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● わんこ募集中  ●




「わうっ」
 アイちゃんはそれはそれはうれしそうに一声吠えると、猛烈な勢いで駆け出していった。茶色い尻尾はちぎれんばかりに振られている。つまり、今ものすごくご機嫌なのだ。
「おー、よーしよし。いー子だなあ。お前は」
 そうして練習の手伝いにきた浜田に飛びつくと、ぺろぺろと顔中を舐めまわす。
 西浦高校野球部百枝まりあ監督の愛犬アイちゃんは今、恋の季節を迎えていた。
「わうっ、わうっ」
 浜田はにこにこしながらアイちゃんの頭を撫でてやっている。
(そういや、犬とか猫とか好きだって言ってたよな)
 泉はグラウンドの端で犬とたわむれる浜田を遠目で見た。
 浜田は突然の応援団結成を宣言して以来、当たり前の顔をして野球部の練習に参加するようになっていた。左右真ん中、深く、浅く、自在にノックの打ち分けができる。シートバッティングの時のランナー役の動きのツボも心得ている。何も言わずとも望む通りに動いてくれる経験者の練習参加は、監督たちにとってみればむろん大歓迎だった。しかも異様に熱心で、バイトの合間をみてはグラウンドにやってくる。
 いや、最近では明らかに生活費稼ぎよりも野球部の練習参加に熱が入っているように見えた。
 浜田がきたのはバッティング練習が終わってみんなで用具を片付け出したちょうどのタイミングだ。全員でボールを拾い集めている目の端に、恋に燃えるアイちゃんの大歓迎を受けている様子が映る。
(家で犬飼いたかったけど、アパートだからそういうわけにもいかなかったって、言ってた言ってた)
 浜田は犬派らしい。
 泉はそんなことを考えながら猛烈な勢いでボールを拾っていく。
「おー、浜田来てくれたんだー」
 隣にきた水谷が笑いながら言う。両手いっぱいに拾いあげたらばけつにあける。そうしてまた見つけて拾う。一個でも見逃せない、大事な部の備品だ。
 グラウンドの片隅ではアイちゃんが大興奮のあまり恋しい浜田を押し倒していた。監督が苦笑しながら引きはがしにかかっている。
 水谷はその様子を遠くに見て、げらげら遠慮なく笑った。
「すげー。あいつ、犬とはいえ、モテてんじゃん」
「犬だけにはな」
 泉は苦笑して、目についたところにあるボールを拾いつくすと、ばけつを持って立ちあがる。
 季節は初夏から梅雨の時期に変わろうとしている。気温とともに湿度が上がってきて、汗の量も多くなった。
「ボール、この辺に転がってんのはこれで終わりだな」
「だな。じゃ、ピッチングマシン片付けちまおうぜ」
 二人してボールが満載になったばけつを両手に持ってベンチの方に向かう。
「浜田くんにはあとで遊んでもらいなさい」
 監督がようやくアイちゃんを浜田から引きはがすのに成功して、ベンチの椅子にリードをつないでいた。
「よーす、浜田。お疲れ」
 通りざまに言うと、浜田がよだれまみれになった顔を拭きながら立ち上がる。
「っす。泉、お疲れ。水谷もお疲れ」
 泉は横目で浜田を見てにやりと笑う。
「モテてんねー。浜田、すっげーいいこと教えてやるよ。アイちゃん、メスだぞ」
「お前ねぇ……」
 浜田が困ったような顔をすると、水谷が傍でくすくす笑った。
「見ててすごかったぞ。オレ、浜田食われちまうかと思った。あーでも、万が一監督の犬に浜田が食われたら、あれかな。問題になんのかな?」
「てか、監督の犬じゃなくてもそんなことになったらフツーに大問題だろ」
 ボールの入ったばけつをベンチ前に置いてしまうと、泉は水谷と連れ立ってピッチングマシンの方に向かう。
「あ、マシン片すの、オレも手伝う」
 浜田が二人の間に割って入ってきた。泉の肩を抱くようにして一緒に歩きだす。
「てか、てめーはそれよかちゃんとアップしとけよ。片付け終わったら多分すぐ守備練だから。浜田いるんだったら、監督がバッテリー組の面倒みるんだろうし」
「そんなつれないこと言うなよなぁ。手伝うって言ってんのに」
 肩に回されていた浜田の腕がぐい、と泉の首に巻きついてそのまま引きよせられる。
「暑っちいよ、くっつくな」
 肘鉄ではがそうとすると、浜田は心得たものでぴったりくっついて肘を使わせようとはしない。そうしておいて「えー、つれないこと言うなよぉ」と若干、オネエがかった作り声でますます泉の身体を抱き寄せてくる。
 バッティングで汗をかいた後のほてった身体に、浜田が密着してくる。
 汗のにおいがふわりと舞った。
「浜田離せ。キモい」
「やーだー」
 水谷は自分が巻き込まれてはたまらないと笑いながら、さっさと「オレ、コードさばいてくんねー」と、延長コードの巻き取りに向かってしまった。
 機械自体は二人一組で押してグラウンドの隅の用具倉庫に持っていく。
 大事な備品は軟式野球部時代から引き継いだものと、監督が大枚はたいて買ってくれた新しいのと二台だ。どちらが欠けても練習にならなくなるから、取扱いにはことに注意を払っている。
 がたがたと機械を押し入れながら、浜田が尋ねてくる。
「バッティングの調子、どうだ?」
「結構、いい。てか、最近毎回きっちり振り抜くことを意識するように心がけててさ、そしたらちょっと抜けた感じがすんだよな」
 夏大初戦の相手が去年の覇者桐青高校だとわかっても、基本的なバッティング練習の内容は変わってはいない。ここのところの練習試合で、打順が一番にほぼ固定されるようになってきたのは、出塁率があがった証拠のように泉には思える。
 実際ここのところの打撃成績は目に見えて上がっていた。バッティングの好調に後押しされるかのように、守備も調子がいい。
 泉の心の声が聞こえたかのように、浜田はうれしそうに言う。
「おー。そりゃよかったな。試合が楽しみだぞ」
 用具倉庫の中は、野球部以外にもラグビー部やソフトボール部の備品も収められていて、手狭ではあるものの、結構綺麗に整理整頓されている。
 埃っぽくて薄暗いその中の一番奥。野球部に割り当てられている場所に機械を押していく。ちゃんと考えて入れないと二台目や延長コードのリールが上手く収まらなくなってしまう。結構コツがいるのだ。
 外は真昼だというのに、用具倉庫の中は薄暗い。他の部員たちの声も別世界のもののようにしか聞こえない。
 しかも、二人きりだ。
(あ……ちょっと、まずい、かな?)
 一瞬、泉は空間の状況を意識した。
「泉……」
 浜田の声がいきなり近くで聞こえて、泉は思わず身をすくめる。
 と、いきなりすぐ後ろで吹き出す声が聞こえた。
「ばーか、いくらなんだって練習中に襲ったりしねぇよ。てか、二人きりになったからって即キンチョーしてるなんてヤラしーぞー」
 振り返ると浜田がにやにや笑っている。薄暗がりでほとんど表情も見えないが、泉にはわかる。
「してねーよ、何決めつけてんだよ。そんなこと考えるてめーの方がヤラしーっつんだよ」
 浜田の顔を掴んでやろうと手を伸ばしたら、逆に手首を掴まれた。
 そのままぐい、と引き寄せられる。
「……っ!」
 唇が、風のようにふわりと唇に触れ、そしてすぐに離れた。
「泉―っ!浜田もマシン入れたらさっさと外出ろよ。お前らが中にいたら二台目入れらんね」
 阿部が用具倉庫の入り口のところで突然叫んだ。
 はっとして見れば、二台目のマシンを押してきた阿部と西広がいる。
(今の、見られ……っ)
「大丈夫だって。角度的に絶対見えてねぇよ」
 浜田が耳元に口をよせると、素早くそう言って振り返る。
「ああ、悪ぃ、悪ぃ。なんか奥でつっかかってさ。今、外出るから。二台目入れて」
 そうして何もなかったかのように泉を置いて外に出てしまう。
「なんだよ、ちゃんと入れたのか?じゃねえと入らねえんだよ」
「大丈夫、大丈夫」
 浜田の言った通り、阿部たちからは、今のキスは見えなかったらしい。眩しい表ではごく普通の当り前のトーンで会話が繰り広げられている。
「何に突っかかったの?他の部活の備品だったら、あとでちゃんと言っておかないと」
「あー、なんかわかんねーけど、ボロ雑巾みてーなやつだったから、どこの部活のモンかはちょっと不明だな」
「それなら少なくともウチじゃねえのは確かだな。やっぱ一言いっとくか?」
「いやあ、二度目があってからでいいんじゃね?出所がはっきりわかるようなモンじゃなかったんだし」
(なにが、ボロ雑巾だ。うそつきめ)
 泉はと言えば、いきなり盗まれたキスと、間一髪でチームメイトに現場を押さえられるかもしれなかったスリルにまだ硬直が解けない。
(あの野郎……)
 キスは、いい。
 キスをすること、それ自体はもう許している。許しているというか、嫌いではない。むしろ、好きだ。
(浜田の野郎……)
 だが、いくらキスが好きだといってもそれは無論、時と場合による。
 今はちなみに、最悪のタイミングだ。
 これからノックを受けるのだ。ふらふらになるまでボールを受けた後には、ランナーありのグラウンドを想定したシートバッティングがある。監督が常に求めることは「今、何をすべきなのか、常に考えろ」だから、すごく頭を使うのだ。
 最終的には場面に応じて身体が勝手に動くレベルにまで磨き上げることが目的だというのもわかる。あえて、疲労している身体で頭を使う練習をするのはそういう理由からだ。
 自分が選んだ高校野球のクジは多分、最高だったと泉は思う。
「泉、顔紅いよ?こういう日はかえって脱水症状起こしやすいから、ベンチ戻って水分補給してきた方がいいよ」
 すれ違いざま、西広にそう言われて「あ、ああ……さんきゅ」と生返事した。
 突然キスされて顔が赤らんでいるだけだとはもちろん言えないから、チームメイトの気遣いにはなんだか申し訳ない気分になってしまうのは仕方がない。
(何もかも、浜田が悪い)
 責任の所在ははっきりしている。
 泉は駆け足でベンチに戻る。西広に勧められた通り、タンクからアクエリアスをプラカップに注ぐと、一気に飲み干す。ぐい、と腕で口元をぬぐうと、もう一杯。今度は喉を湿らせるようにして一口。
「あ、オレも欲しい」
 背後からすーっと手が伸びてきて、泉の手からカップが奪われる。
「そこに未使用カップがあんのが目に入らないのか?浜田、自分で注げよ……!」
 右肩にしっかりと手が回され、反対側の肩に浜田の頭がのっかる。そうしてそのままの姿勢で、泉の飲みかけのアクエリアスは浜田が喉を鳴らして干した。
 飲み物が嚥下されるのどの動きがやけにリアルに触れあったところから伝わる。
 泉は目をぎゅっと閉じた。
「間接キス……」
 言うだろうと思っていた単語がそのまま耳元に囁かれる。
 時々、浜田はロックが外れたように大胆な行動に出る。いや、はた目からはそうは見えないかもしれないが、泉にとっては心臓に悪いことばかりをしたがる日がある。
 たとえば、今日だ。
 浜田の手が、何気ない風を装って泉のむき出しの腕の内側をなぞった。
「わうっ」
「っ!」「わっ!」
 ベンチの柱に繋がれたアイちゃんが、それはそれは恨めしそうな眼をしてこちらにひと声吠えた。
 泉ははっとして、浜田の頭を思い切りはたく。
「やりすぎだ、ばか」
 手加減などもちろんしなかったから、浜田は頭を押さえて「痛ぇなあ。ばかになったらどーすんだよ」とぶつくさ文句を言った。
「大丈夫だろ。それ以上ばかになろうと思ったら、あとは場外しかねえよ。たとえ浜田だって、なかなかその境地にはたどり着けねえよ」
「そりゃまた、うれしいような、そうでもないような……」
 浜田のことは放っておいて、助けの手を差し伸べてくれたアイちゃんに礼を言おうと、泉はかがみこむ。
「うぅぅ……」
「え?」
 誰にでもよくなつくから番犬にはならない、と言われている監督の犬が小さく唸って泉に威嚇の姿勢をみせる。
「オレ、もしかして……嫌われてんのか?」
 特に嫌われる様なマネはした覚えがない。だが、相手の方は明らかに泉に対して敵意をむき出しにしている。幸いにして監督の躾が行き届いているため、吠えたてられこそしないものの、不用意に触れればぱっくり噛みつかれそうな勢いだ。
(なんか、ちょっと……ショックだ……)
 なんとなく間合いを詰めることも空けることもできなくて、わんこと睨みあう。
「お前、何やってんの?」
 ひょい、と浜田が顔をのぞかせる。とたんに、目の前の難攻不落の敵は尾っぽをぎゅんぎゅん振りはじめる。
 泉は口を開けて浜田に振りむく。
「なんだ、あの極端なリアクション差は。オレ今、うなられたんだぞ?」
「あー、オレ、愛されてっから」
 浜田はなんてことないとそう言って、アイちゃんの頭を抱きしめて、ぐりぐりと撫ではじめる。浜田不足をここで一気に解消しようとでもいうのか、ご機嫌なわんこは、遠慮なく身体をすり寄せて甘えまくっている。
「ほら、オレをはさんだ恋敵だろ?お前とアイちゃんは。あー、でもオレ的には泉だから安心しろ」
 いけしゃあしゃあと、そんなことを軽く言ってのける。今日の浜田は本当に油断大敵だ。
「そういうこと、軽々しく口にしてんじゃねえよ」
 泉の声を無視して、浜田は監督の犬を熱心に撫でてやっている。
「お前はホントかわいーなー。好きだって言ってんだから、誰かさんもこの百分の一でいいから甘えてくれたらうれしーのになー」
 その言い草に少しだけ、キレる音が自分の中で聞こえた。ちゃんと成立しているはずなのに、時々浜田との相性を疑ってしまうのはこんな時だ。
 泉としては、誰にもヒミツにすることで大事にしようと思っているのに、浜田は違うらしい。
 その感覚のずれにいらだつ。
「あーりえねー。そーゆーのが欲しければそれこそオレなんかやめて犬にしとけっつの」
 泉は吐き捨てるように言うと、そのままベンチを出てしまう。
 キャップを外して、指でくるくると回しながら、空を見上げる。曇天の空模様は、面白くない泉の気持ちとイコールのように思えた。
(オレは、ばかか?)
 みんながマシンやネットを片付け終えて戻ってくる。泉はひとり、背後のベンチを気にしながらそう思う。
 ほんの小さなことにすぐにいらだち、心が揺れる。浜田は単に泉をいじって楽しんでいるだけだろうに。
 自分ばかりが揺れている気がして、すぐキレる。
 こんなはずではなかったはずなのに。と、ぐだぐだ考えているのがイヤだ。
「バッテリー組……三橋と阿部と、沖と田島、それからオレは投球練習。残りは守備練習だ。今日は三時から外野がラグビー部の練習で使えなくなるから、最初は外野な。その後で内野だ。いい感じで疲れたあたりでシートバッティングやるぞ」
 花井の声に従って、泉は自分のグラブを手に外野に走っていく。
「浜田のノックってすげー走らされるから、きちぃんだよなあ」
「言えてる」
 水谷と西広の声を聞きながら、最初は正ポジションであるセンターへ走る。
「最初はフライから!センター!」
 小気味のよい音とともにボールが飛んでくる。泉はライト寄りぎりぎりセンターの守備範囲という絶妙なところに飛んできたボールに向かって走った。捕球をしてすぐに内野に向かって投げ返す。その時にはもう、ライトにボールが飛んでいて、ホーム上ではレフトへのノックの準備が整っている状態だ。
 浜田のノックは、テンポがいい。
 泉は捕球した守備位置で次のボールを待つ。と、案の定今度はレフトぎりぎりのところにボールが飛んだ。アメリカンノックは監督の指示に違いない。
(あんなことくらいで、ムカつくとかって、ばかか?ばかだろ?)
 浜田が大喜びで監督の犬をかわいがっていて、だからそれがどうしたというのか。監督の犬が恋敵を察して泉に威嚇してきたからってそれがなんだというのか。
 いや、違う。
 浜田が、泉に「もっとかわいければいいのに」とかなんとかあてこすりをするからだ。
 泉は無心にボールを追う。
 試合がもちろん一番楽しいのだが、正直泉は守備練習が結構好きだ。音が聞こえた瞬間にただ無心に走るその空っぽな感じがいい。
 実際の試合では一度にたくさんのことを考えながら走らなくてはいけないから、この無心の楽しさは練習の時にしかありえないのだが。
 ぎりぎりのところをグラブですくいあげ、そのままダイレクトで内野に戻す。
「ナイキャ!泉ぃ!」
 浜田の声が聞こえて、なんだか気分があがる。
 浜田が、先輩で同級生で、そしてそれだけではない存在になったのはつい最近のことだ。
 多分、男同士であることの方が、種族を超えた恋よりは分がいいはずだ。多分。目下のわかりやすい恋敵はメスなのだが。その点は問題ないと思う。間違いなく。
 だが、浜田が求めるようなかわいげを、自分はもてそうもないことなら泉だってとっくに気づいている。
「ラスト一球!走れ、泉ぃ!」
 浜田の声が聞こえる。左右に揺さぶられ、それでもさっきの発言がムカついているから「絶対、落とさない」と意地になってボールを追いかける。
 目を切って、外野の深いところまで走っていく。振りむきざま、落下点に入り、全球落球なしでキャッチ成功した。周囲からぱらぱらと拍手が起きる。
「すげーぞ、泉。お前今、フリスビー犬並みだった」
「今の追いついたのはすごいよ!」
 水谷と栄口が交互に称賛をくれる。泉は息を切らせて片手を上げる。
「続けてゴロ行くぞ!」
 その声に、グラウンドの全員がはっと身を引き締める。きれいに打ち分けられるヒット性の当たりにくらいついて行く。
 浜田のいいように走らされる自分は、なるほどフリスビーを必死になって取りに行く犬みたいに見えているかもしれない、とふと泉は思う。
 監督のノックと浜田のと、どっちをどうと区別して受けているつもりはないのだが、なんとなく浜田の打球だけは絶対に「落としたくない」とむきになっている自分なら知っている。
 結構オニみたいな打ち分けをする浜田だが、ファインプレーには惜しみない称賛をくれるのだ。
 それはなんだかくすぐったくてうれしい。認めさせた、という気になるのも悪くない。
(絶対ぇ、オレ、道踏み外したよなあ)
 まず、思考回路がおかしなところに繋がったきり、元に戻らなくなっている。おかしいことに気づいていても、何が正しいことだったのかがもう見つけられない。
 しかも。
 はじめて迎えているこの時間は案外甘くて、泉は戸惑う。
「次、内野!」
 マスターの言うがまま、泉たちは走って内野の守備につく。泉にとって外野は正ポジションだが、内野は栄口や巣山たちの方が圧倒的に分がある。正位置以外、誰に何が起きても大丈夫なようにと、それぞれ複数のポジションを練習しなくてはいけないのは部員の少ない西浦ならではのお家事情だが、それは同時に自分以外の人間のポジションの役割を否応なく意識させられて、実際のプレイの連携でも生きている気が泉はしている。
「泉ぃ、てめ、もうちょっと考えて捕球しろよ。さっきのナイキャ、これで帳消しな!」
「はいっ!」
 ノックをしている時の浜田は紛れもなくオニだ。おまけに支配者でもあるから、まるで調教を受けているケモノのように従わなくてはならない。
「西広、ファーストはまず、ベースを踏んだ状態でキャッチすることを意識しろ。唯一の得点圏外のベースだからな。なるべくここで刺したいだろ?」
「はいっ!」
 だが、浜田は単にオニの支配者というだけではない。
 困ったことには、飴とむちを使い分けるタイプのマスターだから、昔から後輩人気が異様にあった。
(ホント、たち悪ぃったらねえよ)
 ファインプレイをすればほめてくれる。何がうれしいかといって、野球でほめられることほどうれしいことはない。
 浜田のほめ方は、絶妙だと泉は思う。
「サード!」
 浜田の声に身体がびくりと反応する。
 鋭い打球が一直線に飛んでくる。抜ければレフト前ヒットというボールを、泉は横っ跳びで掴むと、ショートに入っていた巣山にそのままトスをする。
「ナイキャ!」「今の判断いーぞ、泉!」
 ぱっと立ち上がると、浜田がホームで確かにこちらを向いてにやりと笑った。
「……」
「ナイス、泉。サード本職みたいだ」
 トスを受けた巣山が声をかけてくれる。西浦の正三塁手は田島だ。同級生の溢れる野球センスを知っている身としては、その称賛は余計にうれしい。泉は軽く手をあげて応えた。
 なんでもないことのように振る舞ったものの、我ながら、今のはすごかったと思う。もちろん、試合ではなく練習だから基本的に捕れないボールは来ない。だが、浜田のボールはかなり際どいところをついてくる。気を抜いていると、あっという間に罵声を浴びることになるのだ。
 監督といい浜田といい、全くしゃれにならないノックをする。だが。
(てゆーか、今日はなんか……)
 かすめるように奪われたキスの効果か、それともさっきの間接キスか、あるいは「好きだ」と声に出して言われたおかげか。
 泉は頬がかあっと熱くなるのを感じた。
(絶好調、とかってーの?なんだ、それ?)
 浜田自身は泉に向かっては何も言わずに「セカン!」と叫んでボールを打つ。
(……ホントに)
 泉はグラブを小さく、ぎゅっとつぶした。あごにつたった汗を反対側の腕でぬぐう。
(絶妙だな、ばかのくせに)
 心臓がどくどく鳴っている。何も言わないで、小さく笑っただけなのに、泉が欲しかったものを全部足してもまだ余る。
(そんなん、もう一回笑わせてみてえじゃねえかよ)
 ごほうびのために野球をやっているわけじゃない。だが、笑ってもらえただけでこんなにうれしいなら、やる気が出てしまうのは仕方ないと泉は思う。
「よし、来いっ!」
 腹の底から声を出せば、浜田は今度はさっきとは裏腹な高い高いフライをあげた。



 今頃グラウンドでは投球練習に入っていた五人がまずはメインになって内野の守備練習が行われているはずだ。
 今日は、マネージャーに桐青のビデオチェックに専念するようにと監督が指令を飛ばしたため、自分たちの世話は全てセルフでやらなければならなかった。
 空になったタンクの補充は、じゃんけん一発で泉が一番に負けた。要補充のタンクは四つあるから、本当はもう一人負け組が出るはずだったのだが、
「あ、よく考えたら練習の手伝いで来てんだからオレが行くべきだよな」
と、浜田が自主的に手をあげたのだ。自ら名乗り出たものを遠慮するような連中は野球部にはいない。
(あー、なんつーか……)
 みえみえだと思ったが、気持ち的にはあがってしまうのだから始末に負えないと泉は思う。
 二人してタンクを提げて校舎まで走ってきた。土曜日の午後、校内はほとんど人が残っていない。氷のある数学準備室も無人で、預かってきた鍵を使って中に入った。
「やっぱさー、浜田のノックはえげつねーよなー」
 二人で麦茶を作りながらの泉の指摘に、浜田が笑う。
「けど、今日泉、絶好調だったんじゃね?ノーエラーはすげーよ。オレ、何球かしくってんのに」
「あー、てめ、やっぱそーか!」
 いくつか「いくらなんでも厳しすぎる」と思ったボールを泉は思い出す。
(でも、捕ったけどな)
 余計に機嫌がよくなるのを泉は感じた。
「ごほうび、やろーか?」
 浜田が言うから上機嫌のままで「おー、くれくれ」と応える。と、隣で忍び笑いが漏れる。
「何笑ってんだよ」
「いや、オレ的には泉って基本、ネコ系だと思ってんだけどさ、時々なんか……」
「なんだよ」
 顔をあげると、今日二度目の唇を唇に感じる。
「なんか、今、ご機嫌で尻尾振ってるように見えた」
 正直言えば、浜田の言う『ごほうび』の正体なんかみえみえで、誰の目も耳もない数学準備室なんて格好の場所だなんてことはわかっていた。わかっていて、しかもわかりやすい態度で「くれ」と言った自分はやっぱり見え透いているのかもしれない、と泉は思う。
 キスは好きなのだ。そして今はさっきの用具倉庫とは違って、そこそこ悪くない場所だと、泉だって思っていた。
 浜田が一緒に来る、と手をあげた時からわかっていた。
 そんなの、全部筒抜けだったに違いない。
 だがそれでは悔しいと泉は思う。だから、逆襲の一噛みだけはしておくことにした。
「……わん」
 浜田の目を見たまま、そう言った。
 泉のたった一言に、みるみる内に浜田の顔が真っ赤になる。
「お前、そーゆー落差は反則じゃねえの?」
 準備室を出たらもちろんモードは切り換えるが、でも、これで、ごほうびの追加は多分、ばっちりだ。
 大体、かわいいわんこに逆らえるマスターなどこの世には存在しないと決まっている。
 わんこの皮をかぶった泉は、すました顔で内心「オレよか浜田の方が犬っぽいぜ」と快哉をあげる。
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