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● 同じ月をみてる  ●




 大人になって健二が覚えたことのひとつに、日本酒をたしなむ習慣がある。
「……これ、スポンサーがくれた。新潟の蔵元が年にほんのちょっとしか作らないヤツだって。健二さん、好きだよね?」
 猛暑で日本中がへばった夏が、そろそろ終わりを告げようとしていた。時折ぐっと涼しい空気の日があって、暑さに喘いでいた人々が「やっと涼しい秋がきたか」と期待しては裏切られ、を繰り返しているこの頃だ。
 だが、今夜は待望のさわやかで涼しい夜になりそうだと天気予報で朝から告げられている。
 スポンサーに呼ばれたのだと昼食会に顔を出してきたその夕方、佳主馬が美しい濃い紫のちりめん素材でできた風呂敷に包まれた一升瓶を土産に持って帰ってきた。
 健二は喜色満面だ。
「わ。うれしいな、なんか今日はちょっと飲みたい気分だったんだよね」
「健二さんが意外といけるクチだったなんて、はじめて会った頃には想像もつかなかったな」
 佳主馬はにこにこしながら土産を受け取る健二に微笑する。
 気づいて顔をあげると、触れるだけのキスが落ちてきた。健二は目を閉じて、恋人の唇を受け止める。
「おかえり」
「ただいま」
 当たり前にそのあいさつを交わせる今を、健二はひどく愛おしく思う。一緒に暮らすようになるまでには結構紆余曲折があったのだが、それすらもこの時間のために必要なことだったとさえ思える。
 年齢下の恋人に、健二はめろめろだ。
 今日は大口のスポンサーとの会食だからと、佳主馬はスーツにネクタイまで絞めている。しなやかな身体に似合った細身のスーツは、佳主馬を青年実業家然とさせるには申し分ないアイテムだった。もう、昔のように「なんだ、キングカズマは子どもだったのか」と、侮られることはないだろう。
 指で結び目を解きながら歩く姿には、少年の名残はほとんど感じない。今も続けている少林寺拳法は佳主馬の身体を鍛えあげ、美しい筋肉をまとった青年に鮮やかな変化を遂げさせた。
 さなぎが羽化する、という表現があるが佳主馬の場合は少年のころからすでに蝶の姿をしていたように思う。
(今の佳主馬くんはなんだろう……)
 こっそり健二は考える。
 ふわりと柑橘系のコロンの名残が香る。
 それは、ここ最近の佳主馬が好んでつけている香りだ。それは「今ここに佳主馬がいる」と健二に強く自覚させてくれる、一番好きな匂いだった。
 共に廊下を歩きながら、健二はきれいに包まれた日本酒の酒瓶を持ち上げてご機嫌な気持ちになる。
 今日は1人でさみしく夕食になると思っていたのに、思いがけずずっと早くに佳主馬が帰ってきてくれた。
(晩酌のあてってなんかいいのあったかな)
 冷蔵庫の中身はどうだったかな、と急いで頭を巡らせる。2人でよく冷やした日本酒を差しつ差されつなんて、きっと楽しいに決まっている。
「あとこれ。いい日本酒なら、こういうのがいいんだよね?」と、佳主馬は片手に提げたままにしていた紙袋の中から、キッチンテーブルの上にデパートの地下で買ってきたらしい包を広げた。
 厚揚げに、たたみいわし、それからお造り。
「うわ……佳主馬くんすごい。完璧。あと昨日母さんからもらってきたきんぴらもあるし」
 健二に賞賛されて佳主馬はうれしそうに笑った。そういう時、一瞬、出会った頃の少年の面影がよぎる時がある。
 健二は眼を細めた。
「健二さん、おつまみうるさいから」
「って言っても、日本酒の時だけでしょ。まあ……ビールは苦手なんだよね。でも、高い日本酒は好きかなあって、最近になって自覚した。甘いのよりも辛口のきりっとした冷酒とかおいしいよなあって」
「なにそれ? どれだけ口が肥えちゃったの?」
 佳主馬は笑って、ネクタイをほどいた。
「半分は佳主馬くんのせいじゃない? もらってくるお酒、いいのばっかりだし」
「別に要求してるわけじゃないけど。確かに、成人式を終えた途端にスポンサーの差し入れがお酒ばっかりになった気がするなあ」
 佳主馬が二十歳の誕生日を迎えた日、この家に届けられた日本全国世界津々浦々の銘酒の数々は錚々たるものだった。
 思えば、あれが健二を日本酒にハマらせるきっかけになったのだと思っている。
 佳主馬といえば、実は見かけに反して、そう酒が強いというわけではない。健二に比べて割と早い段階で顔が真っ赤になる。こっそりと「そこがかわいいんだよな」と思っている。口に出すとひどいめに遭うから決して言わないが。
「シャワー浴びておいでよ。その間に用意できると思うから、ちょっと早いけど飲みはじめちゃおう」
「ありがとう。そうするよ」
 佳主馬は微苦笑を浮かべると「いいけど。今日はあんま、飲みすぎないでよね」と健二の耳元に軽いキスと共にささやいてバスルームに消えていく。
「飲みすぎて困るのは佳主馬くんの方だと思うけどなあ」
 なんだか楽しくなってしまって、健二はくすくす笑いながら、佳主馬が買ってきてくれた厚揚げを焼き網にのせてガスの火を点ける。
「そうだ。枝豆の冷凍のやつもあったっけ……あと、きゅうりもあったよね」うきうきと晩餐の準備を整えていく。
 佳主馬と2人で交わすお酒も、ご飯も本当に美味しい。
 健二はもうそのことをよく知っている。


「うわあ。なんか本格的……」
 リビングのローテーブルは窓際に寄せておいた。テーブルの上に並べられた品々を見た佳主馬は、風呂上がりの上気した頬で健二にそう言った。
 帰宅した時には落ちかけていた日はもうとっぷりと暮れてしまっている。暑い、暑いと思っていたのにもう確実に秋がそこまで忍んできていた。
「でも、全然手をかけてないよ? あ、冷酒を張り切っていい器には入れてるけど。けど冷やすのにはこれが一番いいからさ」
 厚揚げの焼いたのに大根おろし。きゅうりの切ったのにはおみそを添えて。きんぴらは九谷焼のいい器に入れたらなんだか料亭のそれみたいに見えた。お造りはそのまま出しているが、おしょうゆさしは和ガラスのそれだ。たたみいわしはほんのあぶるだけでいいからと、佳主馬が風呂から出てくるのを今か今かとスタンバイしている。
 酒器は日本酒にハマった健二が、オークションで破格の値段で落札した江戸切子の冷酒セットだった。すでにとっくりには封を切った例の清酒を入れて、氷をいっぱい入れたクーラーの中で冷やしている。
 青い色をした表面に独特の精緻な文様が刻まれた江戸切子のとっくりとぐい飲みは、ただそこにあるだけでひどく美しい。さらに日本酒を注ぐと、ゆらめくような影がほんのりとできる。それが何とも言えない風情があって、倍にも味がよくなる気がした。
 佳主馬に言わせると、その持論がある時点で立派な「のんべ」の証なのだそうだが、健二にはよくわからない。
 佳主馬は笑って「ホントに飲みすぎたらだめだよ?」と釘を刺す。その瞳の奥にははっきりと艶めいた光がある。
「平気だよ」と、健二はうなずいた。
 この頃はもう、恋人のそういうサインをかなり正確に読み取れるようになってきた。健二も否はない。
 2人で晩酌したり、美味しいご飯を食べたりするのと同じように、それ以上に佳主馬が欲しいと思う気持ちが健二の中にはちゃんとある。微笑みあう空気の中に混じる色を分かち合える。
「なんで、窓際にテーブル持ってきてるの?」
 佳主馬が不思議そうに尋ねる。健二は「ちょっと、思いついたから」と笑った。
「でも、いいね。帰ってくる時、空に月がもう昇り始めてたんだ。一緒に観たいな」
 ベランダに面した窓を大きく開け放つと秋の夜の涼しい風が入ってくる。クッションを並べて2人で座った。
「あ、せっかくだから電気消そうか?」
「いいね。そうしようよ」
 健二は少しはしゃいでいる自分を自覚しながら、部屋中の灯りを消して回り、佳主馬の隣に腰をおろした。
 空に上がってきた白い月は、もうかなり丸い。どこかで、中秋の名月は実は満月ではない、と読んだことがある。その通り、まん丸にあと少しという愛きょうのある形をしていた。
「お待たせしました」
「いえいえ、お待ちしてました」
 健二は青い江戸切子のとっくりを掲げ、佳主馬の手の中に収まった同じ青をした盃に冷えた日本酒を注いでやる。それから手にしたとっくりを佳主馬に渡した。佳主馬も笑って、なんとなくおそるおそるといった様子で差し出された健二の杯に酒を注いでいく。
 とくとく、と小気味よい音に耳をくすぐられた。
 ちん、と杯を合わせると自然に2人で夜の空を見上げる。
 建物の隙間にそろそろと昇り始めた白い月の姿があった。
 一息に飲み干すと、冷たいのど越しの後に青竹のようなすがすがしい香りがほのかに漂う。なるほど、いい酒なのだと、健二は納得する。
(佳主馬くんといると、どんどん口が贅沢になってくるなあ)
 若干の危機感を覚えつつも、つるりと滑りこんでくるような心地よいのど越しが健二の気に入った。
 佳主馬が苦笑しながら「ホントにいけるクチだから困るんだよなあ」と再び健二の杯を満たしてくれる。
「僕より強いって、どういうこと?」
 文句を言う佳主馬の盃に新しい酒を注いで健二は「ひとつくらい、君に勝てることがあってもいいんじゃないかな?」と笑う。
「僕は健二さんに敵わないってずっと思ってるけどな」
 くい、と煽りながら佳主馬は笑った。
 自分を常に買いかぶりすぎな恋人の言葉などあてにならない。健二は笑って、佳主馬が買ってきたさんまの刺し身に箸をつける。
 ピッチはそれほど早いつもりはないが、心を許した相手と二人きりだと、つい酒が進む。
 なんとなくとろりとしたいい気分になってきたな、と健二は思った。
 空の月は白々として地上を照らしている。吹く風は涼しくて、心地よい。
 ふわふわとした心地で健二は夜空を見上げた。
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