はつはるの巫女




 新年まではあとわずか。
 泉はお仕着せの緋袴にぴんとした白の小袖と足袋を身につけぱたぱたと磨き上げられた長い廊下を歩いていく。
「よー、泉。巫女さんの装束すげー似合ってんな」
 ふいに、濡れ縁の向こうの障子が開いて浜田が顔を出した。
 こちらは、白袍、白差袴、冠を身につけている。いわゆる斎服といって、元旦の神事などの時に神主が身につける正装のひとつである。
 泉は足を止めて、まじまじと浜田の姿を頭の先から足元まで凝視した。
「なんでてめぇがそんな服、着てんだよ」
 斎服をほんの二時間ほど後に正月を控えている今この時間身につけているのは、この神社の神主以外にありえない。
 少しイヤな予感がしたが、尋ねずにはいられなかった。
 用事があって、いつもの年よりかなり遅い時間に神社にきたら「とにかく早く巫女装束に着替えてくれ。折り入って頼みがある」と奥さんに言われた。
 奥さんとは、泉の毎年恒例のバイト先であるこの神社の神主の妻にして浜田の母のことを指す。
 中学にあがった年から毎年の年末年始、泉は幼なじみの親が神主を務める神社に手伝いにくるのが習慣になっていた。高校受験の年でさえ「ご近所で仲良くしてもらってるおうちの手伝いだから」と親が黙認してくれた。泉にとって生まれてはじめての、かつ馴染みのバイトだ。
 もう外はとっぷりと陽も暮れて境内のあちこちに篝火が焚かれ、大みそかの神社の夜を守る氏子会の人々が詰めている。二年参りの人々も結構集まってきていて、年越しの神事が始まる頃には初詣客でごった返すこと間違いない状態だ。
「オヤジが先週風邪で倒れてさー。もう大分いいんだけど喉やられてて声ガラガラ。商売道具があれじゃ、使い物にならないけど神事はやらないとだろ?だから今年はオレが代打。泉、一の巫女は去年と同じくお前だ。オレが指名した」
「……断る」
 泉がぶすくれて言うと、浜田はにっこり笑った。
 ムカつくことに、長身に神職の正装が嫌味な位に似合っている。普段のちゃらんぽらんな様子がうそのようだ。
 神主が風邪で「ヤバい」というのは神社に来た時になんとなく聞かされていた。
 では誰か他に神事を執り行える者がいるのか?年越しの神事は例年大人気で、参列希望者は十一月の頭には締め切られ、抽選が行われた位だ。今さら中止にはできないだろう、と巫女バイトの間で噂が飛び交っていた。
 どうやら、代替え案としてまず一番最初に囁かれていた「長男による代理神主説」が採用されたらしい。
 泉は、その場合自分が神主のパートナー役と言える、一の巫女に指名されるのだろうな、と、うっすら予感してはいた。
 奥さんの頼み事というのも、間違いなく浜田の申し出と同じものだろう。
 きっと断れない。断れないが、一応抵抗だけはしておきたい。
「去年やったからもういいよ。あれ、腕しびれるし、何気に肉体労働だし」
「だめだね。神職の意思は尊重されんだよ。バイト代、一の巫女だとご祝儀入る分、倍くらい違うんじゃね?新しいグラブ買えっぞ?」
「うう……」
 ここの神社は大みそかの夜から年が明ける時間まで、新しい年の年男・年女に対しての祭祀を執り行う慣例がある。
 ご神体と向き合うのは神主と一の巫女のみ。御簾と几帳を隔てた向こうには、新しい年の年男・年女たちが粛々として居並び、黙って御簾の向こうの祝詞の朗謡を聞くのだ。
 神事では人々は一切口をきいてはならず、ただ一人神主の祝詞のみが朗々と響き渡り、旧き年を見送り新しい年を迎える。
 一の巫女は神主が祝詞をあげるその背後に控え、お榊とお神酒をささげ持つ役割だ。
 祝詞の後、お榊はご神体に、お神酒は御簾向こうの年男たちに振る舞われることになっている。
 神殿はこの年越し神事が終わってからはじめて一般の参拝客に開かれる決まりだ。
 こと血の不浄を嫌う神事であるために、古来男巫女が立つものとされているのが特徴的だと言われている、一応奇祭のひとつだ。
 おかげで巫女バイトの半数は神殿の諸々を準備したりするために未成年の男子が詰めている。緋袴に白い小袖のいわゆる巫女服も、当たり前にみんなが着ていれば気恥ずかしいこともない。
 泉などは中学生の時からここの手伝いをしているから、もう慣れたものだ。
 去年、泉は幼なじみの浜田の父親でもある神主に一の巫女に指名されており、無事務め上げた経緯がある。
 神主としても、息子の幼馴染で少年野球のチームメイトを指名するのは気安かったのだろう。
 数十分の間、両手にそこそこの重みがあるお榊とお神酒ののった三宝をささげ持っているのは女の子では結構しんどいと、泉は思う。はっきり言って、一の巫女は腕力がモノを言う肉体労働だ。だから、血の不浄がどうのこうのといいわけをして、男が務めるのだと経験者の泉は思っている。
 事実、神事の後で几帳を取り払い御簾を上げて、居並ぶ年男・年女たちにお神酒をふるまった泉の手はしびれきってぶるぶる震えていた。
 だが、この数十分三宝を捧げ持ち、最後にお神酒を振る舞う、それだけで懐に入る巫女バイトの報酬が一気に三万円もアップする事実はあまりにも魅力的だった。
 去年三が日の後でもらった給料袋を開けて小躍りしたのを覚えている。
 だが。
(問題はその後じゃねえかよ)
 神主の声は朗々として響く。
 四方に張り巡らせた御簾の向こうに控えて神事が終わるのを待っていた時にはさほど感じたことはなかったのだが、去年、何も隔てるもののない状態でまともにその声を何十分も聴いていたらなんだか身体がおかしくなった。
 お神酒を注いで歩いている間はそれでも緊張と、腕のしびれの方が先にきていたのだが、無事に役目を果たして「少し休んできなさい」と用意してもらった仮眠室に入ったあたりで一気にきた。
 そうしてその後に起きたことは今も思い出したくもない記憶だ。
 浜田は、にやりと笑って泉のあごに手をかける。
「この前の正月の時は、いい感じでぶっ飛んでたよなぁ、お前」
「……っ!」
 触れられたくない記憶を直接撫でられて、泉はきつい目をして浜田を睨む。
「……」
 からかうような光があるに違いないと思っていたのに、浜田の瞳は案外真摯でまっすぐ泉を見ていた。
 その事実に、とまどう。
「あの時さ……すげぇ、かわいかったぞ?」
 ざわざわと記憶が震える。
 遠くに人のざわめきが聞こえていて、だが、神主一家が住んでいる母屋には誰もいなかった。
 神主は氏子会の連中に捕まっている。奥さんは社務所の仕切りで忙しい。浜田の兄弟連中も総動員でばたばたと正月を迎えたばかりの神社を切り盛りしていたのだ。
 ただ一人を除いて。
「今年はオレが祝詞をあげる。ちゃんと聴いてろよ。そうして、またとろけてろ」
「ばっかじゃね?」
 泉は浜田の手から逃れると、わずかに後に下がる。
「てめぇの声なんか聴いたって、変になんかなんねえよ。おじさんは、あれは何十年も修行積んでっからあんな……あんな……」
 思い出すと、じんとしびれるような感覚が走る。
 あの時の自分はどうかしていたのだと、何度言い聞かせてきたかわからない。
 外は冷たい真冬の夜で、でも一年で一番人が多く出てにぎわう夜で、なのに世界には自分とそして。
「大丈夫……オレ、結構いい声してんだぜ?」
 そんなことは知っている、と泉は思う。
 耳元に唇を寄せられ、囁かれるまでもない。
「オヤジの声でトランス状態になってんじゃねーよ。オレの声でなれっての」
 なんだか腹が立った。泉は、思いきり浜田の足を踏みつけてやる。
「痛ってー!足の骨折れたらどーすんだよ?」
 片足を両手で持ってぴょんぴょんマンガみたいにとびあがる浜田に泉は思いきり舌を出してやった。
「神事の前にフキンシンすぎっから喝入れてやったんだよ。仕方ねーから、巫女やってやるけど」
 痛がる浜田の脇をすり抜けて、振りかえる。
「てめぇの実力でぶっ飛ぶわけねーだろ。ミノホドシラズって言葉知ってるか?ばか浜田!」
 どすどすと板張りの濡れ縁を歩いて行く。
 毎年のことで慣れていると思っていても、やはり普段とは勝手の違う服装は、派手に衣擦れの音がするのが不思議だ。
 気をつけていないとすぐに袴の裾を踏んづけて転びそうになる。もう何年もこの神社でバイトをしているのに、どうも初日の大みそかは勝手が上手くつかめないと決まっていた。
 ましてや、気が動転しているとなればなおさらだ。
「っ……!」
 華麗に浜田の前から立ち去るつもりが、失敗した。泉は緋袴の裾を見事に踏んづけて前につんのめる。
(転ぶっ!)
 浜田の目の前で醜態をさらすのはイヤだったが、もう体勢の立て直しがききそうもない。諦めて受け身を取ろうとした瞬間、背後から腰をすくわれた。
「……っ、危ねぇなあ。泉、いい加減袴身につけて歩くの慣れろよなぁ。もう何回ここでバイトしてんだよ?」
「……離せ、腐れ神主」
 何が腹が立つといって、今の今まで踏まれた足を両手で掴んで片足跳びしていた男が、瞬時にしてドラマの主人公ばりに泉の腰を抱いて転倒を防いでくれたその事実だ。
 泉の機嫌の悪い声に、浜田は苦笑した。
「えー?オレ、助けてやったのにそれはないんじゃね?」
「……うるさい。一の巫女やってやるって言ってんだからありがたく思え。てか、離せ」
 要求した言葉を、まるで聞こえなかったかのように浜田はさらに強く腰を抱く手に力を込める。
 そうして、唇を小袖の襟に押し付けて囁いた。
「神事が終わったら、去年と同じ部屋だ。ちゃんと泉が休むための部屋は用意してあっから……な?」
「……」
 泉はぎゅっと目を閉じる。
(何が、休むための部屋だよ)
 知っている。
 あの部屋は、みんなと異なるタイミングで休憩に入る一の巫女のため、ホットカーペットの上に一組だけ布団が敷かれている。間違ってドアを開けてしまうかもしれない誰かに安眠を邪魔されたりしないよう、内側から鍵をかけることができる。
 この前の正月、泉はじんと痺れる身体のままで指示されたその部屋に入って部屋の灯りさえ点けずに布団にばったり倒れこんだ。内鍵をかけることなど頭の中から跳んでいて、疲れ果てているはずなのに妙に頭が冴えて眠れなかったのをよく覚えている。
 そうして。
 そうして、泉が部屋に入ってしばらくしてからドアがそっと開いたのだ。
「こん……な、腐れ神主の祝詞で、年男や年女に幸いなんて訪れるわけねーよな」
 するり、と浜田の腕から力が抜ける。
「まあ、気の持ちようってヤツだろ?いい言葉をいい声で聴いて、気持ちがしゃんとしたら大成功なんだよ。そーゆーもんよ」
「腐れな上に、いい加減かよ……おじさん、喉今すぐフッカツしねーかな?」
 なんとなく二人並んで歩きだす。
 向かう先は神事のための準備が整えられている前室だ。そこには、浜田の父親でもあるこの神社の正統な神主が待っていた。
「ああ、孝介くん。良郎から聞いたんだろ?今年もよろしく頼むな。自分は初めて神事を執り行うんだから、一の巫女は経験者がいいと言われてね。孝介くんなら良郎とも仲がいいから、甘えさせてもらえないだろうか?」
 気の毒なほどにがらがら声である。目も潤んでいて熱っぽい表情は、いかにも辛そうだ。
 これでは、人間としてとても断れるものではない。
「おじさん、しゃべらなくていいっす。オレでいいんだったら、やりますよ。バイト料アップしてもらえるし、一の巫女美味しいですから」
「でも、体力的にすごく消耗するのよね。二年連続でやらせちゃってごめんなさいね。終わったら休む場所用意してあるし、バイト料もはずむから」
「ああ、ホント全然問題ないですから!オレ、これで新しいスパイクとグラブも買えるし」
 浜田の母親が、これも申し訳なさそうに言うのでますます泉は恐縮してしまった。
「でも、孝介くんの巫女装束姿、見栄えがいいって去年の年男さんたちに評判だったのよ……ああ、良郎と並ぶとやっぱりお父さんより映えるわねえ。良郎、背がムダに高いから。孝介くん、早く千早羽織って。写真撮りましょ、写真」
 儀式の時に巫女装束の上から羽織る薄ものは、下の緋が透けて見える。泉が羽織った千早は、ごくごくシンプルだが、美しい鶴が織り込まれていた。聞けば結構高価なものらしいが、新年の儀式のときには毎年新しいものがあつらえられているようだった。
 強引に浜田と並んでポーズを取らされた。デジカメと携帯と、いくつかシャッターを押されるとようやく神事のしきたりの説明に入る。
 新年まではあと一時間余りに迫っていた。



 本来ならば、神事に携わる神主と巫女は一か月ほど前から身を清めるための食事と特別な水と酒だけを口にして備えるものなのだそうだ。だが、現代ではその辺りは簡略化され、本番直前に禊のための水を飲み、手を洗うことでこれに代えている。
 神事の諸準備を済ませた神社の関係者たちは、禊潔斎の前に全員が前室から下がった。
 以後は、泉と浜田、二人きりで年越しの神事を執り行い、ご神体との境を隔てている御簾向こうにそろそろ揃い出している年男たちにお神酒を振る舞うまで全ての裁量が両肩にのしかかることになるのだ。
 泉は、この神事が失敗したとしてもちゃんと年が明けることを知っているし、多分それが原因で悪いことが起きるなんてことは、そうはないと思っている。
 それでも、年を超えて新しい年を迎えるために払われるこの手間と尽力は必要なものだと泉は思う。恐らく日本のあちこちで似たような努力がされているのだろうと思うと、不思議な気持ちにすらなる。
 普段、こんなこととは無縁の普通の高校生活を送っているから余計だ。
 そしてその場と空間を取り仕切り成功に導くことへの責任に身震いを覚えてしまうのだ。
 不思議な空間と時間だ。
 その全てを、浜田と二人で担うのだ。
「浜田、緊張してんのか?」
 この前室を一歩出てしまえば、声を発していいのは浜田一人だけになる。
 向こうからしばらく伝わってきたざわめきも今はない。その時がきて、神主と一の巫女が現れるのを新しい年の年男と年女たちは待っているのだ。
 人々は一様に無言潔斎のために、神社で梳いた和紙を唇で挟んでいる。新年の神事が終わり、泉がお神酒を盃に注いでやるまでその紙ははずしてはいけないきまりだ。
 浜田は苦笑して「まあな」と頷いた。
「一応ソラで言えるように祝詞は覚えたけどな、重みとか深みとかに欠けてる気がすんだよな」
「そりゃ、お前、おじさんと比べるのがそもそも間違いだろ」
「そーゆーなって。オレはオレなりに戦ってんだ。やるんだったらちゃんとやりてーって思うだろ?」
 そう言う浜田の眼差しは真剣だ。泉は微笑した。
「まあな……がんばれよ」
「おう……行くぞ」
 神主自らの手で、お神酒が徳利に注がれる。一の巫女は三宝を捧げ持ち、二本の徳利が置かれるのを待った。二合徳利が二本、並々とお神酒が注がれるとそれなりの重量になる。
 さらに、ご神体の前に進み出る時には神主が持っているお榊がのると地味にクる。泉は三宝となみなみお神酒の入った二合徳利二本とお榊を捧げ持ったまま三十分以上耐えなくてはならなかった。
 しゃらり
 お榊をひと振りすると、浜田が前に進み出た。
(やっぱ、似あってんじゃね?)
 おばさんが言った通り、上背のある浜田には斎服がよく似合っていた。泉は黙ったまま、徳利の乗った三宝を持って後に続く。
 念入りに清められた本殿・神事の間は、昔はいざ知らず、現代ではちゃんと暖房が適度に効いていてすごしやすくなっている。
 定位置につくと、まず浜田はご神体の前に進み出る。数回お榊をご神体の前で振ると、後ずさって真横を向き、泉が差し出した三宝の上に置いた。
 そうして再びご神体に向き直ると数歩進みでる。泉はその間に、ご神体と浜田の前に立ち三宝を顔の前に捧げた。
 浜田の第一声が、鼓膜に響く。
(すっげー悔しいけど……いい声)
 正月を迎えるための寿ぎの言葉を連ね、去りゆく旧い年に起きた一切の災厄を持ち込まないように言葉の壁を作り、一方で新しい年の年神さまを言葉で歓迎する。
 簡単に言えば、祝詞の内容と意味合いはそのようなものだ。
 浜田は暗記しているというそのめでたい言葉の数々を年またぎで声にし続ける。
 両腕から血が下がっていく。じわじわと痺れがくる。その辛さを他に振り向けようとして、泉はじっと浜田の声に聞き入っていく。
(ああ、やべぇな……)
 美しい縁起のよい言葉を連ねる浜田の声が、徐々に泉の世界の全てになっていく。血液の代わりに、身体に入り込んだ声が、血管を駆け巡り、泉の中を満たす。
(この前より、速ぇ……)
 去年も神事を務める浜田の父親の声に、身体が痺れるような感覚に陥ったのだが今回はあの時より早くそれが訪れているようだった。
 どころか、逆らえない強さで激流のように泉の中を駆け回っている。
(ホント、持ってかれるっての……)
 必死になって、プロ野球選手の名前と今年の打率を片っ端から挙げていく。
 もう、年は明けたのだろうか。
 去年と同じ言葉を朗じているはずなのだが、一体いつからが新年でいつまでが旧年なのか泉にはわからない。
 ただ、声が。
 浜田の声だけが、泉の世界のすべてだった。
 じわじわと身体の奥がしびれて、何も考えられなくなっていく。もう、プロ野球選手の名前も打率もはるか遠くにいってしまった。
(ああ……)
 祝詞の中に、人の名前が混じりはじめる。それは、御簾の向こう側に座している年男たちの名前だ。参列している者たちの名前を一通りそらんじて、祝詞は終了する。
(そっか……そろそろ終わるんだ)
 身体の芯は痺れたままで、ただ必要な手足の感覚だけがこちらに戻ってきた。
 やがて、浜田の声が途切れる。
 もっと朗じていればいいと思うのに、否応なしに時は流れる。
 泉は三宝を定められた位置に奉納すると、徳利をひとつ手にする。そうして、ご神体には決して尻を向けないようにして控えていた男巫女たちが取り払った御簾の向こうに居並ぶ年男たちの数をざっと目で確かめた。
 徳利は二本。祝詞によって新年の寿ぎが染み込んだお神酒を御簾向こうで無言潔斎を続けていた方たちに公平に分けていかなくてはいけない。
 余ってもいけないのだが、足りなくなるのが一番最悪だと、去年口を酸っぱくして注意された。
 確かに、それでは体裁が悪い。
(大丈夫。全部で二十四人。お神酒は四合あるんだから)
 縁起ものだから、ほんの一口唇を濡らす程度あれば十分だ。
 去年よりは大分落ち着いて、だが、去年よりずっと強い痺れと疼きを感じたままで泉はお神酒をふるまっていく。
 自分の中心は繭の中に包まれたようにあって、浜田の声に共鳴したまま震えている。
 年男たちに新年のお神酒をふるまって回る泉孝介は、まるで他人のようにさえ思えるのだ。
 つつがなく、神事は終了した。
「ごくろうさま、孝介くん。さすが経験者ね。お神酒も均等に行きわたって、みなさんご機嫌よ。大概は最初の方の人が自分の分だけ少なかったー!って言いだすもんなのに」
 奥さんは、にこにことして神事を終えた泉を迎えた。高価な千早だけは先に脱がされて、奥さんの手に渡る。
 儀式を務める巫女だけが羽織る千早を脱いでしまえば、泉はこの神社特有の男巫女たちの中のひとりに戻る。
 それでもまだこちらに戻ってこれない。
「良郎も割とよかったぞ。二回つっかえてたが、他の人にはわからないよう上手くごまかせていた」
 神主は苦笑しながらも満足げにそう言う。
「はいはい、オヤジには敵うわけありませんよ。んじゃ、オレら先に休憩させてもらうわ」
「ああ、そうするといいわ。お風呂は明日の朝になさいね。朝は六時には起きて食堂にいてちょうだいよ。孝介くんも、去年と同じ部屋にお布団敷いてあるから。場所わかる?」
 遠い場所で交わされる会話に、泉は反応できない。
「ああ、大丈夫。小さい頃から何度ウチにきてると思ってんだよ?んじゃ、行くぞ、泉?」
 ぐい、と手首を掴んで引っ張られる。
「あ……ああ。それじゃ、先に休ませてもらいます。これから忙しいのにすみません」
 声が勝手に唇から零れた。神主夫妻は「いいのよー。お務めごくろうさま」と笑顔で応えてくれる。
「ほら、行くぞ」
 浜田がぐいぐいと泉を引っ張る。
 よろけるようにして素直に泉は後をついていった。
「ったく、泉は跳びすぎだろ?」
 人が行きかう渡り廊下を、浜田は泉の手首をつかんだままで大股で歩いて行く。
 誰もが迎えたばかりの年のために忙しく立ち働いていて、メインイベントの立役者二人を目にすると「お疲れ」「お疲れ様」と声をかけてくれるものの、別段気にしてどうという様子もない。
 社の方から神主一家の居住空間に抜けると、もう誰もいない。
 みんな、新年でごった返す本殿や社務所の方に応援に行ってしまっているのだ。
「そんなエロい顔、他のヤツらに見せてんじゃねーよ」
 怒ったような声で、浜田は泉のために用意されていた仮眠室のドアを開ける。
 一年前の夜と同じように、ホットカーペットのランプが床に小さく光り、灯りは落とされたままの部屋だった。大役を務める巫女のためにと、ふわふわの羽布団が敷かれている。
 浜田は泉と共に部屋に入ると、後ろ手でドアの鍵をかけてしまう。
 そのまま抱きすくめられた。

「泉……泉……」

 あの時間、確かに泉の世界のすべてになっていた声で、名前を呼ばれる。腕が自然に浜田の背中に回り、すがるようにして抱きつく。
 顔を上げる。唇は期待に薄く開いていた。
「んん……っ」
 吸いつくようにして落ちてきたキスは、すぐに獰猛な獣のように泉を食いつくす。
 ぎゅっと浜田の背中を抱き、二人して不謹慎という言葉を忘れた。
 呼吸をするのにそれが必要な行為であるかのように、夢中で唇を吸いあう。
 浜田の手が小袖の襟元を割って入ってくる。襦袢の下、まだ少し冷たい大きな手のひらが肌を探る。
「ん……っ」
 敷かれてあった布団の上に押し倒され、泉はぎゅっと目を閉じる。
 身体の芯はまだ痺れて、疼くようだ。
 自分だけがひとり、繭の中に取り残されてまだ旧い年から逃れられずにいる。そんな気がした。
 しゅるしゅると、泉の身体をがっちり抑え込んだ浜田が自分の身につけていた和装を解く気配がした。
 それから、体重がかけられる。衣擦れのしゃらりとした音が耳に響く。
(同じだ……)

 一年前。
 泉は今夜と同じように一の巫女を務めてこの部屋にやってきた。
 そうして。
 はじめて、浜田の重みを受け止めた。


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