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● チョコレート・チョコレート  ●




 世の中はバレンタイン一色の日曜日の朝だ。
 もちろん、野球部はいつもと変わりなく練習がある。
 きっとマネージャーと、運が良ければモモカンからもチョコレートはもらえるかもしれない。それと母親からも。だがそれは、ノーカウント。
 それ以外に戦果があがるかどうかは、今日が終わるまではわからない。

 そんな朝、水谷がおかしなことを言いだした。

「夕べさあ、帰りにコンビニでカジさんに会ったんだよ」
 真冬でも上を脱ぐだけの着替えならば、ベンチ裏で行うのは当たり前だ。
 泉はチームメイトの戯言にとりあえず「へえ」と相づちを打つ。頭の中は、今日のロードワークをあと5キロ増やすか3キロにするかを考えている。
「そしたらおもしろい話聞いちゃったよ。浜田がさあ」
「……」
 微妙に反応してしまったかもしれない、と泉は少し反省した。
 たとえ過剰にリアクションをとったとしても、別に泉と浜田とが普段からしょっちゅう絡んでいるのを知っている水谷は気にもとめないだろう。
 気にするのは、多分泉だけだ。
 どうでもいいところでいつも、誰にも知らせていない心を悟られるのではないかとついひやひやしてしまうのは、我ながら情けなくて悔しい事実だ。
「浜田が昨日、女の子だらけのチョコーレトショップでチョコ買ってたんだって。しかも、ちょっと高そうなヤツ」
「へえ……誰にももらえないから、自分で自分に買ったんじゃねえの?」
 泉は脱いだパーカーを丸めてベースボールバッグに詰め込みながら言う。
「ばっか。浜田はモテんだぞ? 知らないのか? オレ、何回かクラスの子を浜田につないでやったもんよ」
「え?」
 聞き捨てならないことを言われた。
(聞いてねえぞ……そんなこと)
 そういう可能性が常にあるかもしれないことはわかっているつもりだ。
 浜田は案外女子ウケがいい。年の功なのかは知らないが、ちょっとしたことに気を回せるタイプ、というヤツだ。
 父母会の母親連中からの人気は絶大だし、球技大会の時にだって女子から声援を受けていたのを見ている。
(クラスの女子からだって、絶対評判いいんだよな。あいつ……)
 ちりちりと胸の底が焦げ付く。
 水谷は泉の様子には気づかない様子で「だから、今日は最低でも2コは確実にゲットできる身分なんだよ、浜田は」と弁を続けている。
 その2つは、今まで水谷がつないだ分なのか、これからつなぐ予約を受け付けている分なのか。
 泉は、知らず小さく舌打ちしてしまう。
「……って、浜田がもらう分はいいんだよ、それはおいといてー。そうじゃなくて、浜田が買ったチョコの話!」
「高級チョコがどうしたんだ?」
 練習用のベースボールシャツのボタンを留めながら泉は、特別興味がなさそうに言ってみる。
 水谷はベルトを締めながらきょろきょろと人目を気にするような仕草をした。こんなにオープンな場所で大声で話しているのに今さら秘密も何もないと思うが、とりあえず周囲に人はいない。
 今日は水谷、泉が一番乗りだった。他のチームメイトたちはその内やってくるだろう。
「……ショップから出てきたところでカジさんとばったり会ったらしくてさ。手に店名入りの袋提げてたから言い逃れできないだろ? カジさん、浜田にそのチョコはなんだよ? って訊いたんだってさ」
「まあ……訊くよな。オレも会ったら訊いてる」
 野郎が女子だらけのチョコレートショップから紙袋を提げて出てくる。
 考えるだけで心が寒くなってくるような光景だ。
 水谷は「だろ? オレも。カジ先輩もそうだったみたい。そしたらさ!」と身を乗り出してきた。
「近ぇよ」と、泉はイヤな顔をして水谷を押しやって、スパイクのひもを締めた。
「浜田さ、カジ先輩になんて言ったと思う?」
「知らねー」

「バレンタインっていうのは、別に男からチョコとかやったっていいんだよな? って言ったんだってよ!」

 泉は思わず水谷の方を向いた。そのままじっとチームメイトの顔を凝視する。
「それ、どういうイミだ?」
 水谷は一瞬気後れしたように息を飲むと「そりゃ……逆チョコ、ってヤツだろ?」とたどたどしく言った。
「ああ……そういう……」
 ベンチに深く腰掛けると、泉は息をついた。
「それ以外何があんだよ? な、結構カジ先輩傷ついてたぞ。まさかそこまで思いつめるほど好きなオンナがいたとは気付かなかったって」
 泉はちらりと水谷の方を見ると「そうだな」と応える。それから、スパイクのひもをもう一度締め直してみた。
「泉は? 知ってたのか? 浜田のこと」
「なんでだよ?」
 言って、キャップを深く被って立ち上がった。
「なんか、昨夜のカジ先輩より傷ついてるような顔してっから……泉、浜田とは小さいころから仲良かったんだもんな」
「別に……あいつのことなんか、関係ねーし」
 水谷が慌てたように立ち上がる。
「ごめん。ホントにごめん。こんなこと言うんじゃなかった……オレ、反省してっから」
「水谷……」
 泉は苦笑して、水谷の頭に手をやった。それから、思い切りの力を込めて頭を握り締めてやる。
「い……痛たたたたたたたたッ! 泉、ギブ!ギブ!」
 泉はにやりと笑うと金剛力の手を緩めてやった。
「おっしゃ、練習、練習。先に行ってネット出してっぞ」
 水谷を残してさっさと用具倉庫に歩いて行く。
(別に、傷ついてなんかいねーっつーの)
 浜田の顔が思い浮かぶ。
(どんな顔してチョコとか女に混じって買ってんだよ、ばーか)
 どういう気持ちで好きな女の子のためのチョコを買って渡す気になったのか。
(逆チョコとかって、そういう心がけがもうありえねーっての)
 今ごろ、相手を呼び出しているのだろうか。女子はきっと、自分の戦いに忙しいから相手にされない可能性も大きいだろう。
(でも、あいつモテるって言うし……案外、本命チョコのあげっこになってたらキモいな)
 彼女からの手作りチョコと浜田からの高級チョコ。さっさと渡しっこして、できあがってしまえばいい。
 普通は二人がかりで運ぶ防球ネットを一人で引っ張っていく。追いついた水谷が「悪ぃ。手伝う!」と手を貸してくれる。
(だから……そんな話は聞いてないっての……)
 最初は身体の奥の方がずきずきして、それからいらいらに変わった。次にむかむかして、そうして7キロ増量したロードワークをこなした後には激しい怒りに変わっていた。

「今日はバレンタインデーなので、監督と私からみんなにチョコレートを差し入れしまーす!」

 マネージャーがにこやかに宣言すると、息も絶え絶えになっていたチームメイトから大喝さいが巻き起こった。
 マネージャーがいかにも「義理です」という体裁の包装をされたチョコを一人一人に配っていく。
「はい、泉くん……?」
 目の前で、紙袋から取り出した赤いささやかな包み紙のそれを手渡された。なんだかもう、世の中のチョコレート全てが悪の根源のように思える。
 泉は手のひらの上のそれをじっと見つめた。
「泉くん?」
「ちっくしょ……」
 小さく声に出ていたらしい。マネージャーがびくりと怯えた顔になる。
「ご、ごごご、ごめ……ちょっと、しょぼい、よねえ? でも、予算の関係があって……ちょっとこれ以上はキツ……」
「ああ?」
 思わず凄んでいたらしい。はっとして我に返ると、マネージャーが涙目でこちらを見ている。
「あ、違う。マネージャーに対してじゃないから。これは、ありがとな……」
 マネージャーはこくこくと頷くと「よ、よかった……」とぎくしゃくしながら泉の傍を離れていく。
(悪いことしたな……)
 とりあえず今の小さなやりとりが周囲に気付かれいなかったのが幸いだ。バレたらみんなにつるしあげを食らう。一番やばそうな水谷に視線をやったら、義理チョコをもらって既に天上にいっていたらしい。うっとりとどこかあらぬところを見つめている。助かった。
 ふと視線を感じて気付いたら、当のマネージャーにすごい目で睨まれていた。多分、おにぎりは当分小さめにしか握ってもらえないに違いない。
 仕方がない。
(それもこれも、全部浜田が悪い)
 もうそれは絶対に間違いのないことだった。



 部活の解散は夕暮れ時だった。
 みんなと別れた途端、泉は猛スピードで自転車を走らせた。
 漕いで、漕いで、漕いで。とにかく急いだ。
「……いるじゃねえかよ」
 浜田のアパートの傍にたどりつくと、灯りの点いている部屋を見上げる。今日もバイトのはずだから、正直いるとは思っていなかった。
 予想とは違う。
 だが(いや、もしかしたら)と思い直した。
 もしかしたら、高級チョコを渡す相手をちゃっかり部屋に呼んでいるのかもしれない。
 あの部屋には今、甘い恋のムードが満ちているのかもしれない。
 また、怒りが腹の底にふつふつと湧いてくる。
 泉は自転車を階段下に停めると、わざと音を立てて外階段を昇っていく。
(いきなり行って驚かせてやる)
 今日はもう、朝からずっとものすごく腹が立っている。
 浜田に泉の知らない間に好きな女の子ができていたらしいこと。
 女子の祭であるはずのバレンタインに、逆チョコだなんてマネをしてまで彼女にしたいと思いつめていたこと。
 毎日一緒にいるのに、そのことに全く気付いていなかったこと。
 何もかもが頭にくる。
 ふつふつと後から後からこみあげてきて、泉の背中を押す。

「浜田!」

 部屋の前で名前を呼んで、扉を叩く。
 中に人がいるのはわかっている。居留守なんてさせない。
 と、すぐに部屋の中で反応があった。
「なんだ? 泉?」
 がちゃりと浜田が躊躇なく扉を開ける。
「浜田!」
 つい、部屋の中に目がいく。誰もいる気配がない。浜田も全く焦っている様子がない。
 驚いた様な顔をして、目の前の泉を見ている。
「どーしたんだ? 練習もう終わったのか?」
「あ……ああ……」
 どうも予想していた展開と違う。予定では部屋の中から女の子の声がして「誰かお客さん?」とかなんとか言われるはずだった。
 それで、泉は「なんだよ、誰かいたのか?」とわざとらしく尋ねるつもりだったのだ。

「誰も……いねえの?」

「いないよー? なんで?」
 なのに、浜田はのほほんとそう応えそれどころか「あがれよ。寒いだろ?」とさっさと泉を中に招き入れるのだ。
「……あれ?」
 背後でドアが閉められ、浜田が先に部屋に戻ってしまう。
 一目で全て見渡せる家だ。
 他に誰もいないことは一目瞭然だった。
(あれ……?)
 ここにきて、泉は自分が一体何をしようとしていたのかについて思い至った。
(あれ? もう、告白とか……済んだ、とか?)
 結果がどうだったかはともかくとして、今日のイベントは一通り終了してしまっているのかもしれない。
(てか、オレ……何、張りきって邪魔しにきてんだ?)
 自分の行動の意味を考えると、パニックになりそうだ。
「泉ぃ? どーしたんだよ? 上がれよ」
「いい」
 泉は耳まで真っ赤になって首を横に振る。
(だから、邪魔してどーなるんだよ? てか、邪魔する相手いねーし)
「いい、って。何か用事があって来たんだろ?」
 浜田が不審そうな声で玄関で立ち尽くす泉の傍にやってくる。
「あ……用事……」
 泉はどうしていいのかわからない。
 何がしたくてここまで来たのか。
 そもそも、今日はなぜ朝からずっと浜田に対する怒りでいっぱいになっていたのか、よくわからなくなった。
 目の前に浜田が立った。
「どーしたんだ? なんか、様子おかしいぞ。オレに用事、あんだろ?」
「あ……る……」
 真っ赤になったまま、舌が勝手に動いてそう言った。
(いや、ないから。全然ねーから、オレ)
 浜田はにっこり笑った。
「なんだよ、あるんじゃないか。なんだ?」
 やけに優しくそう言われて、なんだか泉はもうよくわからなくなっていた。

「チョコ……」

 勝手に、口がそう言ってしまう。
 そうだ、昨夜買ったという浜田の『本命チョコ』はどうしたというのか。そこは、とても気になるところだ。だが、泉にはそれを知る権利はない。
 浜田は不思議そうに首を傾げる。
「チョコ? ああ、今日バレンタインだからな。誰かから、もらった?」
「あ、マネージャーと監督から。あと、家に帰るとお袋とか」
 浜田がふと目を和ませる。
「なんだよ、それだけかよ。悲しいヤツだな」
「別に、いいだろ。そんなこと」
 浜田は笑って「いやいや、安心した」とつぶやくように言う。
 その声に、なぜだかどきりとした。

「用事……!」

 いきなり大声を出した泉に、浜田が首を傾げた。

「チョコ……もらいに、来たんだ……」

 言ってしまってから、その場で固まる。
(何、言ってんだ、オレ?)
「昨夜、買ったんだろ? チョコ。それ、もらいに来た……」
 浜田が「なんで知ってんだ?」と、驚いたような顔をする。そして、一瞬の内に真剣な眼差しにすり替わった。
(あ……やばい……オレ……!)
 その場から逃げだそうとして、浜田につかまった。

「ホントに?」

「やだ、離せ。帰る……」
 じたばたもがくが、上手く振りはらえない。図々しい上に恥ずかしい。
 昨夜浜田が買ったチョコは、梶山との会話によれば間違いなく本命チョコだ。
 バレンタインなんていう女子の祭に、あえて自分から好きな相手にぶつかるための。
 なのに。

「ホントに? 泉? オレの、もらってくれんの?」

 なのに、浜田は泉に向かってそう言った。
「ホントにオレのチョコ。泉はもらってくれるのか?」
 顔がさっきから紅い。身体も熱い。
 そうだ、どうして気がつかなかったのか。

 浜田の頬も真っ赤になっていた。

(ヤバい。これ……どうしよう……)
 相手は浜田だ。浜田だというのに、どきどきしている。
(どうしよう……)
 それでも、泉は大きく頷いた。

「欲しい……か、も……」

「渡す。今やるから……泉」
 そのまま手を引かれた。泉は、慌ててスニーカーを脱ぎ捨てる。
 ぐいぐい引っ張られる手の力に、ときめいている。
(すげえ……うれしい……)
 今まで何度もあがった部屋に、泉はその日はじめて『浜田の恋人』としてあがることになった。

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