●● 夕暮れに、ばらの花 ●●
夕方の電車から吐き出された人たちの波をかいくぐるようにして、改札へ向かう。
元々、おっとりした性格だと母親に揶揄されることもあるくらいだ。普段なら流れに身を任せるようにしてゆっくり泳ぐ。他の多くの人たちのように、先を争って改札を抜けることにあまり意味を感じていないのだ。
普段なら。
でも、今日の健二はホームに降りた瞬間からそわそわしてしまっている。人波の隙間をねらってすり抜ける。ちょっと小走りで、早く目的の場所にたどり着きたくて仕方ない。
タッチアンドゴーの改札を抜けて右。
待ち合わせ場所は駅中の本屋だ。そこならどちらかが早く着いてしまっても時間がつぶせる。
(あ……いた……)
それでも、佳主馬は大抵店の外で健二を待っている。健二自身が早く着いたときも同じだ。
健二の場合、理由はただ佳主馬に自分を捜させる手間を省きたいということ。それだけだ。
佳主馬はどうだろう?
考えただけでどきどきする。恋愛の、多分今が一番おいしいところなのだろうということは健二にだってわかる。うきうきする。
もう一緒に夜を越えることも知っているし、熱情に任せて乱れる姿だって互いに見せあっている。それどころか、毎日を一緒に過ごしてさえいる。
それなのに、自分を待ち合わせ場所までダッシュさせる衝動は相変わらずで、気恥ずかしささえ覚える。
この感じがいったいいつまで続くのか、自分でも見当がつかない。
今日だって、待ち合わせた理由はものすごく地味だ。単なる買い出しでしかない。
冷蔵庫の中の食材がいい加減からからだし、日常生活に必要な細々としたものが結構補充を必要としている。
キャベツや洗剤や、ゴミ袋や買い置きのアイス。そんなおよそ甘さとは遠いものを二人で買って帰ろうというだけなのに、わくわくしてしまう自分はきっと恋に溺れすぎているのだろう。
佳主馬に知れたら、きっとどん引きだ。
お互いの気持ちはちゃんと確認しているし、だからこその今だがそれでも。
(うん、やっぱりかっこいい)
本屋の前に佇む人待ち顔の佳主馬を見つけて、足を止めてそっと見ほれると、健二は声をかけようと息を吸う。と。
「あのう……すみません。市民会館ってどっちに行けばいいんですか?」
「え?」
「市民会館。小ホールに行きたいんですけどぉ」
出鼻をくじいた相手を見れば、手に大きな花束を抱えた女の子が二人。途方に暮れた様子で立っている。
「ああ、市民会館ね。ええと、こっちの出口でいいんだけど、ちょっと道わかりづらいんだよなあ」
駅前の道は放射状に伸びていて、彼女たちが目指す場所はその内の一本をまっすぐ行ったところにある。これという特徴のない雑居ビルの間の道なのと、駅からではビルの陰になっていて市民会館の建物が見えないから、説明しづらいのだ。
どうしようかと思ったがくどくど口頭で説明するよりは「こっちです」と駅の外まで案内することにした。
腕時計を見ればまだ待ち合わせより少し早い。
佳主馬がすぐそこにいるのにと思うのだが、この状況をわざわざ説明するのも微妙なところだ。声をかけるのがためらわれたから雑踏に紛れて目の前を黙ってすり抜けることにする。
(なんか……)
全くやましいことはないのだが、なんとなく気が引ける。
なるべく見つからないように少しびくびくしながら、雑踏に紛れて佳主馬の前を行きすぎる。すれ違いざま、ちらりと視線をやったが、佳主馬はヘッドフォンで音楽に聴き入っていて、通り過ぎる健二には気づいていない様子だった。
少しほっとすると同時に、ちょっとだけ寂しい気持ちにもなる。
恋をしてからの自分の気持ちほど不可解なものはない。
駅前広場に出て、女の子たちに行くべき道を指さして教えてやる。
「あれ。歩道橋のむこうの。信託銀行と、反対側の建物はここからだと見えないけど一階にカフェがあるんですけど。わかりますよね? あそこの間をまっすぐ行ってください。ちょっと歩くと噴水と建物が見えてくるんでわかると思います」
「ありがとうございます! 助かりました! 三人くらい道訊いたのに無視されちゃって困ってたんです!」
「あの……これ、よかったら」
健二はよほどの救世主だったらしい。女のこたちは、大喜びで口々に礼を言う。花束を抱えていた方のコが一本、小さなばらの花を抜いて差し出してくれた。
「あ、いやそんな……」
ピンク色の小さなばらは、可憐な花を咲かせている。
まさかそんなことになるとは思ってもいなかった健二は、ひるんでしまう。まったく、予想したこともない事態だ。
「ホントに! 受け取ってください! 友だちのバレエの発表会に間に合わなくなるとこでした。ありがとうございました」
夕方の雑踏に、花一輪。
空はオレンジと青の入り交じったきれいな色をしてる。
「受け取ったら? せっかくくれるって言ってくれてるんだし」
困り果てたところに、背後からよく知った声がした。
「わ……! 佳主馬くん!」
振り返れば苦笑している恋人が立っている。ヘッドフォンを外して首の辺りにまとわりつかせている様子が、雑誌の1ページみたいにしっくり決まっていて、はっとさせられてしまう。女の子二人の様子がいろめきたつのがはっきりわかった。
恋人は、やっぱり誰が見たってかっこいい。
「目の前通り過ぎてくからどうしたのかと思ったよ。せっかくの厚意なんだからさ、健二さん」
「うん……そうだね……じゃあ」
手をさしのべるとピンクの花がそっと手渡される。
「もしかして待ち合わせしてたんですか? ホントにすみません。親切にありがとうございました!」
二人でお礼を言ってくれるのだが、視線が完全に突如現れた佳主馬に向いている。
なんだかおもしろくない。
「いいえ。どういたしまして。この人すっごい優しいから……大丈夫ですか? 時間、間に合いますか?」
佳主馬は笑顔だ。得意先用のやつだ。
「あ、いけない。じゃあ。ホントにありがとうございました!」
何度も振り返りながら彼女たちは夕暮れの雑踏に消えていく。
二人してその場にしばらく立ち尽くす。
「健二さんは、モテるよね」
ふてくされた声で佳主馬がぽつりとそう言った。
「佳主馬くんがそれ言う? 今のコたち完全に佳主馬くん見てたでしょ? 明らかに」
「そんなことないよ。健二さんはあの人たちのヒーローだ。かっこいいね。花までもらっちゃって」
「僕は女の子じゃないんだから、花もらったって困るだけでときめいたりとかないし」
「じゃあ」
並んで歩きながら佳主馬は言った。
「じゃあ、なんにならときめくの?」
夕暮れの風が通り抜けていく。
街の灯りがともりだして、出会ったころから随分と身長の伸びた佳主馬の髪の先で光が踊る。
(なににときめくって……それは)
初恋は別の人だった。次の恋もその次も。佳主馬は健二にとって四番目の恋の相手だ。
もっとも、初恋から二番目までは箸にも棒にも引っかからずに砕け散ったし、三番目はかなりいいところまでいったが、やっぱりうまくいかなかった。
口ゲンカや、一緒に夜を過ごした朝一番最初に見る寝顔とか、そんなことは全部四番目のこの人がはじめてだ。
今でもことあるごとに、どきどきしてしまう。
それは、突然見知らぬ人に道を訊かれるのとはまったく次元の違うものなのだが。
「健二さん、自覚ないだけでモテるから時々ムカつく」
佳主馬がため息をついた。
それで健二は苦笑してしまう。
「それはもう、間違いなく佳主馬くんの勘違いだと思うけどなあ」
「大体、優しすぎるのもどうかと思うよ。それが健二さんのいいところだって知ってるけどさ」
多分恋人の自分に対する過大評価は世界最大級だと、健二は疑っていない。
ぶつぶつ文句を言う佳主馬は、なんだかかわいいとさえ思えてしまう。
「行こう、佳主馬くん。タイムセール終わっちゃうよ」
かっこいいのにかわいい恋人は、健二の言葉にようやく機嫌を直して頷いてくれた。
駅前のスーパーは、ちょうど一番の混み具合のようだった。
カートに黄色いレジかごを入れて二人で人波をくぐりながら歩き出す。
「ときめくって、なんかいい響きだよね」
「なに? 今頃」
佳主馬が特売のにんじんをかごに放り込みながら苦笑した。
「今のも結構、僕はときめくけど?」
「は?」
「佳主馬くんが、野菜選んでるのってときめく」
手にしたじゃがいもとタマネギの袋を見比べて「これが?」と佳主馬は首を傾げた。
「野菜にときめくって、健二さん変わったシュミしてるよね。じゃあ、これは?」
艶めくなすを手にして尋ねる佳主馬に「いいね」と健二は笑う。
「うーん、今の結構ひっかけだったんだけど」
「あ、佳主馬くん。牛乳とヨーグルト忘れないで」
佳主馬はうなずいて、売場から迷わずに健二の指定銘柄を拾い上げてくる。健二はレジかごに放り込む佳主馬をにっこりしながら見つめた。
「? 健二さん、好きなのってこっちだったよね? 違った?」
手にしたヨーグルトを持ち上げて尋ねてくる佳主馬に健二は「それであってる。それも、僕は最高にときめくんだけど」と健二は笑った。
「やっぱ、健二さんってヘンだ」
「わかんないかなあ。こういう感じ」
健二の返答にも、佳主馬はやっぱり首を傾げた。
大量の荷物を抱えながら二人でとっぷりと暮れた道を歩いて帰る。
キッチンテーブルの上に、今日の戦利品を並べた。
「あ」
健二は思い出したように夕方もらった花を適当なコップにさしてみる。茎の長さとコップの高さがつりあわず、花はくるんとバランス悪くコップの縁にもたれかかった。
「健二さん、その花、水揚げした?」
「なに? それ?」
「ああ、こういうのは、茎を切って花が水を吸い上げやすいようにしてやらないといけないんだよ」
佳主馬はコップの中の花を抜いて蛇口のところに向かう。キッチンばさみでぱちりと茎を切り落とすと、もう一度コップに戻してやった。バランスの悪さは変わらないが、なんとなく花が生き生きしているように見える。
シンクのところに置くと、ステンレスの銀色にピンクの色が映った。
「……意外だ。こういうこと、佳主馬くんが知ってるの」
「母さんの仕込み。わりとこういうのうるさいっていうか。ちゃんとしろ、って言うから。花、もらう機会多いからさ」
佳主馬が少し恥ずかしそうに言った。
きらり、と健二の中の何かがきらめく感じがする。
「今の。今のもなんか、ときめく」
「さっきから、なに?」
佳主馬がいい加減焦れったそうに尋ねてくる。
「だって、佳主馬くんが僕がどういう時にときめくか? って訊いたんだよ? 佳主馬くんの知らない一面見たらまずそうなるでしょ?」
「……」
佳主馬の頬が紅くなる。
「あと、スーパーで当たり前に僕らの生活用品選んでるとこ見ると、一緒に暮らしてるって実感してときめく」
健二が指を折る。
「それから、なにも言わなくても僕の好きなヨーグルトのブランドがどこかわかっててくれてるとやっぱりときめく」
健二は笑った。
「結構、確率高くない?」
「うん……うれしいかも」
佳主馬は目を細めて、すい、と健二に近づいた。
「やっぱり健二さんは普通にモテる人なんだって思うなあ。自分でも意識してないような小さいことに気がついててくれるのって、ポイント高いでしょ」
近くで佳主馬が微笑む。
「ていうか、今のすごくキた」
唇が触れた、と思ったらもう抱きしめられている。
「……柔軟剤。僕がこれいい匂いって言ったの覚えてくれてたりとか」
言いながら健二の首筋に顔をすり寄せる。テーブルの上には、詰め替えのそれが二つ。ついこの前新製品で出ていたやつに切り替えたところだ。
「こっそり、この前具合がよかったやつ、混ぜて買ってたりとか」
ドラッグストア調達品の中には、さりげなくゴムやらローションやらを忍ばせている。あの店の店員が、二人をホモの関係だと思っているかどうかの確率は五分といったところだ。
「……それは、まあ。二人の共通財布から買うの当たり前だし」
健二が口ごもると、佳主馬は笑ってもう一度キスをしてくる。
「使う? 今、買ってきたやつ。使っちゃう?」
「いいけど。ご飯どうする?」
「健二さん先に食べたい」
「あ……それって、なんかマンガみたいだ」
健二は笑った。
「お風呂にする? ご飯にする? それとも? ってあれ。まさか、自分がやると思わなかったなあ。でもさ」
「なに?」
佳主馬は、なかなか雰囲気作りに協力してくれない健二に若干じれながら尋ね返す。
「とりあえず、食材だけ冷蔵庫いれてからにしない? あと、シャワー浴びたいんだけど」
「本気?」
「うん。せっかく特売でお得な買い物したのにさ。アイス溶けたらいやだよ」
佳主馬は眉を顰める。それから少し大げさにため息。そうして。
「ああ、もう! 健二さん、整理しながら僕が入れるから。パスよろしく!」
「はい」
健二はにこにこしながら、大型冷蔵庫を開けてこっちに手をさしのべる佳主馬に、要冷品を手渡していく。
「うん、これも僕は結構ときめくけど」
「どこが? 豆腐を冷蔵庫に入れてる姿のどこらへんが? 健二さん、絶対に感覚がヘン!」
「んー、なんか、今君と一緒に暮らしてるんだなあって思うとこ? 僕の生活に当たり前に佳主馬くんがいるんだって思うとやっぱり、すごくうれしくて、どきどきする」
健二は「これでラスト」と言って、たまごのパックを手渡す。封を開けて、ひとつひとつ丁寧にたまごトレーに納めると、佳主馬は冷蔵庫の扉をぱたんと閉じた。
「ご苦労様。あと、洗剤とかいつものとこに……」
「だめ。もう待てない。シャワーも却下」
「うん……」