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● 遠い雨の向こう  ●




 明日の朝は早い、と思っていても寝付けない。
 泉は隣のベッドで横になっている栄口の様子をそっと伺う。
(もう、寝た……よな?)
 夜行バスで早朝大阪にやってきて、この夏一度も負けなかった学校同士の試合を見て、午後からは知らない土地のグラウンドで汗を流した。
 身体はくたくただ。
 でも妙に目が冴えている。
 泉はしばらく隣の様子を伺うと、予めベッドの中に持ち込んでいた携帯のフリップを開く。普段意識したことのないバックライトの明るさに一瞬ぎょっとして、またチームメイトの様子を探った。
 別に何も悪いことはしていない。明日は早くからほかの学校と合同練習だし、そこには当然二年生がいるのだから気を抜いてると「やっぱり一年ばっかりのチームはダメだ」とか思われそうだ。それはイヤだから、しゃんとしていたい。
 だが、大阪の夜は泉を寝かせてくれないから仕方がない。
 電話の着信履歴の一番上の名前から、通話ボタンを押した。

「……泉?」

 携帯の向こうの声に、なんだかぎゅっとなるのは旅先の夜だからなのだろうか。
「あんま、大きい声出せねーんだ。隣で栄口が寝てっから」
 声を潜めてそう言うと「なんか、その言い方がやらしくてムカつくんだけど」と声が返った。
「浮気してんじゃねーよな?」
「ば……ッ!」
 布団を頭からかぶって、泉は沸騰する。
「いっぺん死ね。ありえねーこと言うな」
 浜田は泉の密やかな恫喝に「あー、なんか今オレ幸せなこと言われた」とうれしげに言う。
「……お前、いくら最近暑いからってワいてんじゃねーっつの」
「いいじゃねーの。夏大終わってからまだちゅー一回しかしてないんだし。これっくらい」
「……それは、悪いとおも」
「ちげーよ。泉は悪くないの。夏だから、仕方ないの。何べんも言ってっだろ? 
オレは野球小僧じゃない泉は今んとこ興味ねーから」
「ヘンタイ」
「そこでヘンタイって言うなよなぁ。甲子園、どうだった?」
 泉はその質問に一瞬、黙り込む。
 今日見たばかりの青い空とじりじり焼け付く太陽と、フェンス一枚向こうのあまりにも遠い緑と土を思い出す。

「なんか、すごかった」

 陽光の照り返しだけではない。
 グラウンド全体がきらきらしていた。目に痛いほどまぶしいそこは、泉たちを待っていてはくれなかった。
「……いい経験できたみたいだな」
「ああ。来年、連れてってやっから。ちゃんと金貯めとけよ」
「ああ」
 一瞬、黙り込む。
「なんかさ、なんかこー、でけーの。そんできらきらしてて、そんで……すげーんだ」
「そっか……」
「二試合観たんだけど、一試合は最後の方すげー点差ついてさ、それでもなんか、すげーの。選手の気合いとか、そういうのがさ」
 言いながら声が震えていることに気がついた。
 外野、広いんだ。
 あそこを、オレは走るのか。
「浜田さあ、相当のど鍛えとかないとあんだけ広かったらアルプスで叫んでもオレまで聞こえないぞ?」
「ンなことねーよ。届く」
「どーかね」
「届くぞ。オレの声は、泉にだけは届くんだ。そうだろ?」
「……」
 心臓がとくとくと脈打っている。
 朝、まだ人のまばらなスタンドに入った時から続いている鼓動がより強くなる。
「すげー、どきどき言ってる」
「だな」
「浜田にわかるわけねーだろ」
「わかるね。オレには全然わかる。どんくらい泉がどきどきしてっかくらい。お前のカレシの実力、なめんなっての」
「げー、キモーい」
「キモいって言うな。惚れた相手に向かって」
 言われてまだ黙る。とくとくと脈打つ心臓がまた大きく鳴る。
「今、すげーどきどきしただろ? ごめんなぁ、そばにいてやれなくて。いたらちゅーしてやったのに」
「お前、ホントにムカつくね」
 動揺を悟られないよう、努めて冷静な声で言うと「だってさー」と電話の向こうの恋人は笑った。
「顔会わせてっと、泉、なかなかこういうこと言わしてくんないし。たまにはこう、ぐっとハート握っとかないと不安でさ。ホントに、関西の学校の二年とかに身体とかさわらせんなよ」
 泉は吹き出した。
「浜田のばーか。世の中にそんなにホモがいてたまるか」
「じゃあ、関西の学校の女子マネとかに気をつけろ。携番きかれても教えるの禁止」
 隣で栄口が寝返りを打つ気配がした。
「……やべ。お前が笑わせっから、栄口起こしちまうとこだったぞ」
「あー、雑魚寝じゃなくて二人部屋だってさっきメールで言ってたな。まあ、栄口なら安心か」
「誰が一緒だって危険なことねーよ。浜田じゃあるまいし」
 電話の向こうでまた笑い声がする。
 と、同時にものすごい雷鳴が聞こえた。
「うっわ。なに? そっちカミナリ?」
「おー、今の近かったー。お、夕立ちきたな。聞こえっか? 雨の音」
 泉の耳に遠い空で降る豪雨の音が響く。
「こっち、全然晴れてっけどな。なんか、日本広い! ってカンジ」
「だな……な、いつ帰ってくんだ?」
「二泊三日だよ。あ、車中泊だから、四泊三日か?」
 埼玉で降る雨の音が耳をつく。
「てことはー、ああ、結構先だなあ」
「大阪のおみやげ、買ってってやるよ。トラッキーくんのマスコットとかどうだ?」
「できれば食えるモンがいい」
 泉は苦笑した。
「じゃあ、お好み焼きのタネ的なモンにすっか」
「リクエスト、あんだけど」
「高いのはだめだぞ?」
 浜田は「高いといえば高いかなあ」と笑った。
「まあ、とりあえず言ってみろ。考えてやるから」
「じゃあ」
 浜田は、すっとまじめな声になる。

「じゃあ、泉孝介で」

 耳につんざくような雷の音。
 胸に突き刺さった真夏の夜のその声に、泉はからからになったのどの奥から、そっと返事を絞り出す。
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