●● 抱擁 ●●
玄関の方でにぎやかな話し声が聞こえた。
「……っ!」
佳主馬は耳をそばだたせる。このためにわざわざヘッドフォンを外してOZにログインしていたのだ。
来るとしたら、もう今日しかなかった。
「夏希姉ちゃんたちだ」
おばたちと笑う声が聞こえる。陣内家の当主が万里子に代替わりした最初の正月。いつもは父母をおいて冬休みに入った途端、真っ先にやってくる夏希が、父親の仕事納めを待って大晦日に上田にきたのは、やはり栄のいない陣内本家を見るのがつらいからなのだろうか。
妹の出産で上田に身を寄せていた母がぽつりと電話で「寂しい」と言っていたと、父が言っていた。
キング・カズマをログアウトさせ、佳主馬はいかにも「ちょっとお腹空いたから」という風を装って廊下に出た。
「佳主馬ーっ!」
夏希の声に振り返る。ばたばた走って近寄ってきた夏希の背後に、その人の姿を探すのに見つけられない。
(あれ?)
夏希の父と母、本当はそこにもう一人加わっているはずだった。
(いない……)
はっきりとした落胆が心に降りてくる。夏にきたのだから冬にも来ると思いこんでいた自分のあさはかさに、歯がみしてしまう。
健二がいない。
(なんで? 来るって思ってたのに……)
動揺が一瞬で身体の中を満たす。
夏希はそんなまた従兄弟の様子には気付かないようだ。
夏以来の再会にはしゃいでいる。上田の田舎にくると夏希はいつもこんな調子だ。
今までは何とも思っていなかったのに、この夏以来、佳主馬は少しだけ苦手になった。
「佳主馬あんた背ぇ伸びたわねえ。夏と比べて5センチはいったんじゃない?」
「5.2センチだよ」
「すっごーい!男の子っていきなり伸びるんだなあ」
夏希は驚嘆の声をあげる。夏と違って黒っぽいニットにパンツ姿だ。元気いっぱいである。
(健二さんは?一緒じゃないの?)
尋ねたい言葉をのどの奥にためたまま、佳主馬は「奥、みんないるから」と夏希に背を向けた。
(やっぱ、聞いておけばよかったな)
健二とはちょくちょくOZでチャットしたりメールのやりとりをしている。いつでも年末年始の予定を訊く機会はあったのに、なんとなく佳主馬は躊躇してしまった。
夏希と一緒に陣内本家に来ると聞くのもイヤだったし。
年末年始は東京にいるから、と言われるのもイヤだった。
なんとなく健二は夏希がひっぱってくると決めつけていたのだ。
期待していた、と言った方が正しいかもしれない。多分、この夏の大騒動で健二に一目おいた陣内の面々も同じだろう。
陣内の台所には常に女衆が誰かしらいて、必ずなにか食べ物が用意されている。
盆暮れは確かに大所帯になるが、誰がこんなに食べるのだろうかと、さして食が太いわけでもない佳主馬は思うのだが、どれもこれもいつの間にかたいらげられている。
(でも、まだ最終バスまで結構あるし)
まだ健二がひょっこり姿を見せることを期待している。
あまりにも甘い考えだ。ぐだぐだ想像するのなら、今すぐOZにログインして健二にメールすればいい。
吉報かそうでないかは別として、すぐに佳主馬の欲しがっていた答は手に入る。
だがそれで、淡い期待が粉々になることが決まるのは怖かった。
(会えないって決まったわけじゃないし)
台所でもらったおもちをぱくつきながらそう思う。
状況はまず絶望的と言っていい。夏希のほかに誰が健二を連れてきてくれるというのか。
靴下を穿いた足は足音がたたない。
どうしたものかと考えあぐねて、健二に尋ねる前にやっぱり一度だけ夏希にそれとなく探りを入れてみようかと佳主馬は思った。
笑い声が響く広間に足が向かう。
「……っ」
思わず、足を止めた。
佳主馬にとっては叔母に当たる直美が声に笑いを含ませながら言っているのが聞こえた。
「それで? その後健二くんとはどうなのよ、夏希ぃ?」
「や、やだぁ……直美さん、そんなどうってこと……は……」
それを機におばたちの好奇心丸出しの詮索が一気に吹き荒れた。
「ああ、そうそう。それ訊きたかったのよ。どうなの? ちゃんとちゅー位した? もしかしてそれ以上?」
「えー、でも健二くんってそんなケダモノっぽい感じしないですけど……」
「なーに言ってんのよ、奈々ちゃん。高校男子なんてサルみたいなもんだもん。了平だってああ見えて、部屋にエロ本隠し持ってるし。ああいうの、チビたちにだけは見つけられんじゃないわよ。って言ってんだけどね。まあ、野球ばっかやってたせいでカノジョはいないっぽいけどー」
「えー、でも了平だって甲子園でピッチャーやった位なんだから由美さんが知らないだけで絶対女の子寄ってきてるって」
「大体、自分だってもう了平の年齢の時には克彦さんとつきあってたくせにー」
「いやあ、それを言われるとねぇ……」
下世話なこと極まりない。どうも話もそれたようだと、佳主馬は辟易して納戸に退散しようかと思い直した。
「そんで? 克彦たちの青春話はおいといて。夏希ちゃんはどうなのよ?」
年長者の理香が、再び質問の矢を放つ。
「え……と……」
「健二くんと? つきあってはいないんじゃない? 夏希、結構ヒマそうだし。年中悪態ついてるし」
「お母さんっ!」
夏希の大きな声と共におばたちの「ええええええ?」という驚愕の声が家じゅうに響き渡る。
おじたちの声が聞こえないところを見ると、さっさと安全圏に避難しているらしい。
懸命だ。
佳主馬だって話題が健二のことでなければ、とっくの昔に逃げ出している。
「あれだけみんなでおぜん立てしておいて?」
「みんなの前でほっぺちゅーまでしておいて?」
「あんな大声で告白しといて? されといて?」
「隠れてこっそり手をつないでんの見たよ、私? あれはなんだったの?」
夏希の気持ちが痛いほど佳主馬にはわかる。あのおばたちに一気に攻められたら消えてしまいたいほどのプレッシャーに違いない。
OMCでキングになった時のことを思い出して、思わず身震いした。
「そう言わないでやってよ。このコ、てんで押し方と攻めどころわかってないんだから」
夏希の母・雪子だけが「やれやれ」と言った調子で夏希をかばっている。
「陣内の血を引いてるとはとても思えないわね」
だが、最後はぐさりととどめを刺す。
「お母さん! だって、私は悪くないでしょ? 文化祭だって一緒に回ろうって言ったのに、健二くんはクラスの出しものと物理部の出しもの掛け持ちで。私もクラスと部の後輩たちのこと見なくちゃいけなくて時間合わなかったんだし! 」
夏希によれば、そんな調子で秋の連休も、体育祭も、クリスマスも、イベントもので一緒に過ごすことを失敗したらしい。
(健二さん……それは、どうなんだろう……)
さすがに夏希が気の毒になったが、考えてみればクリスマスの時はOMCのトーナメントイベントにリアルタイムでリスのアバターが観戦していたことを思い出した。
「クリスマスも一緒じゃないってのはどうかと思うけど……他にもデートする時間くらい、あったんじゃないの?」
「う……」
「映画のシュミが合わないんだって」
雪子がさっくりと言う。
「遊園地とか海とか行くと、会話に詰まりそうだからどうしたらいい? って訊くから、初デートなら映画かな? ってアドバイスしたらそこで躓いたんですって」
雪子が淡々と言うと、おばたちはあからさまにがっくりと落胆した様子だった。
(健二さん、そんなに特殊なシュミしてないけどなぁ……)
メールやOZで会話する端々から考えて、健二は割と何でも受け入れるタイプだと思った。血みどろ映画はおいておくとして、エンタテインメント系なら別に躊躇することはない。
現に、佳主馬と誘いあってOZの映画モールで何度かロードショーを観ている。
OZの映画モールは離れた場所にいても、上映時間を同時刻に行う配信サービスで、リアルでの封切り前の新作もかなりの割合で先行上映している上、観終わった後に離れた人と一緒に感想を言い合えるというメリットがある。
佳主馬が首を傾げていると、夏希が悲壮な声で反論する。
「だって、健二くん割と映画よく観る人みたいで……一緒に行こう、って誘った映画、大概観てるんだもん。封切り前のもOZの映画モールで」
ぎくりとした。
(それって……ええと……僕と?)
「一度観た映画だって言ったって、初デートだと思えば二度観くらいは……」
「だって、タイトル言っただけで健二くんがわかりやすく反応するから! そしたら引っ込めざるをえないじゃない」
そういうことが数回続いたら、心が折れたらしい。
佳主馬としてはなんとも言えない気持ちになる。まさか、名古屋にいる自分がOZで一緒に健二と先に観ていたとは夏希は夢にも思わないだろう。
「……そんで、ことごとく初デートプランもイベントも潰れたんだったら越年は? 健二くん上田に誘ったんでしょ?」
「誘ったけど……来れないって……」
夏希に訊きたかったことが、すらりと判明した。
(健二さん、来れないんだ……)
そうわかっただけで、心に落胆がずしりとのしかかる。
OZではしょっちゅう会っているけれども、夏以降顔を合わせてない。きっと冬の上田には来ると思いこんでいたから、来ないとわかると心が重い。
(逢いたかったのに)
素直にそう思う。
だが、また目の前で夏希と仲の良いところを見せられたらと思うとこれで「よかった」と思う気持ちも確かにある。
健二に対する気持ちは、不可思議で掴みどころがない。
佳主馬は身に着けていたスウェット素材のパーカーの、胸のあたりを握り締める。
部屋の中では女連中の声が続いていた。みんな、健二が来ないと知ってがっかりしているようだ。
陣内家にとって、健二はもうすっかり家族の一員で、それが当たり前なのだ。
「あら、こっちは大歓迎なのに。なに? 夏希ちゃんの誘いも断って、もしかしてあの部活の子と一緒に遊びにでも行くの?」
「佐久間くんは、草津温泉に行くって言ってた。ご両親のどっちかの実家がそっちだからって」
「あら、じゃあ」
その場を立ち去りかけた佳主馬の耳にその言葉はするりと忍びこんだ。
「健二くん、年末年始は一人っきりなんだ」
立ち止まる。
佳主馬は一人きりの正月や夏を過ごしたことはない。
たくさんの親戚の中にいることは、さほど気づまりではないが、OZを理由に少し離れることもある。
このたくさんの血縁の中にいることは生まれた時から当たり前のことで、それはとても鬱陶しくて、だが安心する。
よくわからないが、それが身内というものなのだろうと思う。
(健二さん、一人っきりなの?)
心臓がどくどくと音を立ててなりはじめる。
この夏に亡くなった、佳主馬の曽祖母は「大切なのは決して一人きりにならないこと。ご飯を食べること」と言っていた。
今、あと10時間もすれば新しい年を迎えるこの時間、健二は一人でいるのだろうか。
足音だけは立てないように、早足で納戸に戻る。そそくさとその場に広げた自分の荷物を片づけ始める。
それから、佳主馬に割り当てられた部屋に行くとコートとマフラー、それから財布を握り締めて戻る。
大家族のいる家の中はいくら広くても、秘密事が誰かに見つかりそうでひやひやする。
愛機を大きめのトートバッグにしまいこみ、コートとマフラーを丸めて、そっと忍び足で廊下を行く。
台所の方から、万里子たちの話し声がする。仏間の傍を通ると広間を追いだされた万作や万助が栄の遺影を見ながらしみじみと語り合っていた。
ひときわ気を使ったのは、女連中が集まっている広間の傍を抜ける時だ。
「情けない!」
いきなりの直美の大声に、佳主馬はひやりとして縮みあがる。
「あのね、夏希。わかってないからちゃんと言っておくけど。この世にはいい女よりもいい男の方が圧倒的に少ないのよ!」
(何、言ってんだ? 直美さん)
佳主馬は冷たい汗を背中にかきながら思う。
「いい男は希少価値なの。わかる? そんで、健二くんは多分希少価値の方。一見なんてことないけど、あれは間違いなくお値打ちモノよ。あたしにはわかる」
おそらく夏の時点では、健二に最も冷たい反応を示していたように思う直美は断言した。
「そんで一方では世の中には、生きるための本能としていい男を感知するアンテナを内蔵したオンナがいるわけよ。希少価値の男はそういうアンテナ内蔵型にもってかれちゃうの。若い内に!」
なんとなくリアリティに富んだ意見だ。と佳主馬は思った。
陣内の男が女性陣に圧されがちな理由を、またひとつ心の内に積み上げる。
「あんたはせっかく希少価値を見つけられたんだから、さっさと押し倒してでもモノにしちゃいなさいよ。冬は恋愛向けのイベントラッシュ。こういう時に目を離してるとね。思いもかけないところから伏兵がやってきて、健二くんに告っちゃうのよ。あんたより数段従順で、一途で必死で直球派なのがね。この四カ月あんたが何もしてこなかったおかげで、健二くんの中に『夏希とは合わないかも』フラグが立っててもおかしくないわ。そしたら、いっちゃうわよ」
直美は高らかに宣言する。
「案外、ころっとね。男は一途で純情で必死なのに案外弱いんだから。特に、カノジョが高飛車で自分のためになかなか折れてくれないようなのだとね」
佳主馬は直美の後半の言葉は聞いていない。
そっと陣内の屋敷を抜け出すことに成功すると、バス停の脇でコートとマフラーを着込んだ。
確かもう理一のバイクもあったから、後は遅れてくることになっている翔太や万作のところの三兄弟の車に見つかる前にバスに乗り込むことが大事だった。
(新幹線に乗ったところで、メールしておこう)
佳主馬がいないと大騒ぎになったら、陣内一族は間違いなく総出で捜索にかかる。そうなると、あの底知れない一族のネットワークでもって佳主馬などあっという間に発見されて連れ戻されるのがオチだ。
それで「なぜ、みんなに黙って抜け出したのか」と尋問されたら答えようがない。
じりじりしながら待ったバスに乗り込むと、途中で見覚えのある翔太のRX7とすれ違った。思わず身を低くしてやりすごす。
確かあの車は夏の騒ぎでほぼ全損していたはずだが、買い換えたらしい。少しほっとして息をつく。
とにかく、新幹線に乗るまで安心はできなかった。
「なんなの? いきなりそんな呼び出しがあるものなの? だって今日は大晦日よ? お父さんに言ってもらいましょうか?」
母親の文句に「これは契約上のことだから。大丈夫だよ、明日には戻るから」と短く応える。
新幹線から「スポンサーから新年のイベントについての打ち合わせの打診があったから、東京行って来る」とメールをしたら、あっという間に母親から繰り事の電話があった。
「お母さんたちの姿見つけられなかったし急いでたから。もう、新幹線乗ったし。大丈夫だって。また夜電話するから」
「広間にいたわよ。見つけられなかったわけないでしょう? お前の分のお節残しておくから、必ず帰ってくるのよ」
(ごめん、お母さん)
佳主馬は近づいてくる夕方と東京を待ちながら、新幹線の座席で目を閉じる。
(だって、健二さんが一人だから……)
自分と家族の命を救ってくれた人が、今日一人きりで新しい年を迎えるのはイヤだと瞬間的に思った。
そう思ったら、行動は早かった。
コートとマフラーと愛機と財布。
それだけ持って、東京に向かうことを何にも躊躇いはしていない。
衝動と言われたらそれまでだが、健二を一人にしたくない気持ちは強くて激しい。
いや、それよりも。
(逢いたいんだ、健二さんに)
自分勝手に正月には「逢える」と思っていたのに、それが叶わなかった。
そう思ったら、どうしても逢いたくなった。
東京駅の改札を抜けて、頭の中に叩き込まれている健二の家に行くルートをはじめて実際に走っていく。
東京駅は人でごったがえしている。
これから帰省する人の最後のピークといったところだろうか。反して在来線の中はまだ初詣には早い中途半端な時間だからか、案外空いている。
いよいよ押し迫った年の終わりに、周囲の全てが身構えているようだった。
紙の年賀状を出したいから、と言って交換した健二の住所は頭の中にある。
なんとなく、どうやったら自分の家から健二の家に行けるのかシミュレーションもしていた。
おかげで今は迷わずにそこに向かえる。
JRを乗り変え、地下鉄を使い健二の家の最寄り駅にたどり着く。
そこからは徒歩で数分の距離だ。一帯でも比較的背の高いマンションの7階。多分オートロックだから、部屋番号を入力して呼びださなければいけない。
頭の上には早い闇が広がっている。
大晦日の夜だ。
上田ほどではないが、しんと冷えて佳主馬の上に冷気が降り注ぐ。足元からも這い上がってくる。
震える指を呼び出しパネルに当てようとして、ふと惑う。
(いなかったら、どうする?)
上田を飛び出してきたものの、健二が家にいる保証はない。
もしかしたら、とっくに出かけていて家にはいないかもしれない。まず先に携帯に連絡をいれてみるべきだろうか、と迷った。
「あの……すみません、いいですか?」
躊躇している佳主馬に後ろから声がかけられた。振りかえると、見知らぬ女の人が立っている。ここの住人のようで、手には買い物袋を提げていた。
「あ、すみません」
慌てて譲ると、不審げな目をしながらも自宅の部屋番号を押して解錠すると、さっさと中に入っていく。佳主馬は一瞬迷って、それでも思い切って自動ドアが閉まる直前にマンションの中に飛び込んだ。
階下に降りていたエレベーターはさっきの女の人を乗せて上昇していたから、佳主馬を不審な侵入者と怪しんだりはしないだろう。
「どうしよう……」
この期に及んでまだ迷っている。いきなり佳主馬が目の前に現れたりしたら、健二はいぶかしむのではないだろうか。
「どうしたの? お正月は上田なんじゃないの?」
「佳主馬くん、何しに来たの?」
「どうして僕のところになんか来る必要があるの?」
健二に咎められたら、なんと応えればいいのだろうか。
逢いたかったから。なんて、言えたものではない。
途方に暮れる。
(スポンサーとの契約の件で上京したって言って。それから、せっかくだから顔だけ観ようと思ったって言って。それで、そのまま上田に帰ればいい)
ロビーでうろうろして、それだけプランを固めると、思い切ってエレベーターのボタンを押す。
一人で見知らぬ街にいるというのは心細い。ましてや、町中が静かに新しい年を待つこの夜だ。
不安で泣きそうになりながら、それでも健二の顔が見たくて佳主馬は動く。
何が背中を押すのかよくわからない。
健二に会ってから、変わったことがたくさん佳主馬の中にはあって、多分これはその一つなのだと思う。
自分の中に衝動が眠っていて、それが健二の存在に突き動かされる。スイッチを押される。
そうなると、もう自分ではコントロールのしようがない。
(なんか、どうしよう……)
エレベーターから降りると、のろのろと廊下を歩きだす。
覚えている部屋番号の前には確かに
小磯
という表札があった。
このマンションはひとつひとつにポーチがついていて、そこには健二のものらしい自転車も置いてある。正月を迎えるために綺麗に清掃された玄関には灯りが点いていて、どうやら中に人がいることはわかった。
佳主馬は深呼吸する。
(外でインタフォン押さなかったから。変に思われるかも)
普通の客はマンションの入り口で尋ね先の部屋番号を押して住人に自動ドアを開けてもらう仕組みだ。いきなり玄関のインタフォンを押したらびっくりするかもしれない。
また戸惑っている。
OMCでこんなにぐだぐだになっていたら、間違いなくKOされる。
自分らしくないと思いながらも、佳主馬は4度目の深呼吸の後で、ボタンに触れている人差し指に力を込めた。
「……っ!」
中で反応があって、ばたばたと誰かがやってくる。
思わず逃げだしそうになるが、足が動かない。
がちゃり、と目の前のドアが開いた。
「はい? どちらさまで……」
懐かしい声がした。スピーカー越しではない。直接耳に届く声だ。
佳主馬は、この声が聞きたくてたまらなかった。
「佳主馬くん? どうしたの?」
健二が目の前に立っていた。よほど驚いたのか、目がまんまるだ。
「健二、さん……」
声がびっくりするほど震えている。
慌てた様子で玄関から外に出てきた健二は、紺色のダッフルコートに白いマフラーを巻いた佳主馬の目の前に立ってにっこり笑った。
「佳主馬くん、久しぶり」
「あ……」
一気に顔に血液が集まる。顔を見ただけで泣きそうになった。
この顔を見たくて、どうしようもなかったのにいざ目の前にすると震えて言葉も出てこない。
ただ、胸がいっぱいで涙を必死にこらえているのが精いっぱいだ。
「外、寒いだろ? 中に入りなよ。聖美さんたちにはちゃんと言って来たの?」
「あ……」
慌ててこくりと頷くと健二は「そっか、ちゃんと言ってきたんだったら平気だね」と笑った。
「佳主馬くん、やっぱ5センチ……あ、5.2センチか。って大きいなあ。なんか、すぐに身長越されそうだ」
「健二さん……」
何も聞かずに招きいれようとする健二の名を呼ぶと「なんだい?」とちゃんと応える。
健二は最初から佳主馬を対等に扱ってくれていた。
何かが内側で溢れていく。
「健二さんが、大晦日、一人だって……聞いたから……」
それだけ言うと、佳主馬は紅い顔のままうつむく。
「ありがとう」
「うん……」
そのまま二人して黙り込んだ。と。
「健二? 誰? お客さんなの?」
背後から声がかかった。佳主馬ははっとして身を固くする。
「大丈夫。ウチの母だよ」と健二は笑って、佳主馬の手を握り締めた。
おかげで、どうやら盛大な勘違いをしていたらしいと気がついたのに佳主馬は逃げられない。健二は背後に向かって声をかけた。
「佳主馬くんだよ。ほら、夏にお世話になった陣内の」
(そっか……健二さん、家族と年越しするから……だから……)
考えてみれば当たり前の話だ。
つきあってるカノジョの実家に越年しに来るなんて、結婚でも決まっているのならともかくそうそうあることではない。
夏希が必ず連れてくると思い込んでいた佳主馬の方が早とちりだったのだ。
あまりにも恥ずかしくて逃げてしまいたい。だが、健二の手ががっちりと佳主馬の手をにぎりしめているから、逃げられない。
「佳主馬くん、今日はどこに泊まるの?」
「あ……健二さん、の顔見たからこのまま上田に戻る……」
健二の顔が曇った。
「だめだよ。一人でなんて帰せない。明日、送っていくから」
「そんな……」
「せっかく逢いにきてくれたんだから、僕は佳主馬くんとちゃんと話をしたいよ」
健二はあっさりと佳主馬の足をその場にくぎ付けにするような一言を言う。
そうしてさっさと「佳主馬くん、今日は一人だって言うからウチに泊めるよ」と、閉じられた扉の向こうに向かって宣言してしまう。
相手は戸惑ったようで、慌てていきなり現れた客の席を用意しに立ち去る気配がした。
「僕、勘違いしただけだから。健二さん一人きりだって……そんなわけないよね。帰るよ。ごめん、健二さんのお母さんにも謝っておいて。ホントに早とちりしてて……」
「佳主馬くんは僕を心配してきてくれたんだろ? 謝らないで」
健二にそう言われると泣きたくなる。
もうこの人の前では何度も泣き顔を見せているから、いっそ泣いてしまってもいいのかもしれない。
(でも、それ、悔しい)
健二の顔はまだ少し上にある。次に逢う時までにはせめて同じ目線になっていたい。
どれだけこの人が自分を対等に扱ってくれていても、やっぱりまだ身長差以上に見えない差があるのだと佳主馬は思う。
「健二さん……」
どうしていいかわからなくて、佳主馬はやっと逢えた健二の名前を呼ぶ。
「なんだい?」
どこまでも優しく笑うこの人を、どうしても夏希にも誰にもやりたくないと、強く思った。
「佳主馬くん……?」
気付いたら背中に手を回して抱きしめていた。他人が見たらきっと大木にセミが停まっているようにしか見えないだろう。
それでも、佳主馬はしっかりと健二を抱きしめた。
「……待ってて」
小さく囁く。
「待ってて。僕は必ず健二さんを守れるようになるから」
「佳主馬くん……」
「あなたを決して一人にはさせない。心細くもさせない。全部で守れるようになるから。待ってて」
健二の鼓動を直接聞いている。はじめて覚えた心と、佳主馬はやっと向き合っているのだと思った。
やがて、頭上からかすかに声が落ちてくる。
「……うん」
きっと佳主馬は、ずっと先になってもその声を忘れないと思った。
それは、短くて小さくてかすかな、だが、この世の何よりもきれいな響きを持って佳主馬に届いた。
「すごく、うれしい……そう思ってる僕はどうかしてるのかな?」
健二の腕が背中に回る。
そうして、二人してしばらく強くじっと抱きあっていた。