●● ケモノのうたたね * 健二 ●●
ディスプレイを凝視し続けていたせいで少し目の奥が痛い。
健二は眉間を指でマッサージするように擦る。
リビングの方に目をやると、佳主馬の黒い頭が見えた。
「佳主馬くん、コーヒー煎れようと思ってるんだけど。飲む?」
返事がない。
OZのメンテナンスバイトは高校の時からずっと続けている。部門のバイト連中をまとめる統括チーフとなった今では、結構複雑なところまでかませてもらえている。
末端の末端の末端。から、末端位には地位が上がった。
ほかの多くのバイト連中と同様、このままOZの正社員採用試験を受けてみるのも悪くない選択肢かもしれないと健二はぼんやり思い始めている。
ちゃんとした就職先は必要だ。と、健二は最近真剣に考える。
健二の成績とゼミへの貢献度からあと数年「学生の時間を引き延ばさないか?」と、教授からそれとなく打診されているが、それも永遠ではない。
さすがに大学に残って准教授や教授、というところまで行けるほどの政治力が備わっていないのは自分でもわかっている。
以前には考えもしなかったそんな未知の能力について思い至る様になったのは、もちろん恋人の影響が大きい。
健二が呼んでもぴくりともしない黒髪の持ち主は、まだ未成年だが生来の血がなせる業なのか、かなり、すごい。
大人を相手にまったく退かずに渡りあう度胸とセンス、そのバランス感覚の妙は、間違いなく傑物だった曽祖母譲りだと健二は確信している。
(……焦っても仕方ないんだけどね)
劣等感を抱いたことはない、と言ったらうそになる。それでも健二は佳主馬のことを「必要だ」と思っているし、ずっと「一緒にいたい」と願ってしまう。
返事をしない黒い頭を見つめながら、最近自然に「永遠」を考えている自分を健二は知っている。
「永遠って……」
思い浮かんだ単語の意味が持つ、重さと切実さに健二は一人で赤面した。
テレをごまかすために「佳主馬くん?」と声をかけながら、立ち上がった。
いつも二人で食事をするダイニングテーブルの上は、健二のノートPCといっぱいに広げたレポート用紙とで板面が見えなくなっている。相変わらず本気で数列と取り組む時にはペンとレポート用紙が一番集中できる。
佳主馬のいる方のテーブルはこれよりはまともな状態だろうと目星をつけて覗きにいった。
リビングのソファで、佳主馬はさっきからずっと契約更新の書類を吟味しているはずだ。数社分の更新時期が近づいてきているそうで、プリントアウトした紙の束は相当な厚さになっていた。
一項目漏らさず目を通して吟味しておかないと、後で面倒なことになるかもしれない。のだそうだ。
その心構え自体がすでに健二とは次元が違う。
とはいえ、もう慣れた。
佳主馬と出会った夏以来、もしかしたら自分は案外適応能力が高いのかもしれないと気がついた。
一回腹をくくってしまうと「それはそれ」と割り切る。そのスキルを身につけたら、結構楽になったことは多い。
スリッパの足でフローリングの床をぱたぱたと歩く。その間に、お茶の計画を練った。
コーヒーを二杯煎れて、それから昨日研究室からもらってきたクッキーを出そう。佳主馬のいるソファの前のローテーブルに広げて、一緒に食べるのだ。
頭の中でそれだけのプランを固めると、健二は佳主馬に同意を求めることにした。
きっと否はないはずだ。
ところが。
「佳主馬くん……?」
数枚の紙が床に散らばっていた。低いソファに頭を預けて、佳主馬が寝息を立てている。
「あ……寝ちゃってたん、だ……」
気がついて、語尾が小さくなった。
佳主馬の手の中にはまだ十枚ほどの紙が残っている。ソファの上に、付箋紙が転がっていた。
いつから寝入っているのだろうか、近づいてきた人の気配にも気付かずにすやすや眠っているようだ。
「……よく寝てる」
佳主馬の寝顔にはまだあどけなさが残っていると、健二は思う。
二人同じベッドで過ごす夜、ふと目覚めるといつも横にある寝顔を見る度、はじめて会った頃の13歳の佳主馬を思い出す。
佳主馬は、優しくて強くて計り知れない一族の一員でありながら、どこか群にはぐれているような孤高の空気を持つ一面があった。まだ彼が少年の入り口にいた頃だ。
健二だけでなく同世代の連中ならみんな心の底にひそやかに夢見る、OMCのチャンピオンの称号を頭上に輝かせているこの世でただ一人の人だというインパクトのすごさは、未だに忘れられない。
その輝くような才能と強さは、健二にとっては強すぎる光だった。
出会った時にはもちろん、まさか数年後肌を重ねる間柄になるとは思っていなかった。佳主馬の母親に言わせれば、最初から健二は佳主馬に「とても気に入られていた」ということらしいがよくわからない。
閉じたまつ毛の先、唇の上、今もわからない佳主馬の好意の理由を探したくなる。
「……っと、呆けてる場合じゃないな」
健二はともかく佳主馬に風邪をひかせるわけにはいかないと、寝室から毛布をとってくる。
「そーっと。そっと」
頭の中で呪文を唱えながら、佳主馬の手に残った契約書を取り上げる。起こさないように注意しながら毛布をかけてやると、床に落ちた分の紙を拾った。
さすがに内容を見るわけにはいかない。ページ番号だけを確かめて、順番に重ねるとテーブルの上に揃えて置いてやる。
慎重に行動したつもりだが、それにしても佳主馬は目覚める気配がない。
(夕べだってふつうに寝たのになあ)
今は健二のレポートの締め切りが近づいている関係で、共寝も数日お預け状態になっている。
(そんなに疲れるようなことしてない、よね?)
佳主馬には、特に家事を押しつけてはいないつもりだ。
(学校、忙しいのかな?)
一緒に生活をしているとはいえ、さすがに大学でどうしているかまでは知らない。まだ佳主馬が制服を着ていたころの方が、具体的に知らない時間の行動が見えていた気がする。
静かに眠る佳主馬を見下ろして、健二は微笑んだ。
「かっこよくなっちゃって……」
まなざしの鋭い、少しだけ周囲から浮いていた少年は、今はもう背の高い青年になってしまった。
外を一緒に歩いていると、ちらちらと女の子の視線が佳主馬に刺さるのを感じる。それは健二を誇らしいような、悲しいような、複雑な気持ちにさせる。
健二は相手が眠っているのをいいことに、思う存分恋人を眺めることにした。
佳主馬の意識がある時は、できるようでいて恥ずかしくてあまりできないことだ。こんなチャンスが持てるのは、一緒に暮らしているからこその特権だ。
大人の男になっていく途上の今、佳主馬の輪郭はシャープで無駄がない。真一文字に結んだ口元や、まつ毛の先にまだ過ぎた日の幼さがわずか残っている気がして微笑ましくさえ感じる。眉間にちょっとしわが寄っていて、どうして眠っている時に難しい顔をしているのだろうか? とおかしくなった。そう言えばはじめて会った時も、不機嫌な顔をしていたなと思いだす。
そうして、懐かしい面影を探しているのは心楽しい。
だが健二は、もう佳主馬が出会った頃の少年ではないということも知っている。
(声、かっこいいんだよな……)
健二は少し声が低くなった佳主馬がどんな風に「健二さん」とささやくか知っている。その響きがどれほど健二をぐずぐずにするか、よく知っている。
(それと、やっぱ目? 光が強いんだ。絶対、他の人と違う)
まっすぐ人を見つめてくるのは、出会った頃のままだ。何も隠すことができない。あやふやなのを許してもらえない。
身体の真ん中に、鮮烈な冷たい水がまっすぐに落ちてくるようなそんな視線があるのだと、健二は佳主馬に出会ってはじめて知った。
見つめられたら身動きできない。うそもつけない。ごまかせない。
(あと、手……)
今は毛布の下にある拳法家の手は、節が太い他は健二とさほど変わらないように見える。突出して大きいわけではないし、節はともかく指全体はそれほど太いわけではない。
(手のひらとか、硬くて気持ちいいんだよね)
佳主馬以外の格闘家の知り合いはいないが、健二の手とは違う「戦う手」をしていると勝手に思っている。
佳主馬の手は武器そのものだ。段位に興味がないからと、少林寺拳法の昇段試験(もっとも、正式には少林寺拳法に段位のようなものは存在しないそうだが)を受けていないが「多分、師範代くらい」とさらりと言うのだから、間違った比喩ではないだろう。
その武器が、健二に触れる時はとびきり優しいのだ。
「……」
佳主馬を起こさないように、細心の注意を払いながら空いている右側に滑り込む。三人まで掛けられるソファの真ん中でぴたりとくっついてみた。
(何、やってんだろ……)
佳主馬が目を覚ましたらいいわけできない。それでも、このところレポートに集中しなくてはいけない、という理由で遠ざかっていたスキンシップがうれしいと思っている。
佳主馬はよほど深い眠りに落ちているのだろう。全く目覚める気配がない。
(格闘家って、こういう気配に敏感じゃないと寝込み襲われたらやられちゃうんじゃない?)
現代の日本で、家でうたた寝をしているところにどんな悪漢が襲ってくるのか想像しづらいが、健二は勝手にそんなことを考えてちょっとおかしくなった。
健二は少しだけ大胆になって、毛布の下に手を忍ばせる。そっと指先だけを佳主馬の手に触れてみた。
「……」
どきどきしながら隣の様子を伺う。やっぱり眠ったままの佳主馬に「やった!」とほのかな勝利の気分を味わう。
健二の好きな佳主馬の手は、眠っているためにほんのり熱を持っている。
この手と指は、健二の身体の隅々までを知っている。どちらかといえば淡泊なはずの健二に、簡単に火をつけることができる。
それだけではない。
全世界に熱狂的なファンを持つ、OMCの伝説のチャンピオンであるキング・カズマを操り、鋭い拳を放つこともできる。
恋人の大きさに、時々圧倒されてしまうのは仕方がない。
佳主馬はいつだって「すごいのは健二さんだ」と言ってきかないが、やっぱり佳主馬の傍にいると小さな自分を感じずにはいられない。
時々それはしんどくて、大体は誇らしい。
いつまでも一番側にいたいと、願ってしまう。
健二は知っている。
佳主馬は悔しいと、感情を爆発させて涙を流す。涙だけじゃなく鼻水まで垂らして、全身で震える。
かなわない相手には、時々屈服する。
それが悔しくて周囲に八つ当たりだってする。
はじめて出会った夏、何度かそういう姿を見た。
今でもそれは変わらない。
限りなく完璧に近いけれども、やっぱり完璧ではない。
健二はそれをちゃんと知っている。
(でも、かっこいいよ)
佳主馬はそれでも、最後にはちゃんと立ち上がれる。
出会った最初の夏であきらめないしぶとさを身につけた、と言っていた。
好きになったのは、佳主馬の方が先だった。
「僕は最初に会った時から好きだった」「僕の方が先に健二さんを好きになった」という主張は佳主馬の中のもっとも強い意見なのは間違いないし、健二も異論はない。
佳主馬がずっと健二を想い続けてくれていなければ、今のこの溢れるような感情はどこにもいなかっただろう。
健二は注意しながらもう少しだけ佳主馬に身をすり寄せた。
健二のと同じボディシャンプーの香りがする。
その香りが心地よい。
同じ香りを漂わせているという事実が、健二を安心させる。
(ずっと……一緒にいたいって思うのは、僕のわがままかな?)
佳主馬は将来を嘱望されている人だ。健二がいつまでも独占しているのは、社会的損失なのかもしれない。
(でも、僕はいたいよ)
目を閉じた。
最近、本気で「永遠」について考える時間が増えた。
そのための手段を本気で考えているのは、ずるいだろうか。と思う。
佳主馬に直接それを言わないのが、今のところの健二の最後の防衛線だ。
お互いに相手を想う気持ちは同じかもしれないが、きっとその質感は異なるのだろうと思う。
熱く激しいか。
深く静かか。
そのどちらがより想いが強いと言えるのか、健二にはわからない。
だが、心の奥深くまで達した佳主馬への恋心はもう、健二自身のよって立つところになってしまっている。
離れられるわけがない。離れたくない。
こんな気持ちを広げてみせたら、佳主馬はどう思うのだろうか。
実は少しコワイと思っている。だからまだナイショだ。
(気持ち、いい……)
柔らかな眠気が落ちてくる。
そう言えば、ここのところ毎晩眠りが浅かったように思う。
ベッドの中、手をどこまで伸ばしても佳主馬に触れられない。この家にベッドは一人にひとつずつあるのだから、本来はそれが正解のはずなのに、それだけでもう神経が過敏になってしまう自分がいる。
もう、一人より二人で眠る夜になれてしまったということか。
(なんか、悪くない……かも)
でもそれもやっぱり佳主馬には言うまいと、健二は落ちていくまどろみの中でそう思った。
(ちょっとだけ。ちょっとだけ寝て、起きたら、コーヒー煎れよう)
健二はそう考える。
二人分のマグカップに、健二はブラックで。佳主馬はカフェオレにして。少し冷ましてから出してやるのも肝心なところだ。それからお茶受けにもらってきたクッキーを出して。
一息ついたら、たまには自分から誘ってみるのもいいかもしれないと健二は思う。
(契約書……は、今すぐ確認しなくても平気……の、はずだよね?)
言いわけを瞬時に構築している自分が、健二はおかしかった。
少し、佳主馬が足りない。
分析するとそういう結論に達する。
夜も一人で寝ているし、軽いキス程度のことしかここ数日していないではないか。すぐに触れられるほどの距離にいながら、それではストレスが溜まっても仕方がない。
(佳主馬くん……)
心の中で名前を呼ぶだけで、甘い気持ちが湧き上がってくる。
佳主馬の主張している通り、確かに最初に好きになってくれたのは相手の方からかもしれない。だが、今は健二だって同じ気持ちなのだ。
そこは時々でもいいからちゃんと主張しておこうと、眠りに落ちていく意識のわずか残った最後の一片で健二は思った。