英語教師
「あー、言っておくけどオレの発音あてにすんなよ。渡航経験ゼロで英語教師が務まってるってのが、オレのウリだから」
そう言うと、クラス中がわっとわいた。
「先生、発音きれいだよー」
「ネイティブじゃないヤツにそう言われても、あんま信用できねーっつの」
「生徒を信用してないってひどくない?」
「信頼したくなる成績のヤツなら考えてやるよ」
騒ぎだしそうな気配を「ほら、ここ中間に出すから黙ってノート写せ」といなす。
(子どもは無邪気でいいねえ)
泉はチョークで黒板にS/V/Oの文字を書き入れていく。
背後でノートにシャープペンを走らせる音がする。ほんの何年か前は、自分もこの教室の向こう側で必死になって板書を書き写していたなんて、まるで夢のようだ。
授業中は眠い目をこすっていたのに、放課後になると誰より先にグラウンドに向かって駆けていく。
白球を追っていた夏の空が今はもう遠い。
(渡航経験はないけど、カレシがイギリス人だったことはあるんだぜ、っと)
板書を終えると、生徒たちが書き写し終わるまで少し、窓際にたたずむ。
高校時代の英語の授業はひたすら退屈だった。それほど成績がよかったわけでもない。
だが、バイト先のコンビニの常連だったイギリス人に「日本語を教えてくれ」と片言で話を持ちかけられ「楽そうだし、毎回ご飯をおごってくれるっていうし」と、軽い気持ちで応じたら、カテキョ初日にあっさり食われた。
彼女がいたこともあったし、ゲイだという自覚はなかったのだが、ずるずるとそいつが帰国するまで関係を続けたということは、何かが自分の中にいたということだろう。
大学生になった春から卒業の直前まで。関係は結構長く続いた。
おかげで、泉はすっかり英語が堪能になり相手は日本語が達者になっていた。想像したこともなかった場所からありえない快楽が得られることももう知っている。
恋愛ではなかったが、ギブアンドテイクのただれたいい関係だったと思っている。おかげで求職難民にならずに無事、英語教師になれた。
(ケガされた代償にしちゃ、まあまあかな)
泉はそう思っている。
新任教師として、PTAやらキョウイクイインカイやらがどれだけプライベートにうるさいのかを確認するため、今はフリーの身の上だ。
彼女を作るのとまたよさそうな男を見つけるのと、どっちがこの就職超氷河期に獲得した教職を守るのに都合がいいか真剣に考えている。
(……っ、こっち見んな)
副担任を持たされたこのクラスの連中は比較的扱いやすい新人教師向けの物件だと思う。
みんな素直だ。高校時代の自分はこんなにのほほんとしていたのかと思いだそうとしても、うまくいかない。毎日、部活と食い物のことだけ考えていた。おかげでつきあっていたカノジョを泣かせて、一瞬女子の敵になったこともある。
多分、目の前の連中も大なり小なり似たような悩みと喜びとを抱えて毎日を送っているのだろう。
(お前だって一応コウコウセイなんだから。部活とバイトとオンナのことだけ考えて生きろっつの)
受け持ちのクラスは当たりだと思う。ただ、まずいのが一人だけ混じっていた。
この学校で10年ぶりに出たという留年小僧だ。
ヤンキーではない。どちらかと言えばくったくない明るい性格で、一つ年齢下のクラスの連中にもよくなじんでいる。
留年は主に、父親のリストラによる家庭環境の変化が原因で学校を欠席しまくったのが原因らしい。とてもそんな風には見えない。
だから、それなりに緊張していた着任時にも周りの先生方からは「留年していると言っても、浜田ならあんまり心配しなくて平気だから」と太鼓判を押されたのだ。
確かに、そういう意味で困ったことはない。
だが、別の点でこの生徒は大問題なのだった。
泉がちらりと視線を送ると、浜田はぱくぱくと口を動かす。
「す・き・だ」
泉は冷徹にそれを無視して顔を背けた。
(ばかじゃないのか? あいつ、この前三組の前田に告られてたって聞いたぞ? あれにしろよ。胸でけーし)
あれは、ゴールデンウィークに入ったあたりだっただろうか。
連休の中日で、なんとなく構内全体もだらりとしていた初夏の放課後だ。翌日から三連休のせいか、先生方も生徒たちもそそくさと帰宅しているようで、多分構内に残っているのは部活組の連中くらい。
英語科準備室の近辺などは、人っ子ひとりいないような状態だった。
泉が残っていたのは、連休明けすぐからはじまる中間テストの出題を考えるためだった。西浦の英語科は一定のテーマを決定した後に各自問題を作成してもちより検討会議をするという方式をとっている。どうせ、古参の先生の作成した問題に落ち着くのだろうと思ってはいても、初めての定期考査とあっては、新人が手を抜けるわけもない。
「うーん……こんなもんでいいかな?」
ノートパソコンの中の問題文を検討しながら、泉は縮こまっていた背中をぐんとのばした。
その時だ。
「すんませーん。泉先生いますかー?」
戸口のところで呼び声がした。副担クラスの浜田か、と軽い気持ちで返事する。
「おー、いるぞー。ちょっと待て。そこで10数えてから入ってこい」
まだ正式なテスト問題作成期間ではないから、生徒の入室は禁止されていない。泉は開いていたパソコンを落としながら浜田に返事する。
律儀に、外で数をかぞえる声がした。
「あいつ、ばかだね」
図体の大きな男がかくれんぼするみたいに数をかぞえている姿を想像して、つい吹き出した。
「失礼しまーす!」
礼儀正しい。確か中学までは野球部のエースだったそうだ。今でも同じクラスの野球部の連中とよくつるんでいるから、よほど好きなのだろう。
「なんだ? なんか質問か? 珍しいな」
泉は、ネクタイを気持ちゆるめながら生徒を歓待する。
浜田は後ろ手に引き戸を閉めると「質問ていうか……質問かな」とそばまできて笑った。
「相変わらずムダにでっかいな、浜田は。結局あんま身長稼げなかったオレとしては泣けるぞ。そばに来んな」
「ひでーなあ。背ぇ伸びたのはオレのせいじゃないって」
笑うとぱあっと周囲が明るくなるようないい顔をする。
心の中の暗がりまで照らされて、すっきりするようなそんな魅力の持ち主だ。
(案外、モテんだろうな、こいつ……)
留年のハンデをものともせずに女の子が寄ってくる感じだ。
「そこ座ってろ。今、コーヒー煎れてやる」
「おごりっすか?」
「ばーか。生徒から金とったら代わりにオレに給料が入らなくなるっつの。わかってるだろうがインスタントだぞ。砂糖とミルクは?」
「砂糖みっつにミルクふたつ」
泉はそれを聞いてイヤな顔を作ってみせた。
「お前、甘党なのか?」
「てゆーよりー。とれる時に栄養とっておこうかなーって」
そういえば、浜田は一人暮らしだったはずだ。
「すげーいじましいけど悪いが給料まだ安いんだ。メシはおごれねーよ」
「いやいやそんなつもりはないっすよ。あ、夏のボーナスいつっすか?」
コーヒーカップを手渡しながら「お前、初年度の夏ボーなんか小遣い程度しか出ないに決まってんだろ」と泉は笑った。
「あ、このカップ。野球部が甲子園出た時の記念カップっすね」
参加170校を誇る激戦区の埼玉県大会を公立高校が勝ち抜いて全国大会の切符を手に入れたと、当時大騒ぎになった。その時にPTAが作成した記念のマグカップだ。まだ校内のあちこで見かける。
泉は苦笑した。
「ここの備品だよ。文句言うな。飲めりゃなんだっていいだろ?」
浜田は「甘ぇ」と苦笑しながら、砂糖三杯のコーヒーをすする。
それから、カップに書かれている当時の部員たちの手書きによる名前のひとつを指さした。
「この泉孝介って、先生でしょ?」
泉は顔をしかめる。
「一番センター泉くん。一応、全国で結果出してますけど、なにか?」
「なんで野球部の顧問やんねーの?」
「それが質問かよ。まだ新任だからな。うまくいろいろ回せねーの。モモカンには頼まれてっから、やるなら来年とかからかね。でも、時々練習はつきあってやってっぞ」
「知ってる。野球部の連中が言ってた。先生、アイドルだって?」
泉は浜田の言い方に笑った。コーヒーや紅茶に砂糖を入れる習慣は大学の時になくなった。妙に苦くて舌を焼かれる熱さのコーヒーだと、泉は思う。
「アイドルってなんだそりゃ? あいつら正直だからさ、三橋は来ないのか? とか、田島さんに一度練習見に来てほしいって伝えてくれとか、オレは田島たちのマネージャーじゃねえっつの」
「いや、あいつら泉先生が練習に顔出すと舞い上がるって言ってるよー。もっと顔出してやってよ。生きて動く野球部の伝説のひとりなんだからさー」
西浦高校野球部は創部当初の代が破竹の活躍を示して、マスコミをかなりにぎわせた。公立高校で練習環境も決して満足に整っているわけではない。特待生を呼んでいるわけでもない。それが、若い女監督の指揮の元するりと全国大会への階段を駆けあがってしまったのだ。
県立の星と言われて、一気に入試の倍率があがったのは記憶に新しい。
泉たちの卒業後は四回戦前後をうろうろしている状態だが、西浦高校の名前は今も埼玉高野連のお気に入りだということは知っている。
その業績はあまりにもきらきらしくて、自分が確かにその中心選手のひとりだったという事実はひどくうつろに思える。
泉は苦笑した。
「なんだよ。浜田はそんなこと言いにわざわざきたのか?」
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