英語教師*2
「違う」
即答に一瞬気をのまれた。
浜田は苦笑すると、甘い甘いコーヒーをまたすする。
「オレさ、先生の野球部現役時代に西浦の試合観にいったんだよ。決勝戦、オレはまだ中一の時だ」
「へ……」
さすがに驚いて言葉がなくなる。浜田はそんな泉に微笑する。
「先生、オレと同小、同中の先輩なんだよ? 中学の部活の後輩としちゃ観にいかない理由ねえもん。部活練習休みになってみんなで行った」
「マジかよ」
浜田は楽しそうに「マジマジ」と足をぶらつかせる。
泉はため息をついて「まあ、そりゃいるよなあ。ウチの中学から西浦来る奴、毎年絶対いるもんなあ」と額に手をやった。
「田島さんや三橋さんもすごかったけど、オレら的にはやっぱ泉センパイがんばれ! なわけ。先生、かっこよかったっすよ」
「上から目線でほめられてもうれしくねーよ」
「マジだって。すっげー強気の一番。ヒット二本と死球一個。二番の人すげー犠打が巧かったから、出たらまず二塁もらった!って感じだったよな」
夏のグラウンドはびっくりするくらい暑い。背負った応援団の声と、審判のジャッジ。何より土が熱に熟れた夏の匂い。太陽が肌を焼く感じ。
忌々しいくらいに鮮明で、なのにやけに遠い気がする。
「栄口なあ。バント、確かにうまかったよなあ」
頭の中ではもう、どうやって浜田を追い返してしまおうかと、そればかり考えている。
高校時代の思いで話は、あまりしたくない。
(オレはあの時のオレとはもう違うんだっつの)
なのに浜田はにこにこ笑って話をいつまででも続けたがるのだ。
「試合勝っただろ? オレら大興奮でさ、顔も知らなかったくせに泉センパイすげー! って大騒ぎ。三年なんて在学かぶってたって、すっげー自慢げでさ、ムカついた。試合後でセンパイと話とかちょっとしてたし」
「あー、そういやそうだったな。ほんとに一言だけだったけどな」
県立高校が私立の強豪を破ったという大事件に球場の外に出てから部員たちが軒並みあいさつ攻めにあったのだ。確かにその中には中学の時の部活の後輩もいたはずだ。
もう、あまり覚えていない。
泉は口の中に苦いものが広がるのを感じた。
「なに? んじゃ、浜田は後輩アピをしにきたわけか。別に後輩特典なんてねーぞ。うっかり甲子園なんか出たおかげで同中の野球部員なんて山ほどいんだよ」
お前だけが特別じゃない、と泉は突き放す。と、浜田は苦笑した頭を掻いた。髪の先が少しはねているな、と目を奪われた。
触ったらどんな感触だろうか。
ふとそんな危険思想が心に忍び込み「やべーやべー」と泉は心の中で自分を戒める。
うらやましいほど上背があって、今も部活で鍛えていた頃の余韻が身体のそこかしこに残っている浜田は、ありかなしかで言えば全然「アリ」と思っているからやっかいだ。
(てか、自然に男を値踏みモードで観てるってのはどうよ、オレ?)
高校時代までは女子を眺めては「あり、なし」と遊びでやっていた。テレビやグラビアの中のアイドルとクラスの女子の区別などない「つきあえるか否か」というのは日常の雑談のひとつでしかない。
男の思考なんてそんなものだ。
特にがっついていた方ではないが、自然に好みかそうでないかで区分けしている。
ただ、今の泉にはその区別の対象に同性が加わるようになっていた。サンプルは幸い、職場にうなるほどいる。
板書の間にぼんやり教室を眺めながら「あり」「なし」と判別していくのは、時間つぶしにはもってこいだ。
目の前の浜田は「アリ」だった。だが、だからといってひいきしたり愛想よくするほどばかではない。
そもそも「あり」「なし」はあっても、泉には「好み」といえるほど明確に好きな要素を同性の上に見いだすほどの強い性的嗜好はなかった。
正確には、そう思っていたかった。
浜田は一流の感じのよい笑顔を見せて首を横に振る。
「違うよ。オレ、先生に告りにきたんだけど」
泉は目を丸くする。
浜田は至って本気の瞳で泉を見つめている。
「お前、ホモ?」
「うーん、一応女子とつきあってたことあるけど。先生以外の野郎には興味ないから泉先生限定でホモ」
「気の迷いだろ。却下」
浜田は眉をきゅっと寄せると「ひどいなあ」と言った。
「でも、オレ本気だし。もう片思い歴長いからしつこいよ? ずっと好きだった人にまさかの再会果たしたんだ。これって運命だろ?」
「偶然だろ。って、ずっと……?」
浜田は泉から目を離さずに頷いた。
「ずっとだよ。県大の決勝で先生のこと観てからずっと」
夏のグラウンドは多分この世で一番暑い。
一瞬、あのめまいを伴う暑さが泉の中によみがえる。
「それはお前、やっぱり気の迷いとか錯覚だろ。浜田、オレのことなんかなにも知らないだろうが」
多分自分の人生で一番まぶしいと思っている時間を観て恋に落ちたのだと、浜田は言った。
浜田は首を横に振る。
「どうかな? 甲子園の試合は現地には行けなかったけど全部観たよ。それから文化祭にも行って姿探したし。卒業式の日にはここまで来て先生が部活の人たちと記念写真をグラウンドで撮ってるとことか見てた」
「ストーカーかよ」
頭を抱えてうめくと「気づいてなかったんだったらセーフでしょ?」と浜田は笑った。
「でも、大学に逃げられたらさすがに見失ったけど」
子どもだったから、そこから先を追う術を知らなかったのだと浜田は悔しそうに言った。
「家も近くなのはわかってても、知らねーし。部活あるから校門で待ち伏せとかもできねーし。部活のセンパイなんだから名簿に住所くらい残しておいてくれないと追いかけんの難しいって」
「ばか。個人情報保護法ってのがあんだよ。だから、今は歴代主将がOB会の幹事やってて連絡網はそいつらで握ってんの」
浜田は「それ知ってたら、絶対主将に立候補したのに」とぶすくれた。
「オレはお前がみんなから文句なく主将に選ばれるヤツじゃなくて命拾いしたよ」
「まあ、オレ当時はもう肘ぶっこわれてたからさ。みんな気ぃ使ってそういうのやらせんのかわいそう、とかって思ってたみたいだから立候補したって多分なかったけど」
「肘……?」
聞き流すには物騒な話に泉は眉をひそめる。浜田はその様子を見て曖昧な微笑を浮かべた。
「そう……リトルリーグ肘っつの? 先生は知らないだろうけど、オレ、結構将来有望視されてたんだぜ? もう、うまく曲がんねーんだけどさ」
すい、とのばそうとした右腕がゆがんだかたちで止まる。浜田のまっすぐはこれが精一杯ということか。
泉の知り合いにも故障で野球ができなくなった人間が一人いた。本人はもう「あきらめはついてっから」と言うが、時々見せる悲しげな横顔は痛々しくてかける言葉が見つからない。
浜田もそんな思いを、中学生にして味わっていたのか。
浜田はまたけぶるような目をしてみせる。
少し、心臓がぴくりと反応するのがわかった。
一瞬ほだされかけた泉に、浜田はだがもうあっけらかんと笑ってみせる。
「ね、今、オレに同情したでしょ? なら、かわいそうなオレにちゅーとかして慰める気ない?」
「ねえよ」
即答して、泉はため息をついた。
「お前ね、そういう気の迷いはさっさと修正するに限るぞ? いいことねえから、絶対。ついでに言うとオレはカノジョとかいたことあるし、そういう気は……」
「去年……」
説教を遮る浜田の声が妙に冴え冴えとしていて、泉はその迫力に次の言葉を言えなくなる。
「……オレさ、留年してっだろ? いろいろあってバイトいっぱいしなきゃいけなかったんだけどさ。ちょっと夜系とかもやってたの。
年齢詐称していたということか。泉はますます眉をひそめた。そんな教師に「今はもう、普通に高校生OKのとこだけだから」と浜田は笑う。
「先生さあ、ラブホ行ったことあるでしょ?」
「……あるよ。人並みにな」
言いながら、のどの奥がひくつく。
(なにを言う気だよ?)
不安ばかりがドス黒いしみみたいに泉の中に広がっていく。怖くてたまらない。目の前の生徒はいきなり狩猟者の目になっている気がするのは、いくらなんでも考えすぎか。
浜田はにっこりと笑った。
「オレさ、去年の夏はコンビニの深夜バイトを週5で入れてたんだよね。時給いいんだ。特にみんながやりたがないのに売り上げいいとこの深夜時給って下手な水よりいいんだ……ラブホ街だとかさ」
「……へぇ」
のどの奥がひからびてそれ以上声が出ない。
浜田はじっと泉を見つめたままいっそ冷たくすら感じる声で言った。
「オレ、去年の夏に先生が外人の男と一緒にラブホ入るとこ見たよ」
空気が凍り付いていた。
浜田の目が冷たい炎のように燃えている、と思った。
「人違いだろ?」
ぎくしゃくとやっと吐き出したいいわけがむなしいものだと泉とて気づいていなかったわけではない。
「バカにしてんの? オレが、先生を間違うわけないだろ?」
浜田の右腕がすっと泉に向かってのばされる。まっすぐに伸びることができない腕だ。
無骨な指があごをとらえるのを拒否することができなかった。
「……オレが、どんな想いでラブホの出入り口を見てたかわかる? ねえ、二時間もなにしてたの?」
浜田の指があごをなでる。
「一度や二度じゃなかったよね? あのホテル、気に入ったんだ? なに? なんかいい設備とかあったの?」
指先があごをなでまわる。時折唇のはしに触れるのがこわくてたまらない。
「いっつも同じ外人だった。ねえ、先生……あの男にヤらせてたの?」
もうはっきりと唇を浜田の指がなぞる。
「それ……は……」
言いかけた唇を割って、男の指が咥内に入り込む。舌をなぶるように指がなぞる。
「あいつ、恋人?」
「……んぅ……」
首をかろうじて横に振る。
浜田がぴくりと反応した。
「なに? 先生は恋人でもないヤツにヤらせてたんだ? 何度も何度も」
「浜田には、関係ない」
「……っ!」
浜田の瞳が一瞬の炎に燃える。
咥内から指を引き抜くと、泉の顎をとらえてぐい、と自分の顔の近くに寄せる。
「最初はさ、間違いだって思った。だから、間違いだって確かめるために夏休み終わっても週5でそこ入り続けてさ、あとの2日は近くの終夜営業のドラッグストア。でもそこ角度悪くてさ、表に出てないとラブホの入り口チェックできないんだよね。遅い時間はみんなゴム買いにくるから結構忙しいし、レジ打ちとか超いらいらしてたまらなかった」
もしも目を離している隙に泉がまた男とホテルに入る瞬間を見逃したら、と思うと心が焼けただれていった。
嫉妬でおかしくなりそうだった。
「二度めはそれから一ヶ月後くらいだったかな。やっぱり同じ金髪男。目の前真っ暗でさ、やっぱ二時間で出てきたの見て死にそうになったよ」
間近の瞳は怒っているのか悲しんでいるのかわからない。もしかしたら絶望しているのかもしれない。
(オレが悪いってか?)
心が冷えきっていく。
憧れの先輩が、実は恋人ですらない男とセックスをしているような人間だった。
浜田は自分に淡い憧憬を抱いてくれていたらしいが、泉に責任などない。
(勝手に憧れて、理想像押しつけられてもな……)
甲子園に出た県立の星のひとりは、浜田がどう思っていようと快楽に弱いただの男だ。
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