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● ことり注意報  ●




 世の中はバレンタイン一色だ。
 各教室、そこかしこで女子が集まっては神妙な表情で編み棒を動かしている。あれはきっと明日のその時に、好きな男にチョコレートと共にそっと差し出されるものに違いない。
 そういう一生懸命さを(かわいいんじゃね?)と思う心が浜田にはある。
(まあ、オレは関係ねーけど?)
 ただ、彼女たちが一生懸命になっている相手の男を「うらやましい」とは思わなくなった。
 浜田の場合根本的な部分の問題で、バレンタインに恋人からチョコレートだの手編みのなんとかだのをもらうなんて、考えられない。
(いやあ……チョコレート位なら罰は当たんねーと思うんだけど、まあ……それ以前に泉だし?)
 真心こめて絶賛恋愛中の相手が男で、なおかつ泉孝介ならば、バレンタインの土曜日はよくてロードワークをご一緒に。というところだ。
 そこに色気は皆無である。
(それでも、一緒に走ったりできればいいんじゃね?)
 そんな妄想に夢が膨らむあたり、きっと他人が見たら十分以上にかわいそうな男になってしまった。
 後悔は全くない。
 二年目に向けた身体作りに余念のない泉は、四月になったらやってくるだろう新入部員にレギュラーをやるつもりはないらしい。最近ますます練習熱心で、その分つきあいが悪い。
 まあ、その辺りは問題ない。
 泉が野球をしている姿を応援するのは、浜田にとってうれしいこと以外の何物でもないのだ。
 浜田は野暮用で出かけた二年の教室からぷらぷらとバレンタイン間近の校内をそぞろ歩いて一年のフロアに向かう。
 途中の廊下で見知った顔に出くわして、片手をあげた。
「……っす。栄口。次の時間、地理なのか?」
 監督が絶大な信頼を置く西浦の二番は、目の前の地理準備室から大きな地図を二本も抱えて出てきたところだった。浜田を見かけるとにっこり笑って、軽く会釈する。
「地理だよー。もう一人の日直とじゃんけんして負けたんでこれひとりで運ぶはめに……」
「ありゃー、でもオレは手伝わないぞ?」
「いやいやいや。期待はしてないから」
 浜田は苦笑する栄口の腕から、それでも一本巨大な地図を引き取って、二人並んで歩きだす。
「肉まんでいいぞー」
「それは運び賃的には結構高いなあ……」
 栄口はくすくす笑った。温厚なセカンドは、断固として賃金交渉に応じる構えはないらしく「そういえば、ずっと訊きたいことがあったンすけど」と、瞬時に話題を切り替えてくる。
 策士だ。なかなか侮れない。しかも。

「もしかして、なんだけどー。泉ってひょっとしてカノジョとかできたりしてない?」

「カ?」
 思わず大きな声をあげそうになって、浜田は慌てて息を呑んでこらえる。
 敵はどうやら試合巧者だったようだ。いきなり先制された。
(あれ?泉、バレてる?オレらのこと、つつぬけ?)
 人目をはばからなくてはいけないという一身上の都合はあれど、一応泉とラブラブな恋人同士といえば、浜田自身をおいて他にないだろう。つきあいはじめてまだ日は浅い。だが、それだけにアツアツだ。最近泉はつきあい悪いが、アツアツだ。
 浜田としては世界中に大声で恋人のことを自慢したい気持ちはあるのだが、なかなかそういうわけにもいかない。下手になにか知っているふりをして墓穴を掘るのもなんなので、ここは、シラを切ることにした。
「いやあ、カノジョなんて聞いたことねーよ。なんだ?いるのか?泉に?」
 と、栄口はあたりをきょろきょろと伺うと、それはそれはいやらしい顔をした。ちょっと意外だ。
「……オレはもう名前まで特定してンだけど。浜田さんも知らないなんて、ちょっとユーエツカン」
「な、まえ……?」
「知りたいでしょー?」
 一瞬ぎくりとする。名前バレまでしているのなら、それはまずい事態だ。だが、その割に当事者を前にした栄口のヨユウっぷりはありえない。
「そう……泉、ここ半月位、練習終わるとコンビニもよらずにさっさと帰るんだよねー。それで、オレら、なんかアヤシーって言ってて」
(……あれぇ?)
 練習終わりに泉がさっさと帰ったのが事実でも、残念ながら浜田のところに通うためではない。ここのところ「いろいろ忙しいから」と、二人きりで会う時間が全くもてていないのが現実だ。
 栄口はフクザツな胸中の浜田に気づかず。楽しそうに続ける。
「で、三日位前に泉がこそこそ携帯でしゃべってたの、偶然聞いたんだよねー、オレ」
「携帯……へえ、なにを?」
 胸の中に湧きあがった不安の雲を振り払いたくて、浜田は空元気の声で栄口に訊き返す。
「最初、泉がいるの気づかなかったんだけど、いきなりでれでれの声で女の子と話してんの聞こえてきて……」

「もしもし?ユキか?オレだよ……早く会いたいな。練習終わったらすぐ会えるからな。待ってろよ……ああ、なんだよもう。すげぇかわいいよ、お前」

 浜田は呆然として腕の中の地図を取り落とす。それは見事に足の甲にヒットしてとびあがることになったのだが、それどころではない。
 栄口は「うんうん、驚くのもムリない、ない」と浜田の動揺に理解を示してくれた。
「オレも、泉ってオンナとつきあってもそういうタイプじゃないって思ってたけど、意外だったなー。プレゼント、お前の好きなモンやるからな。とかそんなことも言ってたし。何よりもその時の表情がね、あれは、ずばり……恋をしている人間の顔だね」
 栄口が断言する。
「正直、でれっでれだった」
「ゆ、ユキちゃんての?」
「そう。ユキちゃん。オンナでしょ?」
 まあ、八割方。
 浜田は一生懸命自分の名前の中に『ユキ』という名前で呼ばれる可能性を探したが、残念ながら一ミリも見つからない。いや、それ以前にそんなでれでれ電話、一度ももらったことはない。
(だって……泉だぞ?なんかの間違いだろ?)
 でれでれ声でしゃべる泉孝介はテレ屋で引っ込み思案の田島と同じ位ありえない。
 地図を持ち直した浜田は否定の材料を探す。
「いや、だけどほら、泉んちで飼ってる犬とか、ネコとかって可能性も……」
 言いながらも、不安が募ってくる。浜田はよく知っている。泉の家には犬もネコもいない。栄口は残酷にも「泉ンちは犬もネコもカメも飼ってないから」と浜田の知識を裏付けた。
「いやあ、泉がオンナに向かって『すげえ、かわいい』とか『お前の好きなもの、プレゼントしてやるからな』とかっていうタイプだとは思ってなくて。でも、ここんところの泉ってすげーご機嫌だから、やっぱりカノジョの力って大きいなーって」
 栄口はすっかりまだ見たことのない『泉のカノジョ』の容姿についての想像に想いを馳せている。
 浜田はそれどころではない。
(ユキ?ユキって誰?知らないぞ、オレは)
 浜田とのこと以外は健全な部活少年であるはずの泉に、カノジョを見つける余地があるとは思えない。考えても泉がでれでれになるような「ユキちゃん」の存在場所がわからない。
 教室前まで栄口にそれとなく根掘り葉掘り聞いてみたものの、実はそれ以上の現場をまだ誰も押さえたことはないらしい。ただ極端につきあいが悪くなった泉はここ半月ばかり異様にご機嫌である、というのが主張のよりどころらしいことはわかった。
 半分涙目の浜田は、肉まんをおごってもらう確約をとりつけることなく運び屋の使命を終えたのだった。



 一晩悩んで、浜田は覚悟を決めた。
(だって、そんなわけねー。わけねーし)
 やっぱり何度考えても、泉が二股をかけているとはどうしても思えないし思いたくない。
 ただ、栄口ははったりを言うような人間ではないし、あまりにも具体的に示された『ユキ』という名前と、泉のでれでれぶりはどうしたって気にかかる。
(ユキって、誰だよ?)
 教室で一心不乱に編み棒を動かしていた女の子たちは、多分誰が泉の横に並んでも、浜田よりはよほどふさわしい。顔の見えない女の子の幻想に悩むくらいならぶつかるしかない。
 おりしも、バレンタインデーだった。
 野球部員は現在、個人別にきっちりと組まれたメニューに従って、基礎体力と身体を作るトレーニングに余念がない。対外試合が禁止されている冬は、じっくりと時間をかけてそういった部分に取り組める期間でもある。
 河原の道には、寒風が吹いていた。水の上を渡ってくる風は冷たくて容赦なく肌を切り裂く。運動部御用達のランニングコース中、河川敷のルートは全行程十キロの最長距離になっていて、道がなだらかで走りやすい分、量をこなすノルマが課せられやすかった。
 パーソナルトレーニングの一環で、泉がもらったメニューに含まれているランニングコースはこの河川敷ルートだ。
 浜田は遠くから走ってくる泉を待つ。
「……っす」
 近くまで来た泉に声をかけると、浜田は並んで走りだす。
「アップ、ちゃんとやったか?肉離れ起こすぞ?」
 泉がそう言うからには、並走を拒否されたわけではないと理解できる。そのことに、少し浜田はほっとした。
「ペース、浜田に合わせらんねえからな?」
「ばかにすんなっつーの」
 そうは言いつつも、かなりのハイペースに内心びびり気味だ。いつの間にか泉が遠いところにいってしまったのだと、一瞬さみしい気持ちになる。
 しばらく無言で走った。
(速っええ……これ、やばいかも)
 入念にストレッチはしてあるが、いきなりこのペースだと早晩、置いて行かれる。浜田はそれで覚悟を決めた。
「泉……訊きたいことあんだけど」
「なんだよ?」
 軽く息が上がっている。
 浜田のスタートはここからだったが、泉はその前にメニューをこなしてプログラムの最後に十キロを走り、西浦まで帰ってから恐らく二セット目に入るのだ。
「……ユキちゃんって、誰?」
「……!」
 隣を走っていた泉がいきなり消えた。振りかえると、真っ赤な顔をして立ち尽くしている。
(なんだよ……速攻クロじゃねえの)
 浜田は強い胸の痛みを覚えながら、棒立ちの泉に声をかける。
「ランニングの途中にいきなりストップすんなよ。常識だろ」
 泉ははっとした様子でまた走りだす。
「……なんでその名前を、浜田が知ってんだよ」
 横顔が真っ赤だ。目を合わせたくないのだろう、少しうつむきがちで声にも動揺が見てとれる。
「なんでって……オレは知る権利、あるんじゃねえの?」
「なんで……」
 言いかけた泉は言葉を飲み込んでまたうつむく。
「かわいいって、思ってんだろ?」
「……悪ぃかよ」
 語尾が消え入りそうで、全く泉らしくない。
 浜田の心の中には、どす黒いものばかりがびっしりと広がっていく。
(すっげ……傷つくもんだなあ。こーゆーのって)
 史上最大の自爆覚悟で告白して、まさかのOKをもらえただけで十分だと思っていたはずなのに。
 部活の隙間をぬって二人の時間を作ったり、キスやそれ以上のことをしたりする間に、浜田はどんどん欲張りになっていった。
 将来のことはわからないが、多分今の自分と泉は最高に上手くいっていると思い込んでいた。
 ちゃんと理解していると思ってた泉にはでも、自分が知らない間に好きな女の子ができて、うまくやっていたのだ。
(あーなんか……人間不信になりそーだ)
 泉は世渡りが下手ではないが、だからといってこういうことを器用にこなせるか?といえば、そうではないと思い込んでいた。
(泉のことなんて、オレ、何にも知らなかったんじゃねーのよ)
 しばらく、フッカツできそうにない。
(あー、バレンタインなのになー)
 この数週間、校内のあちこちでがんばっていた彼女たちはきっとうまくやっただろうが、浜田はチョコもマフラーももらうことなく撃沈した。
「浜田」
 と、泉との思い出が頭の中をぐるぐると回っていた浜田の耳に恋人の声が飛び込んでくる。
「浜田、今日オレ四時あがりだから。ええと、五時、にウチ来れっか?」
「……ああ、いいよ?」
(おまけに修羅場かー)
 さすがにランニングしながら、恋人を振るようなマネはしないようだ。その代わり、本格的にじっくりと振られるらしい。
「じゃあ、その時に……あの、お袋とか、今日帰ってこないから」
「ああ、わかった……」
 ほんの少し前ならば、これほど期待に胸膨らむ言葉はなかったはずなのに、今は「修羅場を親に聞かれる心配はないから、とことん話し合おう」と言われているとしか思えない。
 浜田はそうして、徐々に速度を落として泉を見送った。
 泉は最後まで浜田とは目を合わせようとはしないままで、そのことで返って腹をくくれた。
「終わったなあ……」
 走り去る泉の背中を見ながら、浜田はがっくりとうなだれる。
(お前に「女の子の方がいい」って言われたら、オレはもうどうすることもできねーよ)
 一方的な敗北を受け入れるしかない。
 どうやったって敵うわけがないのだから。



 それでも、最後くらいはきれいに別れよう。
 浜田は決意して泉の家に約束の時間ぴったりに向かった。途中のコンビニで買ったきれいに包装されたチョコを持参したのは浜田なりの精いっぱいのイヤミのつもりだ。
 二股の代償としてはかわいいものだ。これくらいは許されるだろう。
 泉の家の呼び鈴を押すと、泉が神妙な顔つきで現れた。もう部活の汗と泥を落として、スウェット姿になっている。
「あがれ」
 泉は紅い顔をして浜田を促す。
 言っていた通り、家の中はしんとしていて人の気配がない。
「おばちゃんは?」
「ああ、オヤジと一泊旅行だってさ。バレンタインデーだからって、浮かれてたぞ」
 泉の部屋に入ったのは久しぶりだった。
 いつも会う時は大概浜田の部屋でだった。浜田としても泉家の大事な息子を食うのにこの家で、というのはうしろめたい気分になってしまう。
(まあ、これで最後かな……フラれんだし)
 すっかり感傷的になって最後の思い出のつもりで部屋を眺めると、勉強机の上にワインレッドの包装紙がかかった小さな箱を発見する。いかにも高級そうで、本命チョコのように思えた。
「……あれ、ユキちゃんから?」
 浜田の問いかけに、泉はものすごくイヤそうな顔をする。
「ンなわけねぇだろ。あれはお袋から浜田に渡してくれって預かってるヤツ。お前のチョコだよ。オレにくれたヤツより高いってどういう差別だよ、全く」
「あ……りがと……」
 泉は机の上の包みを掴むと浜田につきつける。思わぬ本命仕様の義理チョコに間の抜けた礼を言うと、泉はため息をついた。
 思い出して浜田はごそごそと自分が買ってきた分を取り出して泉に差し出す。
「これはオレからお前に。ちなみに本命チョコな」
「……」
(あれ?……)
 泉は小さな包みを無言で受け取ると、ぱあっと顔を朱に染めた。
(なんだ、この……ものすげーかわいい生きものは?)
 思わず手を伸ばして泉の頬に手をあてがう。そのままキスをしようとしてはっとした。
「あ……ああ、ええと、泉、オレになんか用事あったんだよな?」
 泉は驚いたように浜田を見ると、あっという間に不機嫌をひとはけ表情に乗せる。
「……ああ、ユキに会わせようって思って呼んだ」
 泉の言葉に浜田は衝撃を隠せない。
(い、泉?お前親のいない間にカノジョを家に連れ込んで、あまつさえオレに会わせるっていうのか?)
 恋は恐ろしい。
 泉のパーソナリティーをよく知っている浜田としては、あまりのショックに言葉も出ない。
(オレら、恋人同士だったよな?キスもしたし、いっぱい泉に触ってるし、もっとすごいことだってしてたよな?てか、好きだってオレは言った!泉も言った!言った)
 素早く回想して、実は自分の思い違いで勝手に泉のことを「恋人だ」と思っていたというしゃれにならない事態を否定する。
 泉は目の前にいる浜田の大混乱を全くわからない様子で涼しい顔をして言った。
「今この部屋に連れてくるから、ちょっとそこで待ってろ」
「会いたくありません」と拒否権を発動させたかったが、まったくとりつく島がない。
「泉、マジかよ……」
 一体どんな表情でユキを迎えればいいのか、浜田にはわからない。
(ああでも、ユキちゃんがいるってわかってるから、親がいない家に呼んだのか)
 なんとなく腑に落ちてくる。
(いや、だからいくら雰囲気よくなったからって……カノジョが同じ屋根の下にいんのに男とキスすんのは、まずいだろ?)
 泉はさっきキスをしなかったことを少し怒っていたようだが、雰囲気に流されるのは感心しない。浜田としては泉の気持ちをたてようと、これでもさっきから理性フル稼働状態なのだ。
 泉はほどなくしてユキと一緒に戻ってきた。

「……ええと」

 浜田は泉を見て、呆然としてしまう。

「ええと、これ、なに?」

 泉の手には鳥籠がひとつ提げられていた。泉は浜田の前にそっと置く。
 鳥籠の中では真っ白いインコが一羽、止まり木でのんきに羽根の手入れなぞしている。
「お前が言ったんだろ?自分には知る権利があるって。それは一理あるって思った。だから、紹介する。ユキだよ、すげーかわいいだろ?」
「と、り……なんて、飼ってたっけ?」
 なんだかものすごい勢いで誤情報に踊らされていた自分をそろそろ自覚しながら浜田はのろのろと尋ねる。
 泉は首を横に振った。
「お袋の知り合いんちのコだ。長期出張で海外に行くことになって、ユキを預けられる人がいなくて困り果ててたのを引き受けてたんだ」
「ああ……そう……」
 ということは、つまりさっきは本当にキスを一回損したのかと浜田は徐々に状況を飲み込みつつあった。
「確かに、ユキの存在を浜田に黙ってたのは悪かったって思う」
 少し反省しているようで泉の声はトーンが落ちている。
(いや、いい。言わなくていい。全然いい。てか、オレが悪かった。泉を疑ったオレはどうしようもないヤツだ)
 いっそ、蹴って、ぶって、縛って、殴って。と喉まで出かかった言葉を辛うじて飲みこむ。
 いもしない泉のカノジョに嫉妬して、落ちこんで、泉の誠意を疑っていたことを知られたら最後、この先多分一生頭があがらなくなる。
 浜田としては今のところ、泉と一緒にいる時間を残り一生分より短く設定し直すつもりはまるでない。
 泉はうっとりするような目をして籠の中のユキちゃんを見つめている。
「すげー小さいよなー。すげーかわいいよなー。なんでユキを置いてアメリカなんかのんきに行けるんだよ?って話だろ?」
(いやー、会社命令じゃ仕方ないんじゃね?)
 浜田はのろのろと思う。
「オレならユキのこと置いてかねーよ。なー?ユキ」
 目の前で目をきらきらさせながら、籠をつついてはユキさまにかまっていただいている泉は、長いつきあいの間でもはじめて見るでれでれぶりを発揮している。
「ほら、浜田見たか?今の見たか?ユキはオレの言うことばが理解できてっから、ユキって呼びかけると羽根を半分広げるんだぞ?見たか?」
「あーはいはい。見た、見た」
 いい加減な返事をしながら、浜田は頭の中で何度も思い出していた栄口証言を思い出す。

「もしもし?ユキか?オレだよ……早く会いたいな。練習終わったらすぐ会えるからな。待ってろよ……ああ、なんだよもう。すげぇかわいいよ、お前」

(まさか、あれって泉のおばちゃんとの電話中わざわざ、電話口にその鳥籠持ってきてもらって会話してたとかって、まさかそんな寒いこと……)
 浜田はちらりと泉を見つめる。
「ユキは美人だなー。お前みたいな美人はこの世にはいねえよ、実際。マジで」
 本気で会話をしている姿に(あるな)と頷かざるを得ない。
 となると持って帰ると約束したプレゼントは指輪とか花束とかそういうロマンなものなどではなく、おそらくあわとかひえとかきびとか菜っ葉とかそういう貧窮問答歌的な何かに違いない。
 この事態を知ったら、西浦ナインはさぞやがっかりだろう、と考える。教えてやるつもりはないが。
 雪のように真っ白い羽の持ち主だから、ユキ。なるほど納得のいくネーミングだ。べただけど。
(なんでお前はぴーちゃんとかピーコとかそういういう方向にべたな名前じゃなかったのかなあ?)
 真っ白な小鳥に向かって心の中でこっそり語りかけた。そうしたら無用な嫉妬なんかしないで済んだのに。
 それでも、つい。
「なあ、泉……オレとユキちゃんとどっちが好き?」
 なるほど、世の中にある質問の内で、もっともばかばかしい質問はこういう瞬間にふと口にしてしまうものなのか、と浜田は思った。そして、この手の質問をした場合の答えはもう決まっている。
「ユキ一択で」
 遅くなってかかったはしかは重症だと決まっている。そういえば泉が今まで犬猫の類を飼ったことがあるという話は聞いたことがない。遅れてきたアニマルセラピーに、泉が髪の先までずっぷり浸かっている姿に、浜田は若干心配になってくる。
「お袋、ホントぎりぎりまで旅行取り止めにするかどうかって悩んでたんだけどな。ほら、ユキの飼い主あと一週間くらいで帰国するし、そうしたら返さなくちゃいけないし」
(ああ、なら手遅れになる前に原因菌なくなりそうだな)
 ユキさま独裁政権の期限を確認できて、浜田はほっとする。
「でもいざ行くとなったら案外うれしそーなんだぜ?ありえねー。でもおかげで今日明日はオレが独り占めできる!」
 目をきらきらさせた泉に、浜田は苦笑して身を乗り出した。とりあえず主権一時奪回をはかるべく、さっきすくい損ねたキスを取り返すことにする。
「……でも、おばちゃんたちいないなら、オレも泉のこと独り占めできんじゃねーの?」
「……う」
 泉がうなった瞬間、ユキが籠の中で澄んだ声で鳴いた。
「ホラ、ユキもオレの味方してくれてるみてーだし?それに、ユキは泉にキスしてやれないんじゃね?」
 言って、ユキのいる鳥籠の上で唇を重ねた。
「……痛っ!」
 思いきり殴られた。
「ユキに変なもの見せんな!」
「変なものってお前ねえ……」
 バレンタインデーを共に過ごしている恋人からのキスを捕まえて「変なもの」とはいくらなんでもあんまりだ。
「ユキはまだケガレを知らないコなんだぞ?そんなことはまだ知らなくていいんだ」
(お父さんかよ!)
 しかも、娘にいつまでもいつまでも夢を持ちすぎていて周囲からは痛々しい目で見られるタイプ。
 もうこれはツッコミをいれなくてはいられない。
「あのさー泉……オレが知る限り、鳥は鳥目って言う位で夜は目が利かないんじゃないのか?」
「あ……」
 泉ははっとする。
 正確にいえば鳥目は薄暗くなってくる夕方以降の目がきかなくなるということで、煌々と灯りがともる部屋の中ではあまり問題はないような気がする。
 が、泉がはっとしているので構わず浜田は続けた。
「それに、鳥の生態としてやっぱり夜は布かなんか籠にかけて眠らせてやるのがユキのためにはいいことなんじゃないかとオレは思うぞ」
「……そうか。そうだよな。ずっとかまってたいっていうのはオレのわがままだよな……」
 あからさまにしゅんとしてうなだれる姿に一瞬我を忘れそうになりながら、浜田はかろうじて拳を握りしめてこらえる。
「もう五時だし。そろそろユキが眠る準備をしてやれよ」
 素直に頷く泉に、浜田は微笑する。
(本当に疑ったりしてごめんな)
 だが、これは全く浜田ばかりのせいというわけでもない。ここのところ野球部の練習とユキにかまけて浜田はずっと泉に放っておかれた。
 部活のためだというのなら、多少無理をしてでも我慢するが、それ以外の理由ならば納得はできない。
 小鳥一羽に泉はやれない。
「そんで泉、ユキの代わりにオレをかまえ」
 ユキを泉家の定位置に戻すべく立ち上がった泉は、浜田の言葉にびっくりしたように固まった。
「……いい、けど。チョコもらったし。あ、オレ用意してねーや。お袋からもらったやつ、それ半分やるから許せ」
 浜田としては否はない。
 泉はユキのいる鳥籠をそっと持ち上げる。
「それに、ユキはもう眠らなくちゃいけないし」
 言って、少し考えこむ。それから微苦笑を浮かべた。
「……オレも、もう限界だったし」
 浜田は泉のその返事に満足して頷いた。
 夜になったら小鳥は眠る。だから、夜の間は泉は浜田のものだ。
(朝になってもやらねーけど)
 それは、恋人としての矜持が、浜田の胸の中にひそかにたてた誓いなのだった。




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