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● 家族の肖像〜父、帰る  ●




 最近息子の帰宅がやけに遅いらしい。
 今日だってそうだ。
 時計の針を見ればもう十時近いのにまだ家に帰ってきていない。いくら高校生になったからといって、あまりにも容認しすぎるというのもいかがなものか。
「仕方ないのよー。部活だから」
 妻はのんびりと、そしてうれしそうにそう言った。
「ずいぶん本格的な野球部なんだな。公立なのに。お前だって負担大きくて大変なんじゃないのか?」
 息子は帰宅は遅いが出かけるのは早い。
 毎朝、暗いうちから朝練だと言って学校に行っているらしい。妻は毎朝その時間までに特大の弁当を二つ作らなくてはならないのだと、やっぱりうれしそうに言った。
 そのおかげで私は毎日息子のおこぼれ弁当を会社に持っていけているわけだが。
 あいつの弁当箱は私の倍はある。それをさらにふたつ。
 驚異的だ。
「なんだあのでっかいの二つも食ってんのか、孝介は。その割にはあんまり身長伸びないなあ」
 どうもその栄養は身長には結びついていないようだ。
 家系的にはもう少し上背があってもいいはずなのだが、孝介は未だに私の背を追い越してはいない。
「野球部の中でも小さい方だろ?孝介は」
「るっせーなあ。オレのせいじゃねえよそんなこと」
 背後に次男が立っていた。
「あら、おかえりコースケ。お父さんにただいまって言いなさい」
「……ただいま。おふくろ、風呂は?」
「沸いてるわよ。お兄ちゃん、帰ってくるかわかんないからあんた入ったら種火消しちゃってよ。その間にご飯あっためとくから」
「あー」とか「うー」とか生返事をしながら、件の弁当箱をふたつ、シンクの洗いおけに出してつけている。
 やっぱりひいきめに見ても小柄な身体だ。今の部活に先輩はいないそうだが、野球部の他の部員たちと比べてもそれほど秀でた体格ではないことは明白だった。
 親としてはまだ手元にあるような錯覚ができてちょっとうれしいのと、同じオトコとして心から励ましたいのと半々である。
 なんとなく口元に笑みが浮かんでくるのを押さえながら、つとめて冷静に言ってみた。
「あー、でもあれだな。体つきはちょっとがっちりしてきたんじゃないのか?」
「身長は伸びてないよ、悪かったな。これでも春先より2センチはいけてんだ」
 完全に機嫌を損ねたらしい。難しい年頃にデリケートかつ深刻なネタを不用意にふった自分を反省する。
(成長したなあ)
 身長はともかく、こういう話題が気持ちに直結する年齢になったのだな、と思った。
「孝介、まだ大丈夫だぞ。父さん、実を言うと高校二年の夏まで160届いてなかったから」
 戸口のところで孝介の肩がぴくりと反応する。
「マジ?」
「マジだ」
 振り返った息子の目は真剣そのものだった。
「確か、兄貴もそんなじゃなかったっけ?」
「お兄ちゃんはそうねえ……一年生の終わり頃からいきなり身長伸びたわね。仕方なくて二年の春に制服一回作り直したもの」
 あれは大誤算だったと妻が言うと、にわかに孝介の目がきらきらしてくる。
「親父、身長いくつだ?」
「178」
「そっかー。兄貴も結構あるよな、よし!」
 小さくガッツポーズをして風呂場に消えていく息子を見送ると、扉が閉まる音を確認してから吹き出す。
「笑ったらかわいそうよ。コースケには深刻な問題なんだから」
 妻はいつも次男の味方だ。
「いやあ、うちの息子はいい子に育ってるなあと感動しているとこだよ。まだまだ子どもでオレはうれしい」
「あら?そうかしら?」
 妻は暖めた煮込みハンバーグを食卓に並べながら微笑んだ。
「なんだ?どういうことだ?」
「あの子、今好きなコいるわよ、絶対。もしかしたらもうつきあってるかも」
「え……」
 ものすごく自信ありげに妻が笑う。
「証拠とかっていうのはないんだけどね。なんだろ、携帯メールを時々ものすごい顔で見てるから、コースケ」
「ものすごい、って」
「だから、ものすごい、よ。顔紅くしたり、ぶつぶつ文句言ってるのに顔がにやけてたり。あれは好きなコとメールのやりとりしてんだって思うわ」
「おい、野球部って、フジュンイセイコウユウとかってまずいんじゃないのか?」
 一瞬いすから立ち上がり、風呂場に問いただしにいこうかとあわてた。
 もし事実なら相手の女の子には誠意を持って接するようにと言った方がいいのだろうか。父親として。
「どーでしょ?でも、なんか最近のコースケ、ちょっとかわいいからいいおつきあいできてんじゃないの?」
 かわいい息子に虫がついたわりには妻は冷静だ。
「そんなこと言って、もしも妙なのにとっつかまってたりとかしたらどーするんだ?」
「アナタ、コースケのさっきの格好見てなかったの?泥だらけの擦り傷打ち身だらけ。服装だってダッサい、あのまんま。朝なんか髪の毛はねまくってても平気で学校行っちゃうのよ?あれでタチ悪い女にとっつかまってるわけないわ」
 妻ははっきり言い切った。
「……確かに、ぼろぼろだったな」
 だが、いい表情をしていた。毎日が充実しているのだろう。なんだか、我が息子ながらまぶしいとさえ思った。
「どうも真剣みたいだし。ま、そのうちつれてくんでしょ。アタシはその時にじっくりダメだしするから今はいいの」
 妻は余裕の笑みを浮かべる。
 長男の最初のカノジョの時は、結構取り乱していたが次男には経験値が積みあがった分、冷静になるのだろうか。
 確かにしっかりした息子だと自負しているが、若干不安だぞ、オレは。
 妻は丼にご飯を景気よく盛ったところで、Tシャツにスウェット姿の孝介が入ってきた。
「親父、やっぱり決め手は牛乳か?」
「まあ、結構がんばって飲んだな、オレは」
 妻の「なんでもバランスよく食べることが大事なんじゃないの?」という助言は無視して、息子は冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、直接口をつけてごくごく飲み干していく。
「直接口つけないでよ、コースケ!」
「全部飲んだんだからいいだろ?」
 口元を拭うと、用意されていた食卓につく。対面の座席であっと言う間に大量のおかずとご飯がたいらげられていく。
 どうしようか。やっぱりここはひとつ一言いれておくべきか?
 自分も通り過ぎてきた道だ。男子高校生の頭の中身なんてわかりすぎている。孝介が無軌道な若さに身を任せた挙句、相手の親御さんに土下座するのはともかく、孝介がおつきあいしている女の子の心に生涯消えない傷を残すわけにはいかない。
 妻がおかわりのみそ汁をよそいに立ったのをしおに「孝介」と切り出してみる。
「んー?」
「ちゃんとこっちを向きなさい」
 大事なことだから、ここはがつんと言っておくべきだ。
 素直に箸を止めた息子に、ひとつ咳払いをして切り出してみる。

「いいか、孝介。女の子っていうのはデリケートなものなんだ。自分勝手な理屈で相手を傷つけたりするんじゃないぞ」

 我ながらいいことを言った。

「……はぁ?親父、なに言ってんだ?」

 たっぷり五秒はあった沈黙のあとで、孝介は大きな目をぱちくりさせながらそう言った。
「え?だから、女の子は……」
「意味わかんね。最近まともに話した女って、マネージャーと監督くらいだぞ、オレ。なんか勘違いしてね?」
 あれ?
 顔をあげると渋い表情でこちらをにらみつけてくる妻が、孝介の前に椀をおくところだった。
「わかった。お袋だろ、よけいなこと言ったの。勘弁してくれよ」
「あらでも、あのマネージャーの子、かわいいじゃない」
 孝介は天井を向いて少し考えると、一言「ない」と言い放った。
 つまり、可能性はないということだ。
「……あれ?違うのか?」
 父親の威厳失墜の危機より事実確認に努めようとしたものの、息子はもう返事をしてくれない。
 さみしい。
 それっきり、沈黙が落ちた食卓であらかたのものを食べ尽くすと次男は「ごっそさん」と席を立つ。
 さっさと食器をシンクに運んでいるあたり、中学の時よりだいぶいい感じがする。これが部活効果ならありがたいことだが。

「孝介、父さん初めてのカノジョは高一の時だったぞ」

 そのまま部屋に戻ろうとする息子の背中にそう言うと振り向かずに一言返ってきた。

「まあ……二人には悪いけどカノジョはいないから、オレ」

 なんとなく含みのあるものいいをすると「おやすみ」と逃げるように去っていく。
「あれはなんだ?好きなコはいるっていう意味か?」
「お父さんがよけいなこと言うからコースケ怒っちゃったじゃないの。まだきっと告白までいってないのよ」
 息子に全否定されても妻は孝介に誰か意中の人物がいることを譲ろうとはしない。
「そうか?でもなんか違うような……」
 最後のひとことがなぜかひっかかる。
 と、妻がふいに「ふふふ」と笑った。
「なんだよ」
「アナタと孝介があんなに会話してるとこ見たの久しぶりだわあ、って思って」
 言われてみれば、確か高校合格のお祝いに食事に行って以来かもしれない。
 にわかに反省の心が頭をもたげてくる。
 もっと息子との会話を心がけるべきだろうか。父親として。
「ね、コースケの試合、一度観にきなさいよ。あれで結構かっこいいんだから。応援団もちゃんといてね。団長さんはアナタも知ってる子よ。ほら、リトルの時にやたらコースケが信奉してたコがいたの覚えてない?」
「……ああ、なんとなく覚えてる。なんかチームにすごい投手がいるとかなんとか大興奮で言ってた、あのコか?へえ……名前なんだっけ?」
 ハマダ、という名前を聞いてもどうもぴんとこない。
 思い出すのはまだ幼かった息子の興奮して頬を真っ赤に染めた顔だ。
(オトコがオトコに惚れる、って感じだったな、ありゃ)
 野球に本気で打ち込んでいったのも、たぶんあれがきっかけだったはずだ。
 ハマダ、という少年はそれほど孝介にとって衝撃だったのだろう。

 自分の生き方を変えられるほどの出会いは、人生に何度もあるわけではない。ハマダくんは、思えば孝介にとって初めての相手だったのかもしれない。

 そんな相手が今、部の応援団長をしてくれているというのはすごい縁だ。
 親として、そういういい縁はぜひとも一生涯つないでいってほしいと思わざるを得ない。

 ほんの数年前のことだが、確かにあのころは孝介ともよく話をしていたし、きらきらした目でバッターボックスに向かう息子の姿を見にグラウンドに足を運んでいた。
 次男はまだあの頃と同じ顔をして、野球の試合に臨んでいるのだろうか。

「……次、試合いつだ?」

 尋ねた私に妻は笑って、冷蔵庫に貼ってあったカレンダーを持ってきてくれた。
 
 そういえば、さっきの意味ありげな孝介の言い方がまだ少しだけひっかかっている。

 あれは、一体どういう意味だったのだろうか。
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