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● 特別なフツウ*1  ●



 オレにとって、ヒーローという言葉で自動的に浮かぶ姿と言えば、グローブとボールを抱えてにっかりと笑う浜ちゃんだった。
 小さい頃住んでいたアパートは強い風の吹く日になると、ギシギシとかなり不安になるような音を立ててきしんだ。オレはその音がとにかく怖くて怖くてたまらなかったことをよく覚えている。
 その日は、大型の台風が関東に接近しつつある日だった。
 外は真っ暗になるほど厚く雲が垂れ込めていて、なんとなく圧迫感がある空気で満ちてる。暑いんだか、それともそうでもないのかよくわからなくなる、ただじっとりと塗れた感じで肌にまとわりつく。
 そうだ、一番あのアパートが揺れたのは、台風の日だった。
 オレは、小学校から帰ってくるとランドセルを部屋の隅に置いてため息をついた。
 窓ががたがた鳴る。そうなったらもう少しで建物全体が揺れ始めると決まっていた。
「うう…… お母さん、は 七時、で。お父さんは 9時……」
 台所の大きな音を時々たてる古い冷蔵庫には、二人が今日帰る予定の時間が貼ってある。
 オレはいつも学校から帰ってきてからこのメモを見て、あとどれくらい一人でいればいいのかを考える。考えて、ちょっと泣きそうになり、それから一生懸命祈った。

 オレの、ヒーローが現れるようにお祈りした。

「三橋ィ! 今日は台風だから、家ん中で遊ぶぞ!」
「浜、ちゃ……!」
 今日のお祈りは五分で通じた。
 台風のはじめの風なんかものともしない強さで家の扉をがんがんと叩く音がする。オレは急いでもうちょっとで落ちそうになっていた涙を拭って玄関に走っていく。
「浜、ちゃ……!」
「三橋、帰ってたか! よし、今日はウチで将棋やるぞ、将棋!」
 山岸荘に引っ越してから知り合った隣の家の子は、名前を浜ちゃんといった。
 背が高くて、声が大きくて、堂々としていて、野球がうまい。
 すごく、かっこいい。
 今日は厚い雲のせいで顔を見せていない太陽が沈むころ、オレンジの光に照らされると髪の毛がきらきら光ってすごく眩しくて。
 オレは、かなり本気で「今、浜ちゃんはエネルギーを充電している最中なんだ」って思っていた。お母さんにそっとそのことを話してみたら、すごくまじめな顔で「廉、そのことは誰にも言っちゃだめよ? もしもそのことがみんなに知られたら、浜ちゃんは光の国に帰ってしまわなくちゃいけなくなるの」と教えてくれた。
 今ならあれは大ウソだったってわかるけど、でも、ほんの少しくらいは当たっている可能性はある気がして、大部分は恥ずかしくて浜ちゃんにそのことを言ったことはない。
「今日、お母さん7時で、お父さん9時なんだよ!」
「そっかー。ウチも似たようなもんだな。台風来てっし、一人じゃつまんねーだろ? 将棋、教えてやるから一緒にやろうぜ」
「うん! ちょっと、待ってて」
 オレは冷蔵庫のメモに「はまちゃんち」と書くと、テーブルの上に用意してあった今日のおやつ……チョコビの袋を持って浜ちゃんについていった。
「三橋、ちゃんと家の鍵かけろよ? 最近ブッソーだからさ」
「大丈夫だよ! ほら! 鍵も首から下げてるからなくさないんだ!」
 シャツの下に隠してある家の鍵を見せると「よし! ボーハンシステムスイッチオンしたから、行くぞ!」と、浜ちゃんは大きな声で言う。
 なんだかそれだけですごくわくわくした。
「三橋、将棋やったことあっか?」
「ない、よ」
「そっかー。なんかあれはオクガフカイんだぜ。オレも親父から今教わってるとこだからあんまうまくねーんだけどさ」
「浜ちゃんは、強いよ!」
 オレのヒーローがどんなことだって弱いわけがない。つい、大きな声でそう言うと浜ちゃんは「ありがとなー! まず将棋崩しからやってみよーぜ」と笑ってくれた。
「三橋、いたぞー。これで揃ったな」
 やっぱり大きな声でそう言って隣の家のドアを開けると、もうアパートの子たちが何人か集まっていた。
「三橋、なに持ってきたー?」
「チョコビ!」
「やった! オレはポテチ」
「オレ、ドーナツ。20円引きのやつ!」
「あたし、バナナ!」
 アパートにいる子たちの親はみんな共稼ぎで昼間は家にいなかったから、学校から帰ってくるとその日のおやつがテーブルの上に置かれている「システム」になっていた。
 雨の日はみんなそれを浜ちゃんちに持ち寄ることに自然に決まっている。なくたって別に構わないけど、あるとちょっとうれしい。自分のおやつが人気だともっとうれしい。
「んー、じゃ、バナナ切っとくか。ドーナツはちぎって食おうぜ。ウチのはニセポッキーだ」
「おおー!」「ニセポッキー 好きだ!」と、口々に歓声があがる。
「なんと今日は新作のチョコバナナ味もあるぜ」
「すっげー!」「すげー!」
 みんな大興奮だ。オレも負けずに大声で「すごいー!」と叫ぶ。
 すごく、わくわくした。
 国道沿いにとにかく何でも大量に安く売っているスーパーがあって、この辺の子たちのおやつはだいたいそこでまとめて調達されている。ニセポッキーはパッケージと形状はそっくりなものの、やたらと粉っぽいチョコが明らかに本物のそれとは違うと子どもでもわかる。大人はみんな顔をしかめるけれども、オレたちにはかなり人気のアイテムだった。
 浜ちゃんちの定番おやつだ。
 ひとしきり盛り上がったところで、いよいよ近づいてきた台風がびゅうと大きな風を吹かせた。
 アパート全体がぎしぎしとイヤな音をたててきしむ音を立てる。
 みんな一瞬身をすくめた。
 まだ昼間なのにやけに室内が暗い。
 親たちは仕事場から帰ってきていない。オレたちは子どもで、大人がいないことが突然ものすごく不安に思えてしまう。
 みんなの顔をちらりと見たら、普段は一番大きな声でしゃべって笑う子も口を真一文字に引き結んでいる。
 女の子はちょっと涙目だ。もしかしたら、オレもそうだったかもしれない。
「よし、テレビ点けっぞ! 電気もだ!」
 一瞬しんとなった中、浜ちゃんが大きな声でそう言った。
 なんでだろう。浜ちゃんが元気だと、オレたちも元気になれる。
 天井から釣り下がった電灯のひもを引くと、蛍光灯の明かりが部屋の暗さをなぎ払う。
「リモコーン! スイッチオーンっ!」
 浜ちゃんがそう言って、テレビを点けてくれた。
 新宿駅の前で強い風によろめきながら、女の人がリポートしている。
「こちら、JR新宿駅です。近づく大型の台風18号の影響で、在来線の運休が続いており、復旧のめどが今もたっていない状況に、利用客が徐々に駅構内に増えつつある、と言った状況です」
 埼京線で都内に仕事に行っている親も多い。ちょっと、みんなの顔に緊張が走った。
 画面はスタジオのアナウンサーに切り替わる。
「ここでもう一度、各運行状況についてお知らせをいたします。JR山手線は現在内周り、外周りともに徐行運転となっております……」
 まじめな顔と真剣な声。だから、よけいに不安が募っていく。
 また、強い風がアパート全体を揺らした。
「……っ!」
 オレはあげかけた悲鳴を寸前でなんとか飲み込むことに成功した。だけど、涙だけはちょっとコボレた。
 浜ちゃんは台所で切ったバナナのお皿を持って、僕の隣に座った。そうして、肘で軽くオレをつつく。風の音に負けそうな声で、小さくささやいた。
「……三橋? 大丈夫か?」
「だい、じょう ぶ……」
 素早く目元をぬぐうと、浜ちゃんは「そっか。なら、いい」と笑った。
「へーき、へーき。いっくらここがオンボロだからってそう簡単に建物吹っ飛ばす台風なんかこねーよ。ここ、サイタマだし」
 みんなの表情にぱっと明るさが灯る。
「オレんちの田舎、九州だけどさ。九州の台風は半端ねーぞ。こんなもんじゃない。けど、早々アパートはふっとばされない!」
 やっぱり、浜ちゃんはスゴイんだって、オレは思った。だって途端にみんなが元気になった。
「けどさー、確かにすげー揺れるよなー! それでぶっ壊れないんだからこの建物って実はすげー頑丈なんじゃねーの?」
 その意見は斬新だ。
 なんだか希望が持てる。アパートは台風に吹っ飛ばされたりしないし、みんなの親はちゃんと時間になったら帰ってくる。
 山岸荘は実は堅牢な要塞みたいな建物で、オレたちは安心して待っていればいい。
 また風が吹く。
 建物はきしむようにして揺れた。
「ギ……ギシギシ、荘……だ」
「なに? ギシギシ?」
 オレが思わず漏らした言葉に、浜ちゃんが反応した。
「強い風吹くといっつも、ギシギシしてる から……ここ、山岸荘、じゃ なくて……ギシギシ 荘……」
 言葉の最後は小さく尻つぼむ。だけど、浜ちゃんは目を輝かせた。
「三橋、それすげー!」
「え?」
 予想外の反応に、オレは首をかしげる。みんなも目をぱちくりして浜ちゃんを見ている。
「ここのアパートの名前だよ、名前。こんなにギシギシ揺れんだから、確かに山岸荘じゃなくてギシギシ荘だよなあ!」
 みんなの顔がきらりと輝く。
「ギシギシ荘!」「ギシギシ荘!」
 近づく台風がアパートを揺らす。
「ギシギシ荘!」
「ギシギシ言ってんぞ!」
「ギシギシ荘!」
 さっきまで、風が吹いてアパートが揺れる度にみんな不安そうな顔をしていたのに、今度は口々に「ギシギシ荘!」と叫びながら笑ってる。

「三橋、決まりだ。今日からここはギシギシ荘だぞ。お前が名前つけたんだ」

 そう言われてオレはなんだかいろんなもので、胸がぱんぱんになった気がした。
 その後は風が吹く度にみんな大声で「ギシギシ荘!」って叫ぶことに夢中で、結局将棋どころじゃなくなったんだ。


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