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● 特別なフツウ*2  ●



「三橋、そろそろ時間。起きろ」
 誰かがオレを揺さぶっている。オレの名前を呼ぶ声は、よく知っている。優しくて頼もしくて、すごく大切な人の声だ。
 絶対忘れないんだって思っていたのに、毎日顔を合わせていてもわからなかった自分がちょっと情けない。
 けど、すごく大事な人だ。
……誰だっけ。名前だけがちょっと出てこない。あと、ちょっとで思い出せるのに。
 曖昧で柔らかな遠い記憶の世界から、徐々にこっちに呼ばれる。
 最近はあんまり夢を見なくなった。
 練習で疲れて帰ってきて、それからふっと記憶が途切れて、気がついたら朝だってことが多い。すごく。
「浜田、そんなんじゃこいつ起きねーから。見てろ、こーやんだ」
 頭の上で声がする。
 こっちもオレはよく知っている。大事な人だ。すごく、いい人で野球も上手だって思う。
 でもやっぱり、名前が……

「三橋! 握りメシなくなんぞ!」

 突然、すごく明瞭な音が、意味をもって降ってきた。
「オニギリ! 食べる よ!」
 条件反射については、志賀先生から何度も聞かされている。あんまりよく飲み込めてないけど、なんとなくはわかってきたところだ。
 で、泉くんが今オレにしたのが、条件反射……っていうのはわかる。
「おー、一発。さすがっつーか、すごいな、泉は」
「慣れだよ、慣れ」
 眠い目を擦りながら机に突っ伏していた顔をあげると、泉くんが浜ちゃんと話をしていた。
「起きたな。てか三橋、顔に机のアトくっきりついてんぞ」
「え? え?」
 慌てて顔を拭う。
「いや、それどーにもなんねーし。てか、とりあえず顔洗ってこい。浜田、田島たたき起こせ。さっき起きたくせにもう寝てる」
「おー、任せろ」
 浜田くんが浜ちゃんだったってわかったのは、ついこの前のことだ。
 オレはぼーっとしたまま、田島くんを揺さぶっている浜ちゃんをみた。
「だいじょぶか? まだ寝ぼけてんだったらマジで顔洗ってこい。今日はミーティングだけだけど、寝たらモモカンのチョーク飛んでくんぞ。チョーク投げだけだったら確実に三橋よかコントロールいいし」
 視聴覚室を借りて週一回やっている野球部のミーティングは、落ちそうになると監督がチョークを投げる。
 すごく、痛い。
 間違って起きてる人に当たったことは一度もなくて、だから真剣に起きてなくちゃいけない。
 泉くんはオレの席の前にいすを引っ張ってきて座ると田島くんを起こそうとしている浜ちゃんの方を見て笑った。
「浜田がんばれよー。そいつ起こす必勝パターンはまだねーんだよ」
「お前、それずるくね?」
「がんばれよ、応援団長」
 そう言ってまた笑う。
 浜ちゃんを見ている大きい瞳がきゅっと細くなって、ちょっとだけきらきらしてるのが増えた。
「……」
 なんだか、どきっとした。
 あわてて心臓を押さえると、ダッシュの後みたいにどくどくいっている。
(……あれ?)
 ちょっと困って固まったら、隣にいた泉くんがすぐに気づいてくれた。泉くんはいい人だ。マウンドにいる時も、いる時じゃなくてもオレを気にかけてくれてる。
 そういうことに、最近ようやく慣れてきて、慣れてきた自分がすごくうれしくてしあわせだなあと思う。
「どうした、三橋? 腹でも痛ぇの?」
「……泉 くん、は浜ちゃんと仲良し だね」
 そう言うと泉くんの横顔がはっとなった。こっちを向くと少し焦ったように
「そうでもないんじゃね? フツーだよ」と言った。
 オレは首をかしげる。
 前にも一度、桐青に勝った翌日にも泉くんには「こんなの、フツーだよ」と言われたことがある。
 その時の「フツー」と今の「フツー」はなんだか違う気がした。
「フ ツー……なんだ」
 繰り返してはっとする。
「うん フ ツーだよ、ね!」
 オレの感覚はわりとよく人とはずれるから、きっと泉くんの言ったことの方が正しいに決まっている。
 ちょっと恥ずかしくなってうつむくと、泉くんが「ごめんな。フツーとはちょっと、ちがうかもだ」と苦笑する。
「ちが? え?」
 泉くんはさっきオレに「フツー」って言った。でも、今度は「ちがうかも」って言う。
 どっちが正しいんだろう。いや、どっちも正しいのか?
 少し混乱した。
「んー、ちょっとデリケートな話だから、詳しく言えなくて悪いな。ナイショだぞ? オレは浜田のこと、キライじゃねーよ」
「……?」
 泉くんはすごく浜ちゃんと仲がいい。
 四月に浜田くんが浜ちゃんだって知らなかった時にはもう仲がよかった。ちょっと話してはすぐに大きな声で言い合いになるから、最初はすごく仲が悪いのかと思ったけど、そんなの一瞬だけですぐに元通りになる。
 あっと言う間に少し前の口論はなかったことになってる。
 二回くらいそれを見て、三回目には大丈夫なんだってわかって、十回くらいでどきどきと不安な気持ちになることはなくなった。
 泉くんが一番仲がいいのが浜ちゃんで、浜ちゃんが一番仲がいいのも泉くんだからだ。
 小さいころ、浜ちゃんは誰とでも平等に仲がよかった。けど、今は一番がいる。
 たぶん、そういうことだ。
 浜ちゃんがこっちを見て手招きする。
「三橋ぃ、ギブ。田島起こすの手伝って」
「だらしねえぞ、浜田。それくらいのミッションがこなせなくて何が応援団長だ」
「うーるせ。面倒な方押しつけやがって」
 浜ちゃんが泉くんの方を見て苦笑する。目が怒ってるわけじゃない。受ける泉くんも笑ってる。
 やっぱり、この二人は仲がいいんだって、思った。
「三橋、じゃ、情けない浜田手伝うか。てか、ホントにそろそろ行かないと花井がムダにキレなきゃいけなくなっから」
「うん!」
 二人で田島くんのところにいく。
「どーやって起こすんだよ?」
 浜ちゃんに訊かれて、泉くんと顔を見あわせて笑った。
「なに? そこでアイコンタクト? オレ、部外者なの?」
「いくぞ、三橋!」「うん!」
「せーの!」
 一、二の、三で田島くんの上に二人で飛びかかる。
 下に泉くん。上にオレの順でサンドイッチみたいに折り重なった。
「うぐえ! なんだよっ!」
 一番下になった田島くんが、重い悲鳴を上げてじたばたする。
 おかしくて泉くんとげらげら笑った。
「重っ! 痛い痛い痛い痛い! どけよ、お前ら!」
 田島くんが机を叩いてギブアップをアピールする。それがおかしくてまた笑い転げる。
 クラスのみんなが「野球部は無邪気だねぇ」と笑ってこっちを見ているのがわかった。
 すごく、うれしい。
 とても、楽しい。
「……ああ、ちゃんと起きたからそろそろどいてやれ。ウチの四番が圧死するから」
 浜ちゃんがあきれたように言うから、笑いながらオレは泉くんの上から退いた。
「ほら、泉……」
 浜ちゃんが泉くんの腕を引っ張って、田島くんの上からどかせようとする。
 ぎゅっと握った浜ちゃんの力の強さが目に見てとれる。引っ張りあげて、泉くんは浜ちゃんのそばに立つ。
「……」
(今……なんか……)
 よくわからないけれども、どきっとした。さっき、泉くんが浜ちゃんを見ていた時と同じどきっだ。
 ほんの一瞬、泉くんと浜ちゃんが目を合わせる。その一瞬には、もっと大きなどきっ、がきた。
「痛ぇよ浜田、手ぇ放せ」
「……へいへい。おーい、田島ぁ。起きたか? 目ぇさめてなかったら今度はオレものっかるぞ?」
「起きたよ。死ぬかと思ったー。てか、浜田がのっかったらマジで内臓出るから」
 田島くんが大げさにげほげほとせき込みながら起きあがる。
 泉くんは、またさっきと同じ目で浜ちゃんを見てる。ふと、オレが見ているのに気づいてこっちをみた。

「フ・ツ・ウ」

 口だけが動いて、オレに向かってそう告げてくる。
 オレは大きくうなずいた。
 泉くんが言う通り、いまのはフツウなんだ。だけど。
「三橋ぃ、部活いくぞ!」
 田島くんがオレの首に腕をかけて引っ張っていこうとする。
 ちらりと振り返ったら、泉くんと浜ちゃんが笑ってこっちを見ていた。その笑顔は、まるっきり同じ笑顔だ。
 シンクロしている。
(泉くんと浜ちゃんにとっては、あれがフツウなんだ)
 だけど、オレやほかの人にとっては、たぶんフツウじゃない。
 オレのヒーローは、久しぶりに再会した時には「みんなのヒーロー」じゃなくなってたんだと思った。
 よくわからないけれども、浜ちゃんにとっての「特別なフツウ」があって、それを共有できる「特別なフツウ」の人ができた。その時点で浜ちゃんはみんなにとって共有の「ヒーロー」じゃなくなったんだ。
 ギシギシ荘って名前を「すごい」とほめてくれた浜ちゃんは、たぶん今でも同じようにオレに「すごい」とほめてくれる。
 だけど「特別なフツウ」の人には、たぶんもっと別の違う「すごい」を言うんだろう。
 その「すごい」は、浜ちゃんにとってとても大事な部分なんだ。
 なんだかちょっと切なくて、寂しい気持ちになる。
 もう一度振り返る。
 泉くんが浜ちゃんに「じゃ、後でメールすっから」と手を振っていた。
「ああ、後でな」
 笑って手を振り返す浜ちゃんの目には、さっきの泉くんと同じきらきらがあふれていて、オレたちのヒーローの「特別なフツウ」の相手が誰なのか、言葉よりもずっとはっきりと叫んでいる。
 また少しどきどきして、隣に追いついてきた泉くんを見た。
「なに?」
「フツウ に、仲いい……浜ちゃんと」
 言った瞬間の泉くんは、イチゴよりも真っ赤になった。
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