。資金ぎりぎりのそれを手に入れるべきかどうか、最後の長考に入ったらしい。
「一気にほぼ全部道具揃えんのか。すっげー金持ちだな」
 すると、西広は苦笑する。
「うん。高校入ったら野球部に入るって決めてたから、今年の正月のお年玉と入学祝い全部使わないでとっておいたんだ。今、一気に使っててちょっと気分いーよ」
 頭の後ろで腕を組んで歩いていた泉は少しばかり驚いてしまう。
「受験前から野球部って決めてたのか。すっげーな。中学ん時は野球部じゃなかったんだろ?」
「中学ん時は陸上部。800メートルやってたんだけどさ。ホントは野球部かサッカー部入ろうって思ってたんだよね。でもオレの中学、野球部なくてさ」
 泉は納得半分で笑った。
「でも、サッカーじゃなくて陸上だったんだ」
「それがさ」と西広は苦笑する。
「じゃあサッカー部かなあって思ったんだよね。当然。そしたら、部活勧誘のオリエンテーションで出てきたサッカー部の先輩達がなんか強烈だったんだ」
 西広は思い出したのだろうか、くくくっと吹き出した。 訊けば、サッカー部の2年生と思しき先輩たちは全員髪を赤く染めて、浦和にあるプロチームの応援歌を延々と歌い続け、そのBGMにかき消されたりしないよう3年の部長が後ろ手でスタンドマイクに向かってなにかを叫び続けていたそうだ。
「多分、部活の紹介だったと思うけど。なに言ってるのか一言も聞き取れなかった」
 髪の赤いのは無茶なことに絵の具を塗ったのだと後から知ったそうだ。サッカー部は毎年2年生部員が髪を絵具で赤く染めてレッズの応援歌を絶唱し、3年の部長がそれに負けない声で部活紹介をするのが伝統らしい。
「さすがに、来年絵の具塗るのはやだなーと思ってやめた」
 西広につられて泉も笑ってしまう。
「やなのはそこかよ。他にもやなところ満載じゃねーかよ」
「仕方ないよ。ウチの中学のサッカー部、OBにレッズの選手が何人かいて、結構それがウリらしいから」
 言いながらもう笑いだしている西広と一緒になって、泉は大笑いしてしまう。
「泉は中学ん時、野球部だったんだろ?」
「ああ。そうだけど」
 これに決める、と西広が初マイグラブを決断したのをしおに花井が決めた集合場所に向かった。割引チラシ持ちの栄口を先頭にして会計をしなければせっかくの割引がきかないのだ。
 ちらりと見れば、グラブだけは手に持ったままで西広がカートを押しながら歩いている。
 なんだか、とてもいい気分だな、と泉は思った。と、隣を歩く真新しいチームメイトがこちらを向いた。
「野球部の先輩とかって、どうだった?陸上は基本個人競技だからさ、結局は自分との戦いってとこあるけど、野球は集団でひとつの結果を目指すスポーツだからさ、なんか違うのかなーって」
 先輩、と言われて泉がまっさきに思い浮かべる顔は決まっている。
 泉は幻を無理やり追いやると「とりあえず、新入部員勧誘でライオンズの応援歌歌ったりとかはなかったぞ」と笑った。
「それは、ウチのバスケ部もバレー部も熱唱してなかったから、チームスポーツが全部ああじゃないのはわかる」
 つられて西広も笑う。
「そうだな……尊敬してた人もいた、かな。純粋にプレーがすげーとかチームまとめる力があるとか、オレら下の人間にやさしいとか。そのへんは陸上部とかでも変わんねーんじゃねーの?」
 泉が指を折りながら数えていく言葉に、西広は何も言わずにじっと聞き入っている。
 そのせいだろうか、舌がなめらかに動く。
 気がついたら、中学の部活でもひときわ印象的だった人のことが唇にのっていた。
「ひとり……オレとはポジション違うけどさ、すげー人がいた。やっぱ上手い人っていうのはふつーにかっけーから……」
 マウンドに立つと、空気が変わる気がした。
 普段は後輩にも軽口をききすぎると、同期の先輩たちが眉をひそめるような気さくな人だった。
 泉たちの代はもちろん、さらにその下の代にも大人気で、試合の時には何人かの女の子がその人めあてで応援にきていたのを知っている。
 泉はギャラリーの数がイコールその人を称える数のような気がして、試合の度に人数を確認しては悦にいっていたものだ。
 背が高い。
 野球をするための筋肉がきれいに身体についていて、投球フォームはわりと荒削りな感じなのに球がきれいに速くまっすぐ重く、キャッチャーミットに収まる。

 そんなの、誰が見たってかっこいいに決まっている。

「ウチの野球部は実はそんなに強くなかったんだけどさ、その……先輩だけは別格だったから、たまに先発に回るとバックが超燃えたんだよな……勝てる可能性が、いつもより高いから」
「へえ……泉のチームのエースだったんだ、その人」
 一瞬、驚いて泉は西広を見た。
「あ……そう、だけど」
「どうしたの?」
「いや、別に……」
 西広の表情に他意は感じられない。
 そもそも、西広が泉の胸中など知るわけもないのだ。
 だから、大丈夫だ、と泉は思った。
「んー、そーだな。エースだったよ。少なくともその人が投げる試合って全員気合いの入り方違ったから」
「結構大きい野球部だったんだ。普通、そんなすげぇピッチャーがいたら毎試合登板じゃないの?」
「まあ……それはいろいろとあってな。やっぱり、ピッチャーは身体に負担がかかっから、ローテーション組んでやらざるをえないって感じ?」
 知らず口元に苦笑が浮かぶ。西広は泉の言葉を真に受けて「そういうもんなんだ」と納得している。
 公立中学の野球部にそんなにいい選手がごろごろしているわけがない。
 いいピッチャーがいたら、当然毎試合登板だ。
 それができなかったのには事情があった。どうしても、頼りない二番手、三番手とのローテーションを組んでやらざるをえなかったのだ。
 瞼の裏に、みんなに隠れてアイシングをしている「その人」の姿が浮かぶ。
 痛くてたまらないくせに、絶対に「痛い」と言わずに笑っている人だった。
 泉は腕を組んで頭の後ろにやった。
「音が……すっげーいい音すんだ」
「音?」
「ボール放るだろ?ミットに届くじゃねえか。その、音がさ……」

 今でも泉の耳の奥にはその人の投げるボールがミットに届いた瞬間の音が残っている。
 他のどんな人が投げたってそんな風には聞こえないのに、その人の放るボールの音はなぜか透明に響いて聞こえたから、泉はできる限り目を瞑るようにしていたものだ。
 小気味よいその音は泉の胸の奥底に刻み込まれ、永遠に鳴り響く。
 今でもずっと鳴り響いている。
 多分この先も、泉はあれよりもきれいな音を耳にすることはない。
(うっぜぇ……)
 
 それが、悔しくて切ない。
 切ないと思ってしまう自分が、一番うざったい。

 西広は何も言わずにじっと泉の顔を見ている。
 泉はわざと大きく笑ってみせた。
「まあでも、基本うぜーよ。特に一コ上の代は関わりあいが密な分、ホントにうぜー」
「でも、その人が先発の時は気合入ったんだ」
「一回だけだ……」
 泉がぽつりとつぶやいた言葉に西広が首を傾げる。
「その人が投げる試合でオレが守備についた回数。ああ、確かにすっげー気合い入ってたかもな」

 あの時はたまたまレギュラーの三年が腹を壊したおかげで、センターポジションに入っていた。
 初めて試合に出るわけでもなかったのに、その人が投げることは事前に知っていたからどうしようもないほど回転数があがっていたことを覚えている。
(もしかしたら、最初で最後かもしれねえし)
 ずっと、思っていた。
 自分がもしも、もしもあの背中を守れる機会が持てたならその時一体どんな気持ちになるのだろうか、と。
 先輩たちが、その人が投げる日は明らかに違っていた気合いを見ている。
 本人たちが意識して先発投手によって気持ちをいれたりいれなかったりしていたとは思わない。だが「勝てるかもしれない」という期待を前にすれば、自然と心が前を向くようになる。
 多分そういうことなのだと、泉は思う。
 なんのことはない、自分だって応援の声がいつもよりもトーンアップしてしまう。
 絶対のエースとはそういうことなのだと思う。
 泉もその人のことはとても好きだった。
 気さくで、後輩に対しても先輩風を吹かせたりしない。下の者の面倒を見るのが上手くていつもさりげない気遣いをしてくれている、と思う。
 そして投げれば、泉の知る限り一番速くて強くて重いまっすぐなボールを放る。
 その人が全力で投げる背中を守る機会があったなら、一体どんな気持ちが入るのだろうか。
(なんか、ホント、気合いが……)
 泉はポジション位置で震えた。
 マウンドまではひどく遠い。
 ピッチャーが果たして緊張しているのか闘志みなぎる様子なのかびびっているのか、そんな微妙な感情の機微など全くわからない。
 同じグラウンドに立っているのに、内野のど真ん中にいるその人は別の世界にいるように見える。
 それでも、もしもその人の投げたボールがこちらに打ち返されることがあるというのなら
「絶対ぇ、捕る」
 あの背中のために何かしたい。自分がしたい。
 強く強くそう思っていた。
 正位置からまっすぐその人が背負う背番号1を見ていた。

「野球はピッチャーから試合が始まって、極端に言えばピッチャーが崩れなきゃ、打たれなきゃ試合には負けねえ。基本、ピッチャーが一番でっかいもん背負うんだ。だけどもしも打たれたりバック信用して打たせたら、オレらがなんとかしてやんだよ。」
「うん……」
 西広が瞳をきらきらさせながら泉を見ている。
「……って確かにあの試合、すっげー気合い入ってたな、オレ……」
 あれがはじめての試合出場というわけでもなかった。そもそも単なる練習試合で、監督同士の交流目的じゃねーの?と笑い話になっていたくらいの、そんなタイミングのもので。上の代が引退してから大事な試合はたくさんあったし、絶好のチャンスに打順がまわってきたことだってあった。
 だが、それでも泉の中にはあの曇天の下の試合が鮮やかに残っている。
 今もくっきりとして泉の真中にあの背中がある。
「あの試合でオレ、はじめて三塁打打ったんだよなあ。ああファインプレーとかしちゃってさー、あとでジュース奢ってもら……あああ……」
 言いながら顔を手で覆ってうなだれる。西広は隣で首をかしげた。
「あれ?今そういう反応するところ?」
「ああ今、あれだ。決して取り戻せないカコのアヤマチってやつを今さら意識しちまって悔やんでるところ」
「カコのアヤマチって……今、ああ野球ってチームスポーツなんだなあとか、バックって投手に対してそういう気持ちになるんだなあとか、陸上のはそういうチームプレイの精神とはちょっと違う感じだからさ……自分との戦いっていうの?だから、オレもその内三橋に対してそういう気持ちになるのかなあとか……」
 西広は言いながら、がっくりしている泉に苦笑した。
「結構、今、感動してたんだけど。あれ?空回り?」
 泉は指の間から西広を見て「いーや、オレらは三橋のためになんとかしてやんだ。そこんとこは間違ってねえよ」とうなずいてみせる。
「そんで、間違ってなかったらなんで今、泉はへこんでんの?」
 丸めた背中をぽんぽんと叩かれる。
 その力加減と間合いがやけに上手いな、と思ったら「オレの妹、まだちっちゃいんだよね。寝かしつける時のタイミングがこれだから」となんでもないことのように言われた。
「泉はその先輩のこと、すごい尊敬してたんだねえ」
「いやその、尊敬とかってんじゃ……」
「んじゃなんだよ?三塁打打ったりファインプレーしたりとかって、その人のためになんとかしたいって気持の現れなんじゃないの?……少なくとも、今の話の流れだと」
 西広は声が穏やかで優しい。
 その声で諭すように言われていると、ますますあの鮮やかな試合の記憶がそのように確定されてくる気がする。
「それがなんか微妙なんだよなあ」
 ぼんやりとスポーツショップの店内に目をやる。一番買物の量が多かったはずの西広が一番乗りで他の連中の方が遅いとはどういうわけだ、と思った。
「えーと、微妙っていうのはアレ?たとえばその先輩ががっかりするようなことしたとか?」
「……」
 泉はまじまじとチームメイトの顔を見つめた。
 みるみる内に顔が熱くなっていくのがわかる。
「が・・・・・・!っかりってさあ!」
「な、なに?」
 顔が紅い。声がうわずる。冷静になろうと思っているのに気持ちばかりが先走っていく。
(どうして、オレはこう……!)
 情緒不安定になることそれ自体がもうムカつく。
「がっかりってさ、そりゃするよな。だってオレはやっぱあの頃はすっげーすっげーすっげー尊敬してたんだぞ?なのに、なんだあいつは?」
 西広がきょとんとした顔で泉を見ている。
「まる一年だぞ?卒業式の時に姿見たのが最後で、ずっと部活にも顔出さなくて……ああ、中学の部活引退した後も先輩たちの中で唯一顔見せなかったから実質は一年半以上か。とにかくそれくらいぶっつり切れてて、再会したらアレだなんて絶対ぇサギだ」
 入学式当日の心の惨劇を思い出して、泉はいきりたつ。
「な、なんかわからないけどいろいろあったんだね」
 西浦に進学したことは知っていたが、同級生になるだなんて聞いていない。そもそもそんな可能性を思い浮かべることすらありえない。

 それでも浜田はそのありえない状況で再び泉の前に姿を現して、そうして
「あー、まさか泉と同じクラスになるなんて思ってなかったぞ。カッコ悪ぃなあ、オレ……」
とへらへらとなんでもないことのように笑ったのだ。

「ああ思いだしただけでムカムカする」
 西広は泉の剣幕に苦笑する。
「なんか知らないけどずいぶんひどいことされたんだね」
「ひどいってか……なんだ、あれは?ホントにわけわかんね。あんまり消息不明だったからマジでなんかあったのか?って心配してたのに、やたらへらへらしてっし!」
 西広は泉の様子に首を傾げる。
「ええと、久しぶりに会ったら元気だったってこと?よかったんじゃない?」
「よくねえよ!よくねえけど……大体、あんなぴんぴんしてんだったらそういう情報くらい流しとけっての。なんか、損した……」
 言いながら自分でも何を言いたいのかわからなくなってきて、声が尻つぼみに小さくなっていく。
 西広は苦笑した。
「泉はその先輩のこと、よっぽど好きだったんだね。どんなカタチにせよ会えてよかったんじゃないの?もしかしたら県大で敵チームとしてあたるかもしれなくても、さ」
「……」
 泉ははっとして西広を見上げる。
(そっか……そうだよな)
 西広にしてみれば、先発しただけでチームメイトの士気が上がり泉が尊敬するようなピッチャーが今野球を続けていないわけがない、と思っているのに違いない。
 西浦の野球部には先輩がいない。
 だから当然、他校のピッチャーとなった「先輩」と再会したと思いこんでいるのだ。
「敵、かあ……考えたことなかったな。でも、あいつが投げてる姿をまた観れるならそれでもいいって思う」
 浜田は当時野球部がなかった西浦を選んで受験した。周囲に同じ位のレベルで野球部のある学校ならたくさんある。
 それでもあえて西浦だったことが、泉の中でずっとひっかかっていたのだ。
 野球をやっていない浜田など考えたことがなかったから、実際いきなり「今、帰宅部」と笑う浜田の姿を見ても戸惑うことしかできない。
「なぜ?」も訊けない。
「どうして?」も言えない。
 それが悔しくて、なんだかずっと消化不良気味の感情をもてあましている。
 そんな泉の胸中を知らない西広はにこりと笑う。

「夏大で見られるといいね。先輩が投げるとこ」

「……」
 泉は思わず西広を見つめた。
「……そっか」
 西浦には浜田が入ることができる野球部があるのだと教えてやるのはありかもしれない。
「なぜ?」よりも「どうして?」よりも、また浜田のマウンドに立つ姿を見ることができる可能性にあたる方が自分らしい。
 なんだか、突然目の前がぱあっと開けてきた気がする。
 そう、泉は思った。
「どうしたの?」
「なんでもねえ……誘ってみるのも、ありかなって今、思ったから」
「何に?誰を?」
「こっちの話……あー、花井、おっせーよ!なんで西広が一番先にここ戻ってきてんだよ?」
 泉は立ち上がって集合場所に三々五々集まりはじめたチームメイトに声をかける。
「あ、悪ぃ悪ぃ。西広、いいの選べたか?」
「うん。これに決めた」
「あ、見して……いいなあ、やっぱ新しいの欲しいよなあ」
「やっべ。ソックス買うの忘れてた。ちょっと待ってて」
 がやがやとうるさい連中は、泉の感触では「悪くない」と思う。
 同じ学年の新入部員があとからひょっこり入ってきてもきっと悪くはならないだろう。
(決めた)
 みんなと別れたら、そのまま浜田に連絡をいれよう。
 一人暮らしと言っていた部屋に遊びにいくのも悪くない。
 そうして「野球部に入れよ」と言ってやるのだ。
(どんな顔すっかな?)
 もしかしたららしくもなく「留年野郎の分際で……」と躊躇しているのかもしれない。
 それなら声をかけるのは泉の役目だ。
「西広、さんきゅーな」
 小さく声をかければ、田島に新しいグローブを取り上げられそうになるのを苦笑しながらもしっかり制していた西広が振り返る。
「え?」
「なんでもね。田島、子どもじゃねーんだから、よせ」
 ほんの少しだけ見えてきた明るい予感に身をまかせながらも、泉はなんとなく不安な気持ちがぬぐえずにいた。

 浜田に会いに行ったのは、それから一時間後のことだ。
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