真夜中の秘め事〜ナース・泉〜
「おー、これなら退院許可出せるぞ。よくがんばったなー」
西浦総合病院きっての人気医師との呼び声も高い内科医師・浜田は、にっこり笑って花井くんの坊主頭を撫でた。
「ホントっすか?やった!」
小さくガッツポーズする花井くんはインフルエンザから気管支炎を併発して一週間ほど入院していた。
元々運動部で鍛えていただけあって、経過はすごぶる順調。それぞれ年齢の異なる六人部屋の患者さんたちからも評判がいい。手のかからないいい患者だ。礼儀正しいしな。
年明けには高校受験を控えている彼は中学ではずっと野球をやっていたとか言うので、元高校球児のオレとは話がしやすいって言っていた。
「孝介さん、やった!オレ、退院だって!」
よっぽど嬉しいんだろう。喜色満面の笑みで、浜田医師の横に立っていたオレに報告する。
「孝介さん」と花井くんが呼んだ瞬間、わずかに隣に立つ男の身体が反応する。一瞬、心を冷たいものが流れていったが、オレはつとめて明るい声を出した。
「横で一緒に聞いてたっつーの。よかったな。てか、受験がんばれよ。西浦受験すんだろ?」
「はい!がんばります!」
浜田は隣でオレと花井くんの会話を聞いている。
「へえ。西浦受験すんだ。受かったらオレらの後輩だな、泉」
にやにやしながら尋ねてくる口調がもうコワイ。
浜田の考えていることだったら、大体わかる。
「え?浜田先生も西浦だったんスか?」
「そーそー。オレ、泉と同級生だったんだー」
にっこり笑って、看護士服を着たオレの肩をさりげなく抱き寄せる。浜田から漂うオーラがとてもコワイ。
「じゃあ、退院の旨、事務方に伝えてくるわ。花井くん、あとでお母さんがきたらナースステーションに寄るように伝えといてな」
オレは浜田の手をごくごく自然にはらいのけると、きびすを返す。
「泉、今日日勤?」
病室の入り口までほんの数歩。あっという間に浜田に追いつかれた。
「……ああ、もうちょっとで申し送り」
「へえ……」
静かな声でそう言うと、浜田はさりげなく半そでのナース服から伸びたオレの腕に指を滑らせる。
「……っ!」
「特別病室の三橋さん、今朝無事に退院したみたいだな」
そうしてささやくように言うと、にっこり笑った。病棟の誰からも愛される浜田スマイルだ。タチが悪いったらない。
「ああ。浜田に最後に会って礼が言いたかったって、残念がってたぞ」
「だって用事があったからさー。いいんだよ、別に」
間近の浜田の笑顔を見ていると、オレは胸が少しだけ痛む。ほんのわずかだけど、致命傷かもしれないとつい思ってしまうような痛みだ。
その痛みの原因である内科のエースはにこにこしながら耳元にそっと唇を近づける。
「オレ、今日は夜勤」
「で?」
魂胆なんてわかっている。だから、心の中の動揺を悟られないようにごく短い返事をした。
「別に。それだけだよ。さ、そろそろ阿部医師も帰ってきてるだろうし。医局戻って申し送りしなきゃな」
浜田はそう言うと、オレのケツを上から下までぞろりと撫で、一度ぎゅっと掴むとそのまま出て行く。
「てめぇ!」
「泉看護士〜。病院内で大声出さない」
背中で言われてオレは大きくため息をついた。
「孝介さん、浜田先生と仲いいなーって思ってたら、同級生だったんスね」
ベッドの上で花井くんが明るく笑って言った。
「……まあ、ね」
浜田はくったくのない性格で患者さんからのウケがいい。今のアレだって、一流の緩和剤くらいにしか見えていないに違いない。
なあ、花井くん?気づいてねえかもしれないけどさ、あいつが冗談に紛らわせて身体触んのってオレだけなんだぜ?
……多分、な。
家にたどりついたのは、結局夜七時。ポストに何か荷物が突っ込んである。差出人もあて名書きもしていない。直接ポストに突っ込んでいったらしい。
「……?なんだ?」
手にしてみると、中身は頼りなくくったりと折れる。感触からして洋服か何かだろうという見当はついた。荷物を降ろして開梱にかかろうとした途端、携帯メールの着信音が鳴った。
プレゼント、見たか?
浜田からのメールだ。それで、この包みの送り主が判明する。
「絶対、ろくなモンじゃねえよな」
開封を中断して放り出す。多分、中身を見たら脱力するか怒りに震えるかどっちかしかない。
と、オレの行動を察しているぞ、と言いたいのかまたメールが入る。
オレ、今日夜勤だから
それは、さっき聞いたよ。と思いながら、なんとなく「早く開けろよ」と催促された気分になる。ムカついてわざとゆっくり風呂と食事の時間をとってから、開けてやった。
「……」
浜田が遠くで笑ったような気がした。
今日は比較的平穏な夜だ。
夕方の申し送りの時に報告を受けた範囲では、今夜特に緊急の事態になりそうな入院患者はいなかった。
301号室の田島さんが高熱を出したのと、同じく323号室の沖さんが夕食後激しい嘔吐を示した、それから夜間外来できた巣山さんが急性の虫垂炎だったため、外科に連絡を取ってとりあえず今は薬で散らしてある。朝イチで手術ができそうで、首尾は悪くない。
それくらいか。
平日の夜のせいか、大虎になった酔っ払いが運び込まれる時間帯も本日は処置ゼロでそろそろ終わる。
「うーん、来るかなー」
うきうきしながら、オレは携帯を眺めている。目を通す文献はそっちのけで、病院に来る前にポストに入れてきたものを見ただろう泉の反応を想像してついにやにやしてしまう。
「ちゃんと二度も念押ししたしなー。でも、泉なら五分五分かもなー実際」
オレの愛人は、一筋縄ではいかない。でも、すげーかわいい。
めいっぱいかわいがっても、なかなか折れて腕の中に倒れこんでこないところがまたたまらない。
今日は夜勤で、特別病室の三橋さんが退院した、とちゃんと伝えてある。これで今夜来てくれなかったらオレとしては非常に切ない。
「まあ、来なかったら来なかったでお楽しみが後になるってだけだしな」
そっちの可能性の事後も想像して「それはそれで悪くないな」とにんまりする。
机の上に置いてある携帯がメールの着信を告げる。
「……」
オレは携帯のフリップを開けると、泉らしい短いメッセージに目を走らせてから立ち上がった。
特別病室は、病院の8階。
エレベーターで上にあがるとしんと静まり返った真夜中の病棟を歩く。今夜は星もない。廊下の窓から夜空を見上げても、心楽しいものは目に映らない。
オレのかわいいものは地上にある。
801号室のドアを開けた。
目の前には薄い緑のカーテンが揺れている。
後ろ手にドアを閉じ、カーテンをくぐって室内に入った。
広さは十畳ほど。専用のバスとトイレ、洗面所。訪れる客のためのソファセットに、患者のベッドはセミダブルのサイズだ。入院中の荷物を入れるための作り付けの家具も含めて、全てが上質の素材とゆったりとした間取りで作られている。
狭苦しい病室を嫌う裕福な患者さんのために用意されている部屋で、議員だの会社社長だのそういった人間たちが主に利用している部屋だ。
灯りは点いていない。カーテンが開け放たれたままの窓から入る夜の光も、星のない夜ではたかが知れている。
患者の退院と同時に外されたはずのベッドカバーもシーツも、毛布もきちんとセットされている。手際のいい人間の仕事だと暗がりでもわかるそれに、オレは思わずにやりとした。
ベッドには、誰かがうつむいたまま腰掛けている。
「泉……」
声をかけると、人影は少し震えた。
「泉、着てきてくれたんだ……すっげ、うれしいぞ」
生地の色は薄いピンク。好みとしては断然ワンピースタイプ。ストッキングは白。
それらを身につけて、泉はなんだか居心地悪そうにそこにいる。
「ナースキャップは?一緒に入れといただろ?」
傍らに腰かけると、泉がふいと顔をそむける。その仕草がたまらない、と教えたらどうするんだろう。
泉はオレがそんなこと思っているなんて知るはずもなく、角型のオーソドックスなキャップを突き出した。
「つけ方、わかんねえよ……」
このかわいい生きものだけは、絶対他にはやれない、とオレは心から思う。
最近の病院は主に衛生面の考慮からナースキャップを採用していないところが多い。西浦総合病院も数年前に廃止している。
もっとも、男の泉はいつもジャケットとパンツの看護士服姿だから、例えここにナースキャップが生き残っていたとしてもかぶることはないのだが。
戴帽式の時だって、泉は男だからナイチンゲール像から灯火をもらっただけだった。
「ピン、一緒に入れておいてやっただろ?」
「……」
ベッドの上に投げ出してあったピンと一緒にキャップを受け取ると、オレはゆっくり噛んで含めるようにして説明してやる。
「左右のミミの部分をこうやって合わせて、ピンで留めるだろ?それから、ここの真ん中のかぶりのとこを内側に……こう。それから両側の耳と一緒にピンでとめて」
泉の頭にぱりっと糊のきいたキャップをかぶせていく。「それから、ここの前たての部分をだな、ひねるようにして立ち上げて……よし、こんで頭にかぶせてピンでとめるっと。できた」
俯いたままの泉は闇に沈んでいる。
暗がりの中ではせっかくの装いもよく見えない。
「灯り……」
「点けんなよ」
俯いたまま抗議された。オレはにやりと笑って「だって灯りをつけなきゃ泉のかわいいところよく見れないだろ?」と耳元に唇を寄せる。びくりと震えて顔をそむけるようにする仕草がたまらない。
「ナースの子たちが先週新作カタログ見ててさ、結構いい感じのがあったから、この病院でオレが一番似合うって思ってるコに着せてやんなきゃウソだって思ったんだよな」
「……変態ッ」
「かわいいコに服を買ってやんのは男の甲斐性だろ?一応それ、ブランド物だし。泉は放っておくとセール品の二十年落ちくらいのジャケットとパンツしか身につけねえし」
からかう声に泉がむっとした表情で泉が言い返してくる。
「セール品着てるからって、仕事に支障をきたすわけじゃねえだろ。常に清潔で動きやすい看護士服ならなんだっていいんだよ。汚れるのわかってんのに高いヤツなんかいらねっつの」
「オレが、つまんねえだろ?せっかくかわいいんだから、着飾りたいって思うのは仕方ない」
言いながらあごの輪郭を舌で舐め上げてやれば、泉は身をすくめて声を殺す。
その隙を逃さず、手を伸ばしてベッドサイドの灯りを点ける。淡いオレンジの光の輪の中にナース服を着た泉の姿が浮かび上がった。
思っていた以上にかわいい。異常にかわいい。やっぱりワンピース、しかもちょっと値段はかわいくないが誰の目にも明らかに群を抜いた洗練さを持つデザイナーの新作にして大正解だった。
男の制服願望は伊達じゃねえ。
基本パターンが決まっているものだけに、襟元のカットや裁断のセンスで同じ様式のものとは思えないほどのきらめきを放つ。もちろんモデルも重要だ。どんなにいい服だって誰が身につけるかで輝きの度合いが異なってくる。
相手に自分好みの服を着せたいのは、男の征服願望のあらわれだとオレは思う。
泉は男のくせにそういう、繊細なこだわりに欠ける。ロマンを理解してもらえないのは残念だ。まあ、センス抜群で素材としての自分を知りつくされていたらオレの気の休まるヒマがなくなるというものだ。
それに、泉は母親のお腹の中にしゃれっ気を忘れてきているようなところがいいのだ。
「立って、よく見せろよ。せっかく泉のために買ったんだから」
オレの声に泉はふらふらと立ち上がる。オレンジ色の灯りの中で、オレの目の前に立ってみせるが、視線を合わすことはできないらしくて、伏せたままだ。
「すっげ……かわいい……」
「てめぇは、かわいいとか言ってんじゃねえよ」
屈辱に耐えて、そう言う姿も最高。
「かわいいぞー?世界中に見せびらかしたいような、でももったいないような、悩むな、実際」
「……っ!」
勝ち気で強気で負けん気の強い泉が、オレのためだけにナースのワンピースを身につけた。そうして、万が一にでも職場の同僚に見咎められる恐怖に震えながら、一人恥ずかしさに泣きそうになりながら、待っていた。オレだけを。
わざとオレに仕向けられたとわかっていて、泉がそうした。
これでかわいいと思わないわけがない。
いやいやこれを着た心情を思うと、ますますかわいがりたい気持ちが募る。
「かわいそうだから、部屋の電気は点けないで許してやるよ」
「てめぇ、絶対許さねぇ……」
怒りに震える声も、何もかも、オレのだ。もう少しいじめてやってもいいだろう?
「そう言いながら、ちゃんとオレの贈ったナース服身につけてくれたのは誰だよ?白いストッキングも穿いてくれたんだな。オレ、絶対ナース服の下は白ストッキング派。こういうのは古典美にこだわらなきゃウソだよな」
短めのスカートから伸びるすんなりとした足は、同僚の女性ナースたちから羨望の眼差しを受けるレベルだが、女の子と違ってかつて身につけた走るための筋肉のなごりがある。すね毛はさほど濃くないが、それでも白いストッキングの中で存在がわかる。
グラビアアイドルとは違う、でもオレには充分そそる脚だ。
「にやにやしてんじゃねえよ」
「したくなるって、実際。なあ、泉?」
手を伸ばすと、泉は一歩前に進み出て、オレの脚の間に立った。それでこの獲物はあっという間に射程距離に入る。
「……っ!」
腕を掴んで引き寄せる。抱きとめた耳元に囁いた。
「なんで、これ着てきてくれたの?」
「……」
「オレがかわいそうだって思ったからか?」
「……っ!」
正直な泉は、言葉にしなくてもその本意が手に取るようにわかってしまう。
逃がさないように抱きしめる腕の力を強めながら、オレはなおもささやく。
「ここの病室に入ってた三橋さんが原因か?」
言いながら、耳をぞろりと舐めた。
「……違っ!」
「事故ってなかったら、オレは三橋さんの執刀医だったかもしれないのにな」
「……っ!」
「指先がひきつってあんま動かなくなってるオレじゃ、繊細な施術が要求される外科手術はこなせない。わかってるよ、そんなこと。自分が一番よく知っている。だからこそ、内科医に転向したんだし?」
インターン時代に事故で肘をやった。完治はしたものの、後遺症が若干指先に残っている。
おかげで志望していた外科医の道は閉ざされた。日常生活にはさほど支障をきたすわけではないが、効き手の指先がはためでそれとわかるほどひきつってあまりうまく動かせない。
血管や神経を傷つけないように細心の注意と細かさでメスを扱うことを求められる外科医になるには致命的だ。
結構将来を嘱望されていたようだが、ケガの回復後に恩師に打ち明けてみたら心臓外科の専門医は諦めるようにそれとなく諭された。
泉は、そのことを知っている。
三橋さんの心臓疾患の可能性について指摘したのはオレだ。
内科医としての所見を述べ、その意見に従って検査を行ったらどんぴしゃで問題の箇所が見つかった。
そのおかげで三橋さんは無事に適切な手術を終えたし、順調に回復して本日退院の運びとなったのだから、オレとしては問題はない。
問題があると思っているのは泉だけだ。
「担当した患者さんの手術の度にそんな風にオレに同情していたら、いつか取り返しつかないこと要求されるぞ?お前?」
泉の頬を両手で包んでそう言うと、少し顔を歪めて「違ぇよ」と応える。
「別に、同情なんか……してねぇよ」
「そぉかぁ?ならなんで、こんな格好してくれてんの?」
「別に……ただちょっと……面白いんじゃね?とか思っただけだ」
少し口ごもって泉が俯く。
面白がって女装をしている人間の反応とはとても言えない。
オレとしては、大歓迎だ。
恥じらう泉なんて貴重なものはそうそう見れるもんじゃない。
いつもはどちらかというと強気で、問題児の患者さんにも毅然とした態度で臨んでいるのが常だ。世渡りは見ていて危なげなくできるから、仕事を一方的に押し付けられるような羽目にもならない。
いつもオレの手なんかなくても平気だと、顔をあげて廊下を歩いている。
オレは手の中の頬を指で撫でると、片手を背中に落とした。
滑らかなコットン地の背中をつい、と辿って下ろしていく。
泉の身体が大きく震える。一瞬腰が引きかけ、それでも思い直したのか、気丈な様子で逃げずに立っている。
(ホントに……)
泉の美点は結構多いと思うが、一番はこの勝ち気なところだとオレは思う。
強く当たれば当たるほど、同じ強さで立ち向かおうとする。
そこが、たまらなくそそる。
わかっていてやっているのか、それとも無意識か。
オレにしてみれば、どちらでもいい。
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