真夜中の秘め事〜ナース・泉〜
わん!
ふいに、足下から声があがった。
「あ!「わ!」
足下には小さなダックスフントが興味津々のきらきら光る瞳でこちらを見上げている。
きれいな犬だ。首輪もついている。この近くの家で飼われているに違いない。毛並みがつやつやしている。きっといいものを食べさせてもらって愛情たっぷりで育てられているのだろう。
野良ではあるまい。
つまり、今はかなりの高確率で夜のお散歩中。ということはもちろん、このお犬様の傍には……
二人はゆっくりと、首を巡らせる。
そこには、若干逃げ腰の状態になった女の人がいた。うろたえているのは他人のキスシーン、しかも男同士のに不幸にも行きあたってしまったからに違いない。
思い切り、目を逸らされた。
「あ、ごめんなさ……」
「……っ!」
とたんに泉は猛烈な勢いで自転車に飛び乗った。
(見られた、見られた、見られた、見られた見られた見られた!)
街灯の下で、互いの意志で抱き合ってキスしているところを見ず知らずの人に見られてしまった。
「お、おい、泉!」
背中に浜田の声を聞きながら、家まで自転車を必死にこぎ続けた。
家に帰ると、よけいにさっきの事実がのしかかってくる。
親にも生返事で、ロボットみたいに夕飯を胃に詰め込み、汚れた洗濯ものを洗濯機に突っ込み、風呂で身体からセックスの気配を洗い流す。
それでも、浜田を受け入れた箇所はずくずくとして疼いているし、他人にキスシーンを見られた衝撃は一向に減ることもない。
自室に戻って、今日出た課題をやろうかと机に一応向かってはみたもののページを広げているというだけで全く手が進まない。
「……」
息をついて、机の一番上の引きだしをそっと開ける。
と、ぶるぶると携帯が揺れた。
「……っ!」
浜田からのメールだった。
さっきはごめんな。あの人にはオレがちゃんとフォローしといたから心配すんな
「な、何がフォローだ。ばか浜田」
何か返信をしようと思うのに言葉も浮かばなければ、指もふるえていうことをきかない。
泉がパニクっている間に、浜田からはもう一通メールがきた。
でも、あのキスはすっげうれしかったぞ。オレはやっぱ、うぬぼれることにしたから
「あ、あいつはいったい何を言って……」
危うく大惨事になるかもしれなかったのに、どうしてこうもずれているのか。
すると、またメールが届いた。
好きだ。その内、気が向いたらでいいから言ってくれたらそれでいいから。今日は無理させてごめんな。でもなんか、外ってコウフンすんな
「ムカつく……」
泉が未だ混乱の中にあるというのにどうしてこうも、ひょうひょうとしているのか。
それが一年の年齢差ゆえだとは思えない。
人間としての器の違いだとは思いたくない。
泉は、先ほど開けた引きだしの中をじっと見つめる。返事も出していないのにまた、メールがとんできた。
部活とか、泉の身体の負担とか考えたらエッチとかって考えてやんなきゃって思うんだけどな。いい、って言われっとやっぱ押さえられない。ごめんな
「なにを謝ってんだ、ばか。オレがヤりてぇって言ったって、何回言わせりゃ気が済むんだよ?」
だが、なんだか優しい言葉がやけに染みる。
浜田が泉に「好きだ」と告げるのは、若気の至りというやつだ。
泉の中ではそう結論づけている。
最初に言われた時にはパニックを起こしてろくに応えられなかった。それは、幸いだったと今では思う。
浜田の告白を本気にして安易に応えたらきっといつか傷つくのは自分だと泉は思う。
それでも、それでも自分の中で気持ちよさそうな顔を浜田がすれば少し勘違いする。
何度も根気よく「好きだ」と言われ続ければ氷も溶ける。
浜田が泉のおかれている環境をちゃんと考えてくれているのもわかる。
泉は再び引きだしの中に目をやる。
一年以上前、浜田が卒業の時にくれた生徒手帳の一枚がそこには収められている。
むすっとした表情の、まだ子どもの顔をした浜田がこちらを睨んでいる。
「ホント、てめぇとこんなことになるなんてな……自分でもすげー意外」
浜田は本来は女子ウケがいいし、普通にモテる。多分、すごく性格のいいかわいい、満点の女のコだって惚れてもおかしくない男だと泉は思う。
だからもしも、すごくいいコが告ってきたら。浜田の留年とか複雑な家庭事情とかそういうのをものともせずに「好きです」と言えるコが現れたら。
泉は今の場所を、潔く譲るべきなのだと思う。
「いやあ、てか、そういうことになったらいくら浜田がばかでも気付くだろ? なあ?」
話しかけても、幼い浜田の写真は何も言わない。
だから、応えてやるわけにはいかない。
そんなことをして、浜田が泉に対して軽々しく口にしていた「好き」が間違いだったと気づいたら、耐えられない。
今のままなら、ある日浜田が「悪い。カノジョできた。好きとかってやっぱ勘違いだったわ」と言ってきても「だろー?」と笑える、かもしれない。
セックスは、ただのセイヨクショリという言葉でかわせる。まだ、大丈夫だ。
だが、泉も「好き」を認めたら、もう逃げ場がなくなる。
泉は浜田のメールを眺めてつぶやく。
「好きだっての。じゃなきゃやらせねーっての。って、バレてっけど」
泉は苦笑して、それから、考えに考えてメールの返信を打つ。
「でも、言わなかったらぎりセーフだ。今日は、やばかったけど」
セックスの最中にどうやら自分は「気持ちいい」なんて口走っていたようだ。
最中は危険だ。心がゆるむ。
浜田もそれがわかっているらしく、何度も「好きだ」と攻め込んでくる。
「負けねーよ」
もしかしたらいつか敗北して、浜田の前に素直な気持ちをあらいざらいぶちまけてしまうかもしれない。
髪をしばっていてもいなくても、もう自分は浜田だというだけでどうしようもなくときめいてしまうのだと、白状してしまうかもしれない。
だが、それまでは断固、抵抗するつもりだ。
「よし、返信っと……」
すっげー、感じたけど、もう二度と外じゃヤんねーからな
夜の向こうでこの返事を受け取った浜田がどんな顔をしているのか、ちょっと想像して、泉は少しいい気分になった。
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