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● 来襲の理一  ●

 健二は「お茶を入れ直す」と言った割に、何ももたずにオープンキッチンの向こう側に逃げ込む。ポットをすごい勢いでにらみながら呼吸を整えた。

(今の。今の、今の今の今の今の今の!)

 全身が真っ赤な炎みたいになって燃え上がっている。
 理一が健二にした質問は明らかに

 もしも恋人に長いこと抱かれなかったら、ほかの男と寝るか?

 という趣旨のものだ。
 理一は、健二が誰かに「抱かれている」と思っている。相手は誰か。
 つまり、それは。

「ふざけんな。健二さんを侮辱するのもいい加減にしてよ。理一さん、言っていいことと悪いことがあるってわかんないの?」
「俺はわりと真剣に訊いたよ?」
「二度とこの家にはあがらせないから、そのつもりでいて」
 佳主馬が捨て台詞とともにこちらに近づいてくるのがわかった。
 背中に理一の視線が張り付くのがわかる。
「ごめん、健二さん。ホントにごめん……」
「い、いや……ごめん。僕はちょっと動揺して……」
 気がつくとがくがくと手が小刻みに震えている。
「理一さんのことなんか、気にしなくていい。二度とこの家にはあげないし。大丈夫だから。僕があなたを守る。そう決めてるから」
 震える手にそっと佳主馬の手が重ねられる。
 リビングからはもちろん、そうしていることは見えない。だが、佳主馬が健二を慰めているのははっきりとあの聡い大人の目に焼き付けられているだろう。
「ごめん……健二さんを、絶対に傷つけたくないって思ってるのに」
 佳主馬が申し訳なさそうに言う。
 健二ははっとして顔をあげた。
「ダメ、だよ。それじゃ」
「え?」
 怪訝そうに問い返した佳主馬に、健二は微笑んだ。
「僕だって君を守りたいんだってこと。ね、佳主馬くん。お茶。僕の代わりに、新しいのいれてくれる?」
「え? ああ、いい、けど」
 佳主馬は一瞬ひるんだ様子で、健二の顔を心配そうに見つめた。
 それで健二は落ち着ける。
「今日、実は僕もすごい楽しみにしてたんだ。君とずっと一緒にいられるって」
 佳主馬はふわりと柔らかな微笑を浮かべる。
「うん……すぐあんなの追い返すから。だから、少しの間我慢してて」
 健二は「だめだよ、そんなこと言っちゃ」と首を横に振る。
「理一さんは大事な親戚でしょ? それに、ああいう人は敵に回さない方がいい。絶対。大丈夫。僕がちゃんと答えればいいだけだから。佳主馬くんは心配しないで」
 それから、きびすを返すと理一のいるリビングに戻る。
「あの、理一さん」
「はい。なんだい?」
 健二は理一の目の前のソファに座ると、まっすぐ正面から難敵をにらむようにして見つめる。
 ひょっとしたらラブマシーンよりも、相手は手強い。
「僕にはすごく好きな人がいます」
 キッチンで派手に湯呑みが割れる音が聞こえた。理一はまるでその音には気づかないような風にうなずく。
「うん……そうだろうなあって思っていた」 
「相手も、僕のことを好きでいてくれてます。だから、つまり……そういうことも、して、ます」
 さすがに赤裸々すぎる告白はぎこちなくなってしまう。息を整えて、健二は続けた。
「さっき理一さんに訊かれたこと、ですけど。僕はその人が好きで好きで仕方ないです。だから、一緒にいたいし、たくさんさわっていたい。ずっと離れていたこともあったけど、でも、その間だって他の人とそういうことをしたいとは思いませんでした」
「うん……まあ、それは、理想だよね」
 理一はつまらなそうに言っていなり寿司を口に放りこんでむしゃむしゃやった。
「理想じゃなくて……これは、僕の現実で真実ですから」 健二の強い言葉に、理一はやっぱり「ふーん」とやる気がない様子で冷めきったお茶をすする。
「おーい、佳主馬ー! お茶、あっついのくれよ」
「理一さんが訊いたから答えてるんです。ちゃんと聞いてください」
 健二はテーブルを拳で叩く。
 と、理一はいやに冷たい眼差しを向けた。一瞬ひるんで、だが健二は思い切って身を乗り出す。
「僕は、理一さんの恋人さんじゃないから、その人がどんな風に理一さんのこと想っているかまではわからない。だけど、離れてたって想い続けることができる人はいます。それは僕が保障する。理一さんは恋人さんのこと……信じてないんですか?」
「やなこと言うねえ……」
 理一はみるみる内に苦いものを噛みつぶしたみたいな渋い顔になった。
 心なしか少し疲れた顔をして、額に手をやるとため息をつく。
「最初はさー、お互いのこと大嫌いだったからね。俺たち、複雑な関係だったし。むしろ、憎んでたと言ってもいい」
 遠い目が今ここにいる健二を見ていないことだけはよくわかった。
 責めるような言い方をしてしまったことを、健二はほんの少しだけ後悔してしまう。
(理一さん、そんなにその人のこと好きなんだ)
 自分自身が選んだ恋が、決して平坦なものではないという自覚が健二にはある。
 そもそも佳主馬と知り合ったのだって、思い出せばまだほんの少し胸が痛くなるほど好きだった人を介してのことだ。健二はしばらくの間、佳主馬ではないその少女と淡い恋を共有していた。
 健二も佳主馬もその時のことを、自主的に口にすることはほとんどない。夏希とのつきあいを決して後悔しているわけではないが、その間もずっと絶望的な恋を辛抱強く温めていてくれた佳主馬を思うと、妙にざらついて痛い。
 出会ってから、もう何年経つだろうか。
(僕は理一さんに偉そうにものがいえるほど、佳主馬くんだけを見ていたわけじゃない)
 理一は微苦笑を湛えた目で健二を見た。
「そもそも、どうしてそういう関係になったのか、今となっちゃ自分でもよくわからないんだよ。最初のエッチなんか悲惨そのもの。二人ともただ痛いだけでちっともよくなかったしね。まあ、あれは準備不足だな。いきなりそういう空気になってなりゆきでしちゃったから……健二くんと違って」
「……え?」
 聞き捨てならない言葉を最後に聞いた気がして首を傾げた健二と、微苦笑と言うよりはやっぱりただのにやにや笑いにしか見えなくなった理一の間に、ものすごい勢いで湯呑みが置かれた。
 中身が半分以上テーブルにこぼれる。
「理一さん、お茶! 焼け死ねるほどあっついやつ。飲んだらさっさと帰ってよ」
 佳主馬が怒りに震えて立っていた。
(あんなこぼしたのに、一滴も佳主馬くんにかかってない……やっぱ、すごいんだなあ)
 健二はそんなことに妙に感動していた。いろいろなことを脳が思考するのを拒否している。
「今、感動的な話をしていたところだったのに。佳主馬こそKYって言われるだろ?」
「そんな言葉使ってるとこが既に空気読めないオヤジだよね。気をつけた方がいいんじゃない?」
 理一は笑って焼け死ぬほど熱いお茶を余裕の表情ですする。
「うん、まだまだ修行が足りてない味がするな。深みが足りない。けど、茶葉はいいな。上田から送ってもらったやつだろ、これ。俺んちと同じのだ」
「人に煎れてもらっておいて、文句言うな」
 佳主馬は言って、健二の隣にどすんと腰をおろす。
「健二さん、今の十分セクハラだから。告訴するなら知り合いにいい弁護士紹介してもらう。一緒に戦おう」
「いや、そこまでのことでは……」
「こういうことは最初に譲歩することで相手がつけあがるんだよ! 逃げちゃだめだ!」
 今にも手を握らんばかりの佳主馬に、健二が苦笑する。
 視界の端では相変わらずにやにや笑う理一の視線がある。

「あの、理一さん……」

 瞬きだけの返事。
「僕は、好きな人のことを信じてます。そうじゃなきゃ、きっと相手からも同じだけの信頼はもらえないし。だから……いいじゃないですか」
「なにが、いいんだい?」
 問い返す理一に健二は笑った。
「相手の気持ちがどうとかって言うより、理一さんその年令までずっとその人のこと好きだったら、これから先はもう二度と同じくらい好きになる相手なんか現れませんよ。だから、あきらめて好きでいてください。その人のこと」
 少し驚いた様子で、理一がこちらを見る。
 なんとなく隣の佳主馬に目を移すと、強い瞳とぶつかった。
「僕も……」
 健二は微笑して、理一に向き直る。
「僕もたぶん、今の相手以上に好きになる人ができる気がしないです。だから、相手の気持ちがどうっていうより先に……ただ、好きでいるしかないから。仕方ないんです」
「ラブマシーン相手に、最後まであきらめなかった君があきらめちゃうの?」
 健二は笑って首を横に振った。
「ラブマなんて、メじゃありません。こっちには最初から僕は全面降伏してますから」
 理一はあんぐりと口を開けると、長いこと沈黙していた。そうしてようやく気を取り直すと、健二にではなく佳主馬の方を向いて言ったのだ。
「……だってよ、佳主馬。よかったな」

「っ!」「……!」


 二人で同時にソファの上で飛び上がる。
 余裕しゃくしゃくの大人は、それを見て大層満足げに笑ったのだった。
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